ランダムであることと、目的

ハービー・デントはジョーカーが仕掛けたふたつの爆弾のどちらかが爆発するのはランダムだった(さきに助けが来たほうしか爆発をふせげない)というジョーカー自身の弁明を受け入れる。ハービーは、ジョーカーが提示した論理に乗ることにしたのだ。

ランダムに行使するという手順をかませることで、ハービーはつねに復讐を実行しつづけることが可能となる。この復讐に失敗は存在しない。手段が目的と同一化する。

遅れてきた青年

1961年に政治少年死すでもめて、1967年に万延元年のフットボール、1973年に洪水はわが魂に及びという流れはきれいなくらいに社会状況に沿っていて、しかし大江はそれ以前はどちらかというと政治からの遠さをテーマにしていたが、1960年代から遅れてきてからは、同時代ゲームからは偽史でもあるような森のなかの村をテーマにして以降も1968年史観にきれいにはまっている。

大江健三郎を批判するという現象は面白い。大江健三郎と、読者と、大江を認知してはいても読むまでにはいたらない人と、これらの関係は、批判をよぶほどに影響しあっているのか。著者は大江と政治的に近いから本のような表現となったが(吉本隆明もでてくる)、想像力を批判するさいには客観的な立脚点などないのだろうなということは思った。
作家はこのようにして生まれ、大きくなった―大江健三郎伝説