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2017-05-20

サピエンス全史 上

| 14:15

私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。


かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。だが、この物語は夢想にすぎない。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時代を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。

より楽な暮らしを求めたら、大きな苦難を呼び込んでしまった。それはこのとき限りのことではない。苦難は今日も起こる。


人々が、ごく個人的な欲望と思っているものさえ、たいていは想像上の秩序(ロマン主義国民主義資本主義、人間至上主義神話)によってプログラムされている。

ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。自らの束縛を解いて多種多様な感情を味わい、さまざまな人間関係を試し、慣れ親しんだものとは異なるものを食べ、違う様式の音楽を鑑賞できるようにならなくてはならないのだ。これらすべてを一挙に行なうには、決まりきった日常生活から脱出して、お馴染みの状況を後にし、遠方の土地に旅するのが一番で、そうした土地では、他の人々の文化や匂い、味、規範を「経験」することができる。「新しい経験によって目を開かれ、人生が変わった」というロマン主義神話を、私たちは何度となく耳にする。



感想

この本が凄い、ってのは色んなところで宣伝されていたので知ってたんだけど、タイミングが合わずにそのままになっていた。今年初め、定期的に読んでいるブログpoohの毎日」で取り上げられた際に再度思い出し、ようやく予約するという行動を起こし、このたび遂に読むことができた。評判どおり、「銃・病原菌・鉄」を彷彿させる面白い読書になった。面白いと分かっているのに他にもやることが多くて手が付けられないってのは、本当にもったいないよね。アリリタした暁には、その辺の取りこぼしをどんどん回収していきたいもんだ。


農業革命については話は特に興味深い。本でも書かれていたけど、より良い生き方を目指していたはずなのに、逆の結果になるというのは起こりうること。独身であり、収入に伴って生活水準を上げるようなこともしていない僕ではあるけれど。フルタイムで働いているという現状が、既に罠に嵌りこんでいるとも言える。リスクとリターン、費用対効果を考慮した上での現状であり、納得してはいるけどね。ただ、安全マージンを取り過ぎることなく、その時が訪れたならば即決断し実行に移したい。


過去、農耕を選択しなかった狩猟採集民は淘汰されていった。現代において、主流の生き方を選択しない人が淘汰されることはない。まあ、子供を持たない道を選べば、次代では消えてるんだけど。そんなことは気にせず、選択が可能になった現代の幸運を喜び、好きなように生きていこう。


自分の欲望が、世の中に影響されてプログラムされたものだという話。これは確かにその通り。消費主義からはある程度自由になっている僕だけど、色々な経験をしたい・旅をしたいってのは僕の中でもかなり上位を占める欲望だからな。成長欲からは解放されているし、純粋に、それが楽しそうだから、という理由ではあるけれど。まあ、世の中の流れに完全に逆らえるものでもないし、そうしないと満足が得られないわけでもない。オンリーワンな自分なんかは目指していない。世の中の流れ・傾向を自覚しつつ、その上で判断して行動していきたい。

2017-04-15

ゲンロン0

| 14:18

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

観光は、知識の拡張というより、むしろ想像力の拡張と不可分のものである。


現代はけっしてナショナリズムの時代ではない。かといって単純にグローバリズムの時代でもない。現代では、ナショナリズムグローバリズムというふたつの秩序原理は、むしろ、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられ重なり共存している。ぼくはそれを二層構造の時代と名づけたいと思う。


(観光客は)出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国(グローバリズム)の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。


社会を変えたいと願う人間から、社会を変えるなんて偽善だと顔を赤らめて罵る人間へ、そして社会なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやればよいのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキー文学は、そのだれもが知る心理弁証法を、どんな哲学書よりも緻密に描きだしている。

社会主義者から地下室人へ、そしてスタヴローギンへという歩みには、あともうひとつ、最後の段階があるはずなのだ。スタヴローギンのニヒリズムを超えた、その向こうに現れる最後の主体が。



感想

3/29にニコニコ生放送で、「ゲンロン0発刊記念!東浩紀が2500冊のサインをボヤきながら粛々とこなしていく無料動画」って番組があった。東さんに触れるのも前に読んだ本「弱いつながり」以来、2年半ぶり。ひたすらサインしていくだけの動画だったんだけど、ついつい見てしまった。今回発刊される本も、時間が経てば図書館で借りられるし、その時まで待てばいいんだけど。これもまあ何かの縁だし、サイン本ってのも面白いかなと思って、購入してみた。


そしてその後、4/11に行われた「ついに出た!『ゲンロン0』世界最速読書会!!」」って番組も視聴。1000円払って。せっかく買った本なんだし、そこから得られる体験はちゃんと回収しておこうと。まんまと作戦に嵌ってしまったかね。でも、そうしても良かったと思えるほど、面白い読書になった。


観光客としての生き方が、グローバリズムナショナリズムに分かたれた、並存する価値観を繋ぎ連帯させるものになると言う。それを聞いて、「なんでわざわざ連帯を目指さないといけないんだろう」とか思ってしまったわけだけど。個人自由を求める「動物」のままで構わない、と。

でも第7章のドストエフスキー論の部分を読み、僕の今現在の立ち位置は、無関心・ニヒリズム的な第三段階なんだな、と。ドストエフスキーが描けなかった「カラマーゾフの兄弟」の続編にて、第四段階の主体について描かれていたのかも、なんて想像には、かなり関心をそそられた。

僕自身、今の自分が完成された状態だなんて思っていない。今までだって色々と思想は変遷しているんで、今後もそれが起きるのは想定内。それがどんなものになるのかには興味がある。


それが「子ども」と言われて白けてしまうのは、現段階では仕方のないところ。共感できないからこそ、今はここに留まっているんだろうから。後に繋ぐとか託すとかってのが、問題の先送りにしか思えない。自分の人生は、自分自身できっちり完結させろよ、と。

でも、そこを乗り越え、他者を、子供を求めるようになる未来が来ることも想定し、備えておくかね。消極的な理由ではなく、積極的に希望を持ってそういう状態になることを望む。


旅行は趣味の一つだし、カブを買って以来さらに頻度を上げて楽しんでいる。アリリタ後には、日本一周や世界一周もしようと考えている。それは観光客的に、見るだけ、つまみ食い、にしかならないかもしれない。でも、そこで世界の現状を知り、子供たちの生き様に触れることで得られるものもあるかもしれない。こちらの意図しない、偶然によって。それもまた面白そうだ。