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mailonesghの書評

2014-09-28

幸福について 人生論

| 21:33

幸福について―人生論 (新潮文庫)

幸福について―人生論 (新潮文庫)

ショーペンハウアー 自分を救う幸福論

ショーペンハウアー 自分を救う幸福論

人間の幸福に対する二大敵が、苦痛と退屈である。われわれの生活はこのどちらかを行きつ戻りつしている。苦痛とは困窮欠乏のことであり、退屈とは、安全と余裕のことである。

人間が幸福で健やかであるということの意味は、われわれの願望が満足へ、その満足からまた新しい願望へという移り変わりが、スムーズに速やかに進んでゆくことにすぎない。満足の得られない状態が苦悩であり、新しい願望が何かわからなくなってしまった状態が、退屈である。


全く自己自身のあり方に生きていて差し支えないのは、独りでいる間だけである。だから孤独を愛さない者は、自由をも愛さない者というべきだ。というのは、人は独りでいる間だけが自由だからである。強制ということが、およそ社交には切っても切れないつきものである。


人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。そういう人の精神には、独自な運動をみずから掴むだけの原動力が不足している。


対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。


本を読むことに気をとられて、現実の世界を見落とすことは良くない。現実を見ることは、読書などと比較にならないくらい、自分で考えるきっかけと刺激とを与えてくれる。具体的に存在するものは、根源的な力をもっていて、精神に刺激を与える。しかし単なる経験は思索の代わりにならない。また、思いついたことは、いつも書き留めておくべきである。


老齢期の主な欲求は、気楽にしていることと、安心していられることである。老人になってもまだ勉強する意欲があり、音楽や芝居を好み、外部のものに対する感受性が残っていれば幸せである。



感想

勢古さんの本「いつか見たしあわせ−市井の幸福論」で紹介されていた本。勢古さんも、幸福論として一番しっくりくると言っていたけど、僕も紹介文を読んでかなりのシンパシーを感じてしまったんだよね。

こうして本書を読んでみても、共感できる部分ばかりで、読んでいて楽しくなった。悲観・厭世主義の書を読んで楽しくなるのもどうかと我ながら思うけど。今後、僕の立ち位置の拠り所として示すのにこの本はぴったりかもな。


もちろん、人にはそれぞれ異なった生き方がある。ショーペンハウアーも、「人柄・人格に合った生き方を選ぶことが大事だ」と言っている。僕にはこれが合ったというだけの話。

最近、会社の研修において、自分が重視している価値観の上位5つを挙げるという課題があった。僕が選んだのは、上から、自立性、プライベートの時間、個性の発揮、安全性/安心感、多様性。自立ってのはブログプロフィールの人生目標にも掲げていることなんで当然。それによって、不確定要素となりやすい人間関係を最小限にコントロールする。そうして、誰にも邪魔されないプライベートの時間を楽しみたい。そのプライベートにおいて、自分の興味あることを楽しむ。そうするためにはまず、安全/安心を確保するためのお金がいる。必要最小限で十分だけど。最後に多様性。色々な楽しみの対象を見つける。もちろん、上位の価値観を損なわない範囲で。


こうして僕の望みは抽出出来ているんだから、その達成に向けて今後とも頑張っていきたいね。

2014-09-21

人生論ノート

| 17:11

人生論ノート

人生論ノート

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。


我々の生活は期待の上になり立っている。

期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である。


旅について

旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせるのである。

人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。旅において出会うのはつねに自己自身である。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。

旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。



感想

勢古さんの本「結論で読む人生論」で紹介されていた本。人生論と言ったときに、著者の年代の人たちがまず頭に浮かぶもの、らしい。僕は聞いたことなかったけど。というわけで読んでみた。


内面的な幸福、外に現われない幸福は幸福ではないと言う。外に現われ、人に影響を及ぼすものが本当の幸福だと。そんなこと言ったら、僕には幸福はハードルが高いものになっちゃうんだけど。「幸福は各人のもの」って言ってるんだし、人それぞれの幸福があったっていいだろう。


期待の原則について。僕も昔はもっとがっちりと組み込まれていたな。そこから多少脱け出ることが出来たからこそ、今の多少の精神的強さがあるんだと思う。そして、完全脱出したいからこそのアリリタ願望。自分の人生は自分のためにあるんだから、他人の思惑に取り込まれたくはない。まだ道は遠いので迂闊なことは出来ないけれど、それでも、終わりを見据えていればこそ取れる行動もある。流されることなく、自分の本当の望みを達成するために最適な道を選んでいきたい。


旅についての話は面白い。日常からの脱出。だからこそ、僕は旅が好きなんだろう。つくづく、僕は自由を求めているんだな。そして、旅は人生に通じる。一人旅が好きな僕は、やっぱり人生も一人で歩んでいくのが性に合っているんだろう。触れ合いはたまにで十分。

2014-09-14

会社員の父から息子へ

| 11:44

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

わたしが現実に知っているのは、わたしの父とわたしの関係だけだ。そして、わたしが知ったのは、父親は家の中ではひとりだということだ。父と息子はぎこちないということだ。そして、それでいいと思っている。


すべては人間がこしらえた物ばかりなのである。そして人間は、それを価値あるものとしたのだ。意味もまた生みだされた。ありとあらゆる無意味に意味をつけたのである。目的も夢も意味とした。そうである以上、わたしたちは生きている間は、意味化された無意味を、そのまま意味として生きればよいのである。そして、それ以外にはないのである。

問題は、どんな無意味を自分の生きる意味とするか、である。どれを選択するかは自分次第である。自分で作り出してもいいが、そこでその「人間」がきまってくる。それが価値観である。


三十代の後半頃だろうか、「幸せ」なんかおれはいらないなあ、と思った。男は、女と子どものために働いて、死んで行けばいいのである。女と子どもがいなければ、ひとのために生きて、死んで行けばいい。もし幸せというものがあるのなら、男の幸せは一番最後だ。これまで幸せになりたいと思ったことは一度もない。


わたしは父親としてはほとんどなにもいわなかった。ほとんどなにもできなかった。しかし、「父」の心としていつも願っている。どうか、雄々しく、やさしく、強く生きていってほしい。惜しみなく働き、惜しみなく愛し、惜しみなく生きていってもらいたい。きみたちは、わたしの「意味」そのものだ。



感想

引き続き、「定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。同じベース・出発点から始まった著者と僕の思想に大きく異なる部分があるのは、著者には妻がいて、子供がいるからではないか。元々違いがあるから結婚に至ったのか、それとも結婚によって変化した部分があったのか。そんなことを思いながら読んだこの本。


著者と子どもについてだけでなく、著者と両親との関係についても語っていく。

いますべてを思い返してみて、もしもこの世に「幸せ」というものがあるのなら、わたしはただ父と母の子として生まれてきたことだけで、これ以上ない「幸せ」だったのだ。

僕にとっても、両親がいたからこそ今の僕があるわけで、感謝しているし、尊敬もしている。両親の元に生まれることが出来て、「幸せ」だ。もし僕が結婚し子供を持ったとしても、両親以上のものを提供は出来ないだろう。そこにはやっぱり、越えがたい壁があるなあ。


でも。そんな、子を想う親であっても、絶対の道を示せるわけではないし、援護が出来るわけではない。「絶対」が無いんだから当然ではあるけれど、結局、自分の価値観に基づいて行動することしか出来ない。その価値観が、子のものと対立することも当然あるだろう。自分のことを最も考えてくれるであろう両親であってもそうならば、全くの他人にそれを期待できるはずもない。後から振り返って和解出来る思想もあるけれど。それを望めない、根本的な違いというものもある。そしてそれは、多様な価値観の存在するこの世界においては当然のことだと認識している。

ならばやはり、自分の持っている価値観と適合する行動を取れるのは、自分をおいて他に無い。他人に「与える」ことも、それって本当に当人のためになってるんだろうか、と考えてしまう。もちろん、完全に一致しなければ意味がない、というものではないんだけどさ。こういう点にも効率を求めてしまう自分がいる。


我ながら、極端な思考に走ったものだ。もちろん、部分部分他の人と価値観が一致することはあるだろうし、自分が最も大事にしている所が一緒ならば、共に歩くことも可能なんだろう。ただ、今の僕が目指している最大の目標は、「誰にも依存せず強く立つ」こと、なんだけど。


最適なものではないとしても、人が人を想う気持ちは尊い。著者も子供に対する想いを綴っているけれど、他人のことながら、すごく有難く感じる。僕の両親も、同じように想ってくれているんだろうな。それには出来る限り応えたい。返しきれるものではないけれど。

先月、父が入院した。すぐに退院出来たんだけど、もうそういう年代だよな。祖父母が同じ状況になったときは少し遠いものを感じていたんだけど。それを父に置き換えると、やっぱり来るものがあるね。いつまでも生きていて欲しい、例えどんな状態であっても、って願う人の気持ちがちょっと分かっちゃったよ。我ながら自分勝手だよな。でもまあ、僕にも人の心があったってことかねえ。それがちょっと嬉しかったり。

2014-09-07

いやな世の中−自分様の時代

| 12:34

いやな世の中 (ベスト新書)

いやな世の中 (ベスト新書)

いやな世の中とは、いやな価値観が支配的となり、それに全身を委ねるいやな人間が増えた世の中になってしまったということである。大人から子どもまで、自分自身という存在じたいが生きることの目的となった。それが、いやな価値観の正体である。


「自分」以外のものにはまったく関心がない。「自分」以外のものは「自分」ではないから、という理由だけで、どうなろうと知ったことではない。かれらが要求するのは「自分」への尊敬である。世の中は自分の思い通りにならなければならない。


つねにこころのなかに人生の最低線(基本線)を引いておくことだ。無為いいとも、家のなかでじっとして燻っていればいいというのでもない。夢や希望はなくても、その時々の喜びはいたるところにある。

もし人間に幸せというものがあるなら、いかにこころの平安が保たれるか、というところにしかないような気がする。けれど、このことほど困難なこともない。夢や希望がなくてもいい。静かな平安の一日がある。それが一日でも長くつづけばいい。



感想

定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。色々と本を書いているみたいだったので、それらも読んでみようかと思って。似たような性向を持った人だと思っていたけど、相反する部分も持っているようだな。「自分様」とか「自分バカ」とか、これは僕に当てはまるような言葉だろうし。


権利を声高に主張するつもりはないけど、使える仕組みを使わないのはもったいないと思っている。まあ、対立するのはあまり好きではないので、我慢する場面も多いけど。でもそれにしたって、そっちのほうが費用対効果が高いと判断したからであって、特に溜め込むことはない。

あと、「人は人、自分は自分」「自己責任」って考えも強い。自分のことを考えてくれる人もいるんだろうけど、それを待っていたって仕方ない。自分のことを一番知っているのは自分自身。ならば自分で動かないでどうするんだ、って。動かないというのも、それ自体がその人の選択。それが最適だと思ったんだから、その結果は黙して受け取ればいい。失敗だったと思うのなら、今後の教訓にすればいい。

余裕の無い世の中になったってことかもしれないけど、それこそ、自分にコントロール出来ないものを嘆いたって仕方ない。その条件下での最適化を図るのも、自分次第。世の中が流動的になったってのは、僕にとってはいい面もある。縛られるのは好きじゃないからな。


「人生の最低線を引いておく」ってのは、勢古さんの本を読んでまさに思ったこと。やっぱり、同じベースからスタートしても、そこから派生して得られる結論・考え方ってのは人それぞれ違ってくるもんだね。そういう違いがあるからこそ世の中は楽しいんだろうけど。

2014-08-31

人生の意味の心理学

| 23:17

人生の意味の心理学

人生の意味の心理学

人間は、いつでも−自分自身の弱さや不完全性や限界のゆえに−他の人間に結びつけられている。彼個人の幸せのための、また人類の幸せのための最大の一歩は、交わりである。

個人心理学は、三つの主要問題−仕事、仲間、性−のひとつに属さないようないかなる人生の問題をも知らない。そして、各人は、まさにこれら三つの問題への対応の仕方を通じて、人生の意味に関する自分の内奥の確信をまぎれもなく顕わにするのである。


あらゆる失敗者は、仲間感と社会的関心が欠けているがゆえに失敗者なのである。私的な人生の意味などというものは、実際、そもそも決して意味と呼ぶべきものではないのだ。意味というものは、他者との交わりにおいてのみ可能なものなのだ。

人生の意味というものは人類全体に関心を持つことである。


一個人のもろもろの感情は、その人が人生に与える意味と、自分の努力のために設定した目標の刻印を帯びるのである。これらの感情は、常に主として、彼の目標ならびに彼の一貫した人生のスタイルに依存しているのである。



感想

座右の古典」で紹介されていた本。著者のアドラーは、フロイトユングと並んで「心理学界の三大巨頭」と称されている人らしい。今回初めて知ったわけだけど。

アドラーは、人との結び付き・協同こそが人生の意味だと言う。自分のことしか考えないのは不幸なやり方だと言い、病人や犯罪者と結び付ける。アドラー心理学がこの一冊で分かるわけでもなく、統括して言えるわけではないけれど、やっぱり反発を感じてしまうよね。僕の目指しているものとは違うので。


僕としても、他人を害してまで自分の道を貫き通そうとしているわけではない。Win-Winになるなら、それに越したことはない。ただ、他者の介在が絶対条件だとは思っていない。そして、どっちでもいいのなら、わざわざ負荷を増やす必要も無い、と。他者のために行動しているように見えても、それって結局は自分の益になるから、なんだよな。一緒でないと実現できないことだったり、今後の影響・関係を考えてだったり、そう出来る自分に対する満足だったり。人のためと言っている人は、本当にそこには意識のすり替えや誤魔化しは無いのか?と思ってしまう。


完全なる自己犠牲ってのも確かにあるんだろう。でもそういう、自分よりも他者の益を考える人って、自分の価値を過小評価し、他者の価値を過大評価している面もあるんじゃないかなあ。自分は無理だから、他者の可能性に賭けている。それって、見方を変えれば自分の責任の放棄だろう。責任転嫁。意味の先延ばし。延ばした先にも結局意味は無い。

まあ僕も、不完全な人間だという自覚はあるけれど、だからといって他人の価値を妄信はしない。自分がダメなら他者だってダメ。そこに大した違いはない。ならば自分を生きた方がいい。

それは他者を自分のレベルまで下げる行為、かもしれないけど。でも、自分を他者より低める自虐よりはマシだと思う。


これまでの人類史において、人は他人と協同することでここまで生存し、発展してきた。そういう遺伝子が残ってきたからこそ、協同が普遍的な価値となっている。これに反する考えは異端として排除される。でも、普遍的な価値だからといって、それがそのまま絶対的な価値になるわけではないだろう。

今後も生き残っていくのはそういう人たちで、僕は淘汰側の人間だとは思う。だからといって、生き残るため・次代に繋ぐために考え方を矯正しようとは思わないけど。それが人生の意味だ、とは思っていないので。