妙な話

『秘密とウソと報道』を立ち読み。草薙厚子の章を読んで、家に帰って調べたら、日垣隆は草薙ばかり非難しているけれど、この鑑定医のとった行動もわからない。少年が殺人者かどうか決めるのは家庭裁判所であって、当人がそれに鑑定医として関わっているのだ。なのになぜわざわざ外部のジャーナリストに通じようとしたのか。家裁にたいする背信ではないかと思うのだが。ただ、法的には鑑定医の守秘義務はないらしい(弁護士の主張)。http://www.videonews.com/interviews/001999/000964.php

「少年は殺人者ではなかった。それを世に伝えてもらいたくて、ジャーナリストに警察や検察の供述調書などをみせました。このときの約束事は、『見せるだけです、コピーはダメです、供述調書の直接引用はしない』というものでした」と打ち明けた。
「私は外出するので、草薙厚子さん、講談社の記者、カメラマンなど関係者4人に住まいの鍵を預けました。その間に、調書や鑑定書をデジカメで撮影したものです」と明らかにした。さらには、「出版前には、崎濱さんへの原稿の最終チェックさせてもらう、という約束も反故にされました」と語っている。http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2009/01/28024831.php

なんだか妙な話だと思う。まあ、虫のいい人たちがろくに信頼関係も築かぬままに互いを利用しようとして、どちらも不幸になったというお話なのだろうか。


秘密とウソと報道 (幻冬舎新書)

秘密とウソと報道 (幻冬舎新書)

『新・UFO入門』

そういえば読んでいなかったなあとおもって立ち読みしたのだが(二刷)、そうか、なぜUFOを見るのかを考えたかったのか。しかし、そんなのは単に病んでるから、とか、おかしいから、でしかないんじゃないか。キリスト教の科学版くらいの気持ちで、みんな騒いでいるんじゃないのかな。

それこそ江川式の「妄想」だ。ふつうの人がホビーとして楽しむレベルのフィクションまで江川は妄想とみなしてしまう。

宇宙人なんかいるわけない。幽霊なんかいるわけない。死後の世界なんかあるわけない。ないものを空想する理由なんか考えたって仕方ない。

後半に、国会で麻生がしたUFO答弁がながながとコピペしてあって、どういうふうに原稿を作成しているのか、なんとなく想像がつく。ワープロソフトに資料をばしばしコピペして、文章を変えていくんだろうな。メモをどんどん拡大していくわけだ。

拡大していく原稿(もとはコピペ“メモ”)とは別に、内容についてのメモをつくって原稿と照らし合わせればいいのだが、そういう手間はとらないのだろうな。

論旨の方にばかり気をとられ、紹介部分の原稿チェックを怠っていたのが原因。http://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/13.html

このチェックというのは、「ちゃんと加工したかを確認する」チェックということだろうな…。

評論とコピペと商業

創作家というのがもともと現実から題材を得ている。悪く言えば現実にたかっているわけだ。評論家は他人の創作を簡略に紹介するか、一般人がなしえないほど深く読み込むかしていただかなくては困る。

一九八〇年代からの特徴として、カタログ文化というか、紹介することに妙にあつい視線が注がれることがあるようだ。その萌芽は六〇年代からあって、小林信彦などそうだろう。興味ないのでよく知らないけど平凡パンチとか。

カタログ文化とコピペと唐沢俊一の世代との関係というのは、調べてみたら面白いんじゃないか(要するに私はやらないよということ)。創作することの凋落と、あれこれ語ることの隆盛とはほぼ同時に起っているのではないか。伊丹十三だって、この流れでみると面白い。文化のカタログ作家としての大江健三郎とか。

創作が開かれていることなどあり得ない

http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20060930/1159600158
マンガとしてどうかというのは、それこそためにする公共事業的な言辞にしか思えない。だいたいマンガ総体のことなど読者である私にとって、いや作者である江川達也にとってさえも、関知するところではないだろう。

単に牙山の戦いや黄海海戦が面白かったから残念だというだけなのだが。ある人が、さもしく、小ざかしく、品がなく、醜悪だって別にいいと思うのだが(というかもともと人間ってそういうものなんじゃ…)。だいたい「あれ? 増刊を買っちゃったかな?」って、増刊に載った作家への侮蔑ではないか

そもそも、創作が開かれているというのが、評論家を食わせるためのうそっぱちとしか思えない。私も明治のことに興味をもつまでは、このマンガに関心なんかまるでなかった。この作品を読めるようになった、面白いとおもうようになった自分に、まずびっくりしたのである。知の快感というのは、そういうような状態を言うのであって、したり顔で「マンガのテイをなしていない」と裁くことではないだろう。

『日露戦争物語』

法と行為のあいだに解釈がある。江川達也は解釈のことをしばしば妄想として切り捨ててしまう。馬鹿な人にたいして、法と行為がどう関係するのかをあいまいにすることを、江川はまたマインドコントロールと呼ぶわけだ。

絵が雑になるのも最後の二巻ぐらいで、あとはまあパンパンにも意味がある。戦場は、外燃機関が唸る音と発砲音、ラッパ、掛け声に満ちていた。パンパンが描きたかったのかと揶揄する人がいるが、それもひとつあるのに決まっているのだ。

揶揄する人が作画がダメという言い回しを使うが、江川達也はデッサン力があるからタッチが雑になっても、うまいなあと思う。終幕の破綻はゴールデンボーイの再来で、こういう、やりたいことはもっといっぱいあったんだぜと言わんばかりの、嫌みな終わらせ方が好きなんだなあ、と。

言葉だけで考えることができる

私は適宜、言葉とイメージと常識とを組み合わせることで話をするのだが(というよりイメージ過多なくらいだ)、ふと気づいたのだが、イメージや常識を用いなくても話はできる、言語は運用できることに気がついて愕然とした。言葉だけで考えているような人というのは、いる。

イメージ(想像)というのはまさに過去の経験なわけで、経験していないことのイメージは理念の類だから日常生活では関係ない。私の場合、会話する際には、あれ見た? などと言って、すみやかに場を設定する。あれやったことある? とか。これがない人の会話は、江川式にいえばようするに妄想だから、相槌うってつきあうしかない。

言語は人を動かさなければ半端なものであって、動かし方動き方には方法つまり作法がある。