黒古一夫『作家はこのようにして生まれ、大きくなった』の文献一覧表

参考文献



一、大江健三郎の全著作
一、『大江健三郎文学事典』(篠原茂 九八年九月 森田出版)
一、『大江健三郎・再発見』(大江健三郎・すばる出版部編 〇一年七月 集英社
一、『大江健三郎《奇妙な仕事》以前の既発表全作品』(大澤剛志 九八年六月 江澤文庫)
一、『大江健三郎研究資料ノート・1』(大澤剛志 九二年三月 私家版)
一、その他、既刊の「大江健三郎論」や雑誌特集等

最後の一行がちょっと困ってしまったのである。いちいち「一、」と振るのもよくわからない。

民主主義を支えるドグマ

なぜこんな弁証法みたいなものが生き残ってるのかそういえば分からんね
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1246491353/749

民主主義をささえるドグマだからなのではないか。宗教の権力をささえるのは神の力だし、王権もまた最終的には根拠を神にもってきて、しかし自己を維持できなかった。さすがに神では人を縛り付けるのが難しくなったから、かわりに「自由」とか「歴史的必然」をもってきたのではないか。市民社会にすることで下層民を労働者にするためにそういうフィクションが必要だったとか。しかし現代でも情報化やグローバル化が進んでいわゆる先進国の人数が多すぎるという事態にいたったわけだ。

ドゥルーズってよくしらないけど、自殺したんでしょ? 物事が見えすぎていたのかもしれないね。

秘密と公然

安岡氏が「不特定多数」ではなくて「不特定」あるいは「多数」だというので調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/名誉毀損罪#.E5.85.AC.E7.84.B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/侮辱罪
これは難しい。ようするに守秘義務を確認しあった者同士以外の会話は、すべて侮辱罪にひっかかりうるということになるのか。

しかし、

いわゆる「公然」とは秘密でない行為を指称し、多数人の面前において人の名誉を毀損すべき事実を摘示した場合には、その多数人が特定しているときであっても、その行為を秘密ということができない場合は公然ということを妨げることはできない。 道路通行人にも容易に聴取れる状況の下で怒鳴った場合には、公然でないとはいえない。

引用文の前半だけ読むとこの件に合致しているようだが、メーリングリストは道路でもトイレでもないだろう。この公然というのは、その多数人のうちひとりを証言者として法廷に連れてくれば、「ああ、そんなこと言ってましたね」と証言しうる場合にはじめて成立することだろう。内通者がいてはじめて知られた事実は(kensyouhan氏はいまのところ内通者が誰だか明かす気はないんでしょう?)、やはりじかに公然であるとはいえないのではないか。

そしてやっかいなのは、話題になっているのが、メーリングリストが公開されてはじめて知られた事実ではないということだ。ある人々が懲りずに同じ愚行をくりかえしていたことを確認した、というだけなのである。本人が実行を宣言したことを周囲が信じず(私は信じられると思ったけど)、別のルートから事実を確定して驚いたり怒ったりしている。ちょっと外野の目からすると当惑する光景なのだ。ヌルロイ!

メーリングリストは公の場ではない

と思うんだがどうだろう。だって内通者がいたから検証blogであつかえたわけでしょう? 内通者がいて、その情報も興味深かったので公開する(検証blogに載せる)。内通者は保護のため身分を秘匿する。

これだけ言っとけば良かったんじゃないかしら。

と学会は社会常識が云々とコメントしている人がいるけど、自分がかかえる内情に公共性があると勝手に他人に判断されて公開される人の気持ちも考えなさいよ、ということ。

ご心配どうも

暑いからけじめなくだらだら書いてしまっているだけなんだが…。

理性に支配されているかな? 観察に法則性を感じてそれが実在すると叫びだしたらヘーゲリアン?なんだろうけど(これこそまさに理性主義だ)、とくになにかを実在するって主張してはいないはずだけど…。

理性に支配されているんじゃなくて、どちらかというと理性を見失ってしまったんですよ、なにかの法則性を信じるという確信のほうを失ってしまった。

去年までけっこう自信を持って「ある種の愚かさ」にけちをつけていたけれど、もうこのままで行くしかないねと思いはじめたし。燎原の火のごとく勃興するプロレタリア文学に目をみはった旧来の文学者たちのような気持ち…。

明治大正昭和の文学

政治小説硯友社、紅露時代(このあたりまで不勉強)、以後は家と恋愛、恋愛と性、明治の終焉と大正、モダニズム共産主義、戦前昭和、戦後、石原大江の登場、1968年、といったところか…。

ウラアオゾラブンコの年表とか、とても面白い。

日本人のヘーゲル・コンプレックス

歴史がランダムだといいきる自信は私にはないけど、しかし、日本歴史に古代やら中世やらつけるのは便宜でしかなくて、日本にあったのは記紀以前、律令時代、武家支配、明治以降くらいしかないのだとは思っている。

社会や歴史に法則がなかったにしても、文化や文明は集積していっている(不要になった技術は情報だけでも残す)ので、なにがしかの法則性は感じざるをえない。歴史法則はないとはいいきれないが、小谷野さんのニュアンスはわかる。

ただ明治以降の日本の体制は欧米を手本としているので、資本主義という思想と貿易という実践によって歴史法則にしたがっているかのように発達してきたという事実がある。それに綻びがみえはじめたのが、すが秀実のいう1968年史観ということなんでしょう。

それこそ梅棹史観のように、マケドニアやローマやモンゴルなどの大帝国が辺境に影響をあたえ、かつて辺境だったスペインやイギリスや列強諸国がいま大きな顔をしている。これは法則なのかどうかわかりませんが、形式ではありますよね。圧迫された辺境がおしかえしているという意味で。

たしかに未来そのものは予測できないけれど、もしXXでなかったらという仮定を増やしていけば未来はあるていど予測できる。確率が入ってくるけれど。仮定というのはつまりは知識であり教養であり、リスクを軽減するための材料。

そんなに人間は自己の生が有限であることに不安を抱いてるんですかねえ。「自分は死なないと思ってる」なんて、それこそ人間の条件ですらあると私なんかは思いますけど。現世での望みを達成したと自認した(らしい)道長は晩年仏教に凝ったそうですけども、自己の有限性をなやむなんてのは天皇外戚ベルリン大学フライブルク大学の総長くらいのものなのではないですか。それを人類の宿命のように観ずるのは現代の超コミュニケーション社会の錯覚に毒されているからではないか。

古い、新しい

私にとってはウルトラマンレオのほうがウルトラマンより古い。就学前にレオを再放送で見、マンのほうは十歳前後のころに見たからだ。本放送でみたのは80のみであった。

どうもおれの世代は上の世代のように素直にオタクになれない傾向があるんじゃないかと思うが、おっと、一般論はつつしまなくちゃね…。

大江研のザブローニ博士

このごろ通うようになった飯田橋ブックオフに筒井全集がわりにそろっていてちょくちょくながめるのだが、初期のころの文章をよむとなんだか苦いものがこみあげてくるのだ。

さて大江健三郎だが、世代ごとに世間は大江をどう読んできたかというのをだれか勤勉な人がやってくれないかと思うのだ。それこそ里見弴(五十ちかくちがった)はなにか言及したことはあったのかとか。谷崎は拒否反応をしめしたらしい。

じつは死者の奢りから万延元年までのあいだの小説をほとんど読んでいないことに気がついた。個人的な体験はむかし読んだ。図書館に全作品のシリーズがあるし、ぼちぼちと…。

http://www.shikoku.ne.jp/jyouhoku/bungei/koukou.htm

渡辺広士の書誌やウィキペディアへの立項も、だれかやってくれないかな。戦後左翼文学史とか、そろそろやっといとかないと…。

身近な人が死んでもなかなか態度が切り替えられるものではない

藤岡氏が唐沢俊一が死んだ志水一夫の家を訪ねて蔵書の状態を調べにいく日記の書きぶりを軽薄だと怒っておられるが、さてそんなに怒るほどのことかと思うのである。どうも死者への敬意というものの考え方が抽象的でありすぎる感じがするのだ。ごく単純にいって死者への敬意というのは「そうしないと祟るから」必要とするはずのものであって、唯物論的には亡くなったなどとことさらに言わずにたいていは死んだと表記する小谷野さんのほうが正しい。藤岡氏が志水一夫の遺族と面識があるのならば暗夜行路の緒方の談話に登場する或る男のように「強面に」唐沢に「意見をする」資格はあるだろうが、もし赤の他人のくせに怒ってみせている(読者に!)だけなのなら、これは滑稽な事態でしかない。

身近な人間にとってはある人が死んだってそんなにすぐにはいそうですかと気持ちが切り替わるはずがないのはわかりきったことだから、ここにかぎっては唐沢俊一の書きぶりは「普通」だろうと思うのだが。