mixi考

「マイミクが増えれば増えるほど 書くことがなくなっていく」
http://d.hatena.ne.jp/akaiho/20061008/1160282192
たしかにそうかもしれない。

mixiで不合理さといえば真っ先に思いつくのがマイミクという、一律の「友達」機能。

現実世界では明らかに自分のペルソナを使い分けているが、mixiではペルソナが曖昧になる。読んで欲しい相手に向かって日記を書くのでなければ、大抵は当り障りの無い近況報告 或いは「作品」。前者は自分の所属が増えると徐々にその傾向が出て来る。後者はそれさえ越えて殆ど「誰に見られてもいい」という領域までいっている。つまり両者とも「閉鎖的な」mixiの特質を、既に活かしきれなくなったということだ。ブログでだって同じ事ができるからだ。むしろブログのほうがたくさんの人に見てもらえるし、例えば本への出版化の話が舞い込んで来る可能性だってある。その点、あえてmixiで「のみ」公開していることの意味が失われている。しかしだ。個人的にはこの会員制ブログ的なものに満足している。なぜなら―よく言われるように―足跡機能やコメントは私たちの認知欲求を満たしてくれるからだ。恥ずかさがあるという点を除けば、作品を「確実に」みてもらうのに適したメディアだと言えよう。さてブログはというと、挨拶代わり―前者の「当り障りの無い」近況報告―の記事は書かなくても良くなるし、むしろ「現実世界の誰かにさえ」言えない「トゲのある」意見で世界を挑発することが出来る。ただ誰が見たかわからない孤独感があって、完全に「名前の無い自分」になってしまうだけ。言い換えれば、自分が分からない分、(先ほど言及した)「審査員」は誰になるか分からないのだ。運が良ければ役に立つコメントや嬉しいコメントをもらえるし、悪ければ無視かバッシングを食らう。これはネット社会全般について言えることだが、直接現実世界に影響しにくいことは、時に寂しく、時に嬉しいことであろう。しかしそこは「ネット上の自分」をどの程度までidentifyするかを、「現実の自分」が決めればいい。
参考までに。私はかつてgaiaxでHPを作っていた。そこでもやはり足跡機能が付いていて、必ずそれを辿ってじっくりコンテンツを見ていた。mixiと違う点は、友達機能が無い点と、他人のログ(=足跡)を見られる点。色んな人のところに足跡を残せば残すほど、人がやってきてくれる。どこからやってきたのか予想も付かないし、匿名性だから、人間関係を気にするということは全く無かった。しかしその自由さは、やがてモチベーションを失わせてしまった。今は、完全に自由。好きなことを書ける。多分、誰も見に来ないし。(笑)
結論としてはmixiは「確実なオーディエンスを求めて」書ける点では優れているが、現実世界の人間関係との境界線が曖昧な為「余計な挨拶が増える」という点が難点。そして、いわゆる「mixi疲れ」は「自分なりのmixiのやりがい」を見失い、mixiを通して交流する習慣が形骸化したことによる。
はっきり言おう。私は出会いを求めてmixiをやっている。それは出会い系より多少知的レベルが高いくらいのもので。「安心感」には頼ってはいけない。ただ、きっかけとしてmixiを利用するのは大いに在り得るとおもうのだ。既存の友達の為の日記を書くのに疲れて(というか意味を感じなくなって)、ニュートラルな自分を出すために日記を作品集に変えたら、遠のく人も出て来たが、新たな私の一面を知って興味を持ってくれた人もいた。フィーリングが合う人を探すのは大変だが、日記に反応してくれた人とお話して、内面で通じ合うものがあると分かった人になら、私はむしろ(「友達の紹介」なんかよりも)安心できると思う。

動く 止まる


速く動くものを見るにはどうしたらいい?
自分も同じ速さで動けばいいんだよ。
ほら、止まって見える。

ゆっくり動くものを見るにはどうしたらいい?
自分は止まっていればいいんだよ。
ほら、動いて見える。

地球は
人間の身体と同じスピードで動いている

しかし同じスピードのものは 自分と同化し
わたしたちは流動的な時間に気が付かない

人の動きのスピードに慣らされ
どれだけ歩いたか分からない

あるとき
思考が加熱して、炎上して、燃え尽きた。
灰の中に 判読できる文字
かき集めても何もならなくて
宙を見ると
空が動いていた

自分が止まっていることが分かった
ここに私は止まっていても
明日には太陽が昇り
また夜がやって来るだろう

何かを見ようとしてた午後
何かを見えなくしたかった午前

朝、太陽の熱で溶けて透明になった
スピードを遮る様に目を閉じた
地球が起床する音が聞こえた

見えないものたち


蝶になった自分がいるのは、夢なのか現実なのか

分からない
蝶になったという快感
それだけでワタシには十分
愛が想像力が
意識をまたぎ 世界をまたぐ

恒常的な愛は組み込まれているが
喜びや痛みを忘れるホモ=サピエンスは
また歴史を繰り返す
文字も声も力は無く
動物よりは長い一生の中で学習することがその限り

ヒッピーたちは夢と現実を彷徨い
ロックに恍惚とし
彼らの求めた
自由とか 愛とか 形のないものは
目の前にあるけど手に入らなくて
今もその欲望は 幽霊のように 此処に存在する

目先の欲望に駆り立てられている最中
自分の中にいる蝶々が ぱたぱたと 言うことには
自由とか 愛とか
そんなこと。
「それとはちょっと違う」

日常と 非日常と 行為と 状態と 夢と 現実と 言葉たちは
シンクロするのに
噛合わない定め

昔からすれ違うメディア
夢からの暗示 人間たちへの警鐘
伝えることが出来ず
ビルに人が蠢く昼間 大陸の草原に葬られる

東京


17:50 新橋駅

初めて乗るゆりかもめ線には乗客が少なく
向の席へ悠々と足を伸ばせる
その先にはまだ誰もいない

近代的な駅はどこも同じ。
二重の扉が開き誰も乗ってこないのも同じ。
窓に施されているのは、青を基調としたデザイン。
過ぎた夏の記憶のせいで色あせて見えた。

駅を抜けるとそこに見えたのは「まぶしい夜空」
ビルの光 観覧車の光 あんなに遠くなのによく届く光
闇に威嚇するなんて。
広い空間が光で小さく見える

いよいよあのレインボーブリッジが近づいてきた。


線路脇にはバイクを2ケツで乗る男女 電車と共に闇を切り裂いて
わたしたちはお台場という宝箱の中に入っていった



お台場海浜公園駅に到着。

しばし街の光に目を奪われる。


海を臨むデッキで青が沈んだカクテルを飲んだ。

波打ち際まで行くと不思議な気分だった。
海なのに周りは360°ビルに囲まれている。
みなもの光は

消えない花火、

変わらない星空。



なにも
本物に思えなくて。


わたしたちの居る宝箱は
嘘も妬みもみんな詰まっているから

開けるのが怖くて
端っこでこう
ひっそりと息を潜める、ひとりの人間。


怖いから、誰も私を信じないで

横浜


待ちに待ったパイレーツオブカリビアン2を観にいった。
エンディングでは音楽がカットイン、相変わらず潔い終わりで気持ちいい。

みなとみらいのワールドポーターズを出ると
夜の帳が降りようとしていた。
雲のせいで空は白み、光でなく色で塗られた微妙な明るさがあった。
暗くはない、明るくもない。
曇りは光と闇のシェルターである。

ランドマークタワーの展望台から見える夜景が「ヤバイ」らしい。
大桟橋からのも「ヤバイ」らしい。
とりあえず今日は前者を選んで、目的地まで歩みを進める。


夜の一歩は大きい。

闇に足を吸い込まれないよう脚を漕げば、ここは深海に浮かぶ舟。
まず自分の体ではないような感覚にとらわれ、
次第に浮力=軽いという感覚そのものがどこかへ滑っていく。

何故だろうね? 影の世界は想像力の世界だからだよ。



ランドマークタワーの展望台から見える夜景は、星でできたカーペットだった。
ここでもまた、不思議な感覚にとらわれる。
自分は巨人になって、街をズブッ、ズブッ、と歩いていく。
あっと言う間に視界の及ばない所へ行ってしまうんだ。
ここまで眺めの良い場所でも、
水平線の向こうへ行きたい、行きたい、行きたい。

これは冒険欲というより支配欲。
未開の土地ではなく知っている土地でさえも。

知るという言葉の原義は、自分の力が及ぶことらしいが、
ワタシ達には、それに適わない「知っている」モノがあまりに多い。
その焦燥感が、S的な衝動を起こすものと私は考える。
力不足。苛立ち。破壊的衝動。サディズム
あながち間違いでもなさそうだ。

壮大な妄想をしているとき
時間は驚くほどゆっくり進む。


桜木町から見える景色は、
新宿のそれとは違う趣がある。
ビルはそう多くなく、過と疎、遊と勤のバラエティーに富んでいるのだ。日本大通り、赤レンガ倉庫、etc.、都会的なビルディングと異国情緒溢れるカフェが共存している、そんな感じだ。

横浜スタジアムは煌々と光を放ち、満席の観客は蠢き轟く。
コスモランドの観覧車はその乗客と同様に見る者を魅了する。
鎌倉方面へはまばらな銀河が続いている。




翌朝。午前5時40分。
スピードを以て朝の景色を切り裂いていく

友達の自転車に二人乗りし、私は、湘南の町に居た。

クィィィィ クィィィィ

歩調のリズムで奏でるペダルの音は、
静けさを打ち消す音としてはちょっと間抜けだ。

でも身体を侵食していく「白さ」を紛らわすには丁度良いのかもしれない。
朝は白い。
夜型の私にとって、正しすぎて、まぶしすぎて、貴重すぎるんだ。

今日という物語を描き始めた、白紙の上に、誰よりも早く。


何故か、
何かが終結に向かうような気もした。

今を生きている今。
今しかない、というこの瞬間は、始めでも終わりでもないんだ。

現在は
未来の始めであると同時に、
過去の終わりである。

過去は、昨日の夜景は、もう最新の記憶でなく。
今と言う何でもないものに上書きされていく。
それによって今が過去の支配権を握る。

未来は、今日起こることは、もう遠い未来の話でもなく。
今と言う何もしないものが上積みされていく。
それによって今が未来の土台になる。


過去にも未来にも  楽しいと思えることに保障はない。
過去にも未来にも  今「出来ること」に保障はない。

だからチャンスを掴め、なんて陳腐なことを言っているのではない。


景色を抱きしめて。
終わりと始まりの神秘は誰にもわからない

いつ人が死ぬのか 生きるのか

いつ人を好きになるのか 好きじゃなくなるのか

誰にもわからないから。

state(状態)でも、action(行動)でもなく、
考えて。感じて。「見えないもの」を。

終わりゆく時間と空間を。
始まっていく時間と空間を。

気持ちを煽り立ててでも抱きしめよう。
「今」を探しにいこう。

終わりゆく時間と空間を。
始まっていく時間と空間を。

お菓子の家


2006年8月19日午前8時。

外から、窓を通して家の中へ、朝の光が降り注いだ。
木目が露わになり・艶めき・傷は身体についたそれで
モノだということを忘れさせてくれる。
家具に、命が宿った。
木は今も生き続けている。

そういえば家具はmade from woodじゃなくてmade of woodだったなと、無駄でもなかった受験知識を思い出す。


世の中のいろんなものは変化しながら成り立っている。

ナカミ変わらずしてカタチ変わるもの。
それは同じ事だ。
カタチ変わらずしてナカミ変わるもの。
それは別物になっている。
前者は自然物、後者は人工物とでもしておこうか。

木は、素材は、形が中身に追従する。
(ここでいう中身は形が変わるという存在原理。だから変わらない)
人間はどうか。
やはり、中身が「変わる」ということはありえないのではないか。


家という恒常性に慣らされた私達は、
むしろ、より変わることが出来ない。


家具は生きているという話では、
木は食物連鎖の中で、輪廻の中で、木として確固たる地位を保っていることを言おうとした。
つまり、木は形を変えることによって、変わらない中身をもっているのだ。

同じような、変われない私の話をしようと思う。

家は父が設計したこじんまりとした一戸建で、内装はアンティーク調。
石膏像、アーチ窓、ランプ。
そして、本。

何万冊あるか分からないが、ほとんどが父の本で、内容は歴史ものだ。
本で埋まっていない壁はない。
家の外側にまで本棚が進出している。

そんな家の娘なのにも関わらず、私は本を読まない。
正直に告白しよう。
小説やエッセイ、たまに文学作品を、月に1冊読むか読まないか。
あとはレポートのための調べ物で読む本。
それくらいしか読まない。

親の知的資本がこれだけ退けられた話を聞いたことが無い。
私は親不孝者なのだろうか。たぶんそうだ。


それでも文学部にしたのは何故。
実は家族全員文学部なのだ。
父はドイツ文学、母はフランス文学、私はイギリス文学。
見事に割れたのがおもしろい。
何となく、「こうなったらおもしろい」という予想に、
操作されていた気もする。

でも、
それは自分自身の選択ではないのでは?、と言うのは、ナンセンス。


お菓子で出来た家に住む子供は、
お菓子が好きだろうか。


私は、本で出来た家に住む子供。
ありあまる本を見ながら、食事し、眠り、起きる毎日。
風景の変化といえば、タイトルの配列に違和感を覚え、本棚の本の位置が変わったことに気が付くこと。
目を休める緑がないとやってられない。


いつでも、どこでも。
手元に本がないと、そわそわする。

これって好き、なの? ―否。
じゃぁ嫌い? ―否。

とりあえず新鮮味を感じないから感情が湧いて来ない。
好きというか、ただかっこいい(読書家というステイタスが。)
嫌いというか、ただ遠ざけたい(たまに拒絶反応)

前者は見栄の問題で、
後者は内的な問題。

自分の一部になってしまったものであるがゆえ、
拒絶反応が起こったのかもしれない。

鬱陶しいものはいつも、外部でなく、自分の中にあるんだ。
自分の中にあるものは、始末に終えないから。
過去は消せない
教育は否定できない
性格は変えられない

幼少の自分にとって、本とは難しいものだった。
しかし自分が成長すると、読める本が出て来た。
本と一緒に成長した。
振り返る過去は、自分じゃなくて家だった。

そんな訳で。
いつものように、かばんに本を詰め込んで、外へ出かけた。

お菓子の家の少女は、
家を出るたびに、屋根のチョコレートをもぎとって出て行く。

黒猫


今日の海は波が荒く、まるで日本海のそれのようであった。

私にとって海とは、出会いと別れの場所である。

そこにいるだけで、
いろんなことを思い出す。


「あ、」

場所と記憶が一致するや否や、
場所は記号でしかなくなる。


まるで地縛霊のようにその映像は私にとりついた。

これからわたしは、
あなたになにをしてしまうんだろう。


シンクロする夢のような シンクロする現実


. . . . . . . .


海辺で花火をするのは今年で二回目。
今回は豪華な花火セットを買った。


打ち上げ花火が沢山詰まっていた、
それでも両隣の若者グループに規模が負けていた…。


暗がりの中、
ロケット花火を並べて並べて、
20本程の点で描く直線、
導火線を一方向に。


ジリジリジリジリ

ヒュッ!



パァン。


ちっちゃな打ち上げ花火は、
私たちと同じくらいの背丈にみえた。

まだ子供。

. . . . . . . .

突然黒猫が現れて私たちの前を横切った。

「見に来たの?」

それは偶然とは思えなかった。
神の意思、と言ったら大袈裟だろうか。

雲の狭間の紫色光。波の轟き。不気味な雰囲気が盛り上がる中、
使者がやってきた。
悪魔の使者か天使の使者か、

<猫は引き返してまたやってきた。>

私はその猫に人間臭いものを感じた。
人がいるから寄ってきたという言い方は適当でない。
港町で育った彼は人間そのものだろう。



不気味なくらい予想通り、
いつの間にかいなくなっていた。


. . . . . . . .



ふたり、寝転んで上を見ている。

西湘バイパスに等間隔に植えられた、
オレンジ色の灯。
ランプのように、自然な一空間、を照らす。

一つの宇宙がここに。


太陽系の惑星が増えたらしい。そんな話。
そっか。
定義じゃなくて、

「ぼくは星の神秘を知りたいんだ。」







雲がひいた。
「あ、星が、」



   星が、  今日は控えめに輝いていた。
しっとりとした感触が全身に張り付いた。