Hatena::ブログ(Diary)

mailonesghの書評

2014-09-14

会社員の父から息子へ

| 11:44

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

わたしが現実に知っているのは、わたしの父とわたしの関係だけだ。そして、わたしが知ったのは、父親は家の中ではひとりだということだ。父と息子はぎこちないということだ。そして、それでいいと思っている。


すべては人間がこしらえた物ばかりなのである。そして人間は、それを価値あるものとしたのだ。意味もまた生みだされた。ありとあらゆる無意味に意味をつけたのである。目的も夢も意味とした。そうである以上、わたしたちは生きている間は、意味化された無意味を、そのまま意味として生きればよいのである。そして、それ以外にはないのである。

問題は、どんな無意味を自分の生きる意味とするか、である。どれを選択するかは自分次第である。自分で作り出してもいいが、そこでその「人間」がきまってくる。それが価値観である。


三十代の後半頃だろうか、「幸せ」なんかおれはいらないなあ、と思った。男は、女と子どものために働いて、死んで行けばいいのである。女と子どもがいなければ、ひとのために生きて、死んで行けばいい。もし幸せというものがあるのなら、男の幸せは一番最後だ。これまで幸せになりたいと思ったことは一度もない。


わたしは父親としてはほとんどなにもいわなかった。ほとんどなにもできなかった。しかし、「父」の心としていつも願っている。どうか、雄々しく、やさしく、強く生きていってほしい。惜しみなく働き、惜しみなく愛し、惜しみなく生きていってもらいたい。きみたちは、わたしの「意味」そのものだ。



感想

引き続き、「定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。同じベース・出発点から始まった著者と僕の思想に大きく異なる部分があるのは、著者には妻がいて、子供がいるからではないか。元々違いがあるから結婚に至ったのか、それとも結婚によって変化した部分があったのか。そんなことを思いながら読んだこの本。


著者と子どもについてだけでなく、著者と両親との関係についても語っていく。

いますべてを思い返してみて、もしもこの世に「幸せ」というものがあるのなら、わたしはただ父と母の子として生まれてきたことだけで、これ以上ない「幸せ」だったのだ。

僕にとっても、両親がいたからこそ今の僕があるわけで、感謝しているし、尊敬もしている。両親の元に生まれることが出来て、「幸せ」だ。もし僕が結婚し子供を持ったとしても、両親以上のものを提供は出来ないだろう。そこにはやっぱり、越えがたい壁があるなあ。


でも。そんな、子を想う親であっても、絶対の道を示せるわけではないし、援護が出来るわけではない。「絶対」が無いんだから当然ではあるけれど、結局、自分の価値観に基づいて行動することしか出来ない。その価値観が、子のものと対立することも当然あるだろう。自分のことを最も考えてくれるであろう両親であってもそうならば、全くの他人にそれを期待できるはずもない。後から振り返って和解出来る思想もあるけれど。それを望めない、根本的な違いというものもある。そしてそれは、多様な価値観の存在するこの世界においては当然のことだと認識している。

ならばやはり、自分の持っている価値観と適合する行動を取れるのは、自分をおいて他に無い。他人に「与える」ことも、それって本当に当人のためになってるんだろうか、と考えてしまう。もちろん、完全に一致しなければ意味がない、というものではないんだけどさ。こういう点にも効率を求めてしまう自分がいる。


我ながら、極端な思考に走ったものだ。もちろん、部分部分他の人と価値観が一致することはあるだろうし、自分が最も大事にしている所が一緒ならば、共に歩くことも可能なんだろう。ただ、今の僕が目指している最大の目標は、「誰にも依存せず強く立つ」こと、なんだけど。


最適なものではないとしても、人が人を想う気持ちは尊い。著者も子供に対する想いを綴っているけれど、他人のことながら、すごく有難く感じる。僕の両親も、同じように想ってくれているんだろうな。それには出来る限り応えたい。返しきれるものではないけれど。

先月、父が入院した。すぐに退院出来たんだけど、もうそういう年代だよな。祖父母が同じ状況になったときは少し遠いものを感じていたんだけど。それを父に置き換えると、やっぱり来るものがあるね。いつまでも生きていて欲しい、例えどんな状態であっても、って願う人の気持ちがちょっと分かっちゃったよ。我ながら自分勝手だよな。でもまあ、僕にも人の心があったってことかねえ。それがちょっと嬉しかったり。

2014-09-07

いやな世の中−自分様の時代

| 12:34

いやな世の中 (ベスト新書)

いやな世の中 (ベスト新書)

いやな世の中とは、いやな価値観が支配的となり、それに全身を委ねるいやな人間が増えた世の中になってしまったということである。大人から子どもまで、自分自身という存在じたいが生きることの目的となった。それが、いやな価値観の正体である。


「自分」以外のものにはまったく関心がない。「自分」以外のものは「自分」ではないから、という理由だけで、どうなろうと知ったことではない。かれらが要求するのは「自分」への尊敬である。世の中は自分の思い通りにならなければならない。


つねにこころのなかに人生の最低線(基本線)を引いておくことだ。無為いいとも、家のなかでじっとして燻っていればいいというのでもない。夢や希望はなくても、その時々の喜びはいたるところにある。

もし人間に幸せというものがあるなら、いかにこころの平安が保たれるか、というところにしかないような気がする。けれど、このことほど困難なこともない。夢や希望がなくてもいい。静かな平安の一日がある。それが一日でも長くつづけばいい。



感想

定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。色々と本を書いているみたいだったので、それらも読んでみようかと思って。似たような性向を持った人だと思っていたけど、相反する部分も持っているようだな。「自分様」とか「自分バカ」とか、これは僕に当てはまるような言葉だろうし。


権利を声高に主張するつもりはないけど、使える仕組みを使わないのはもったいないと思っている。まあ、対立するのはあまり好きではないので、我慢する場面も多いけど。でもそれにしたって、そっちのほうが費用対効果が高いと判断したからであって、特に溜め込むことはない。

あと、「人は人、自分は自分」「自己責任」って考えも強い。自分のことを考えてくれる人もいるんだろうけど、それを待っていたって仕方ない。自分のことを一番知っているのは自分自身。ならば自分で動かないでどうするんだ、って。動かないというのも、それ自体がその人の選択。それが最適だと思ったんだから、その結果は黙して受け取ればいい。失敗だったと思うのなら、今後の教訓にすればいい。

余裕の無い世の中になったってことかもしれないけど、それこそ、自分にコントロール出来ないものを嘆いたって仕方ない。その条件下での最適化を図るのも、自分次第。世の中が流動的になったってのは、僕にとってはいい面もある。縛られるのは好きじゃないからな。


「人生の最低線を引いておく」ってのは、勢古さんの本を読んでまさに思ったこと。やっぱり、同じベースからスタートしても、そこから派生して得られる結論・考え方ってのは人それぞれ違ってくるもんだね。そういう違いがあるからこそ世の中は楽しいんだろうけど。

2014-08-31

人生の意味の心理学

| 23:17

人生の意味の心理学

人生の意味の心理学

人間は、いつでも−自分自身の弱さや不完全性や限界のゆえに−他の人間に結びつけられている。彼個人の幸せのための、また人類の幸せのための最大の一歩は、交わりである。

個人心理学は、三つの主要問題−仕事、仲間、性−のひとつに属さないようないかなる人生の問題をも知らない。そして、各人は、まさにこれら三つの問題への対応の仕方を通じて、人生の意味に関する自分の内奥の確信をまぎれもなく顕わにするのである。


あらゆる失敗者は、仲間感と社会的関心が欠けているがゆえに失敗者なのである。私的な人生の意味などというものは、実際、そもそも決して意味と呼ぶべきものではないのだ。意味というものは、他者との交わりにおいてのみ可能なものなのだ。

人生の意味というものは人類全体に関心を持つことである。


一個人のもろもろの感情は、その人が人生に与える意味と、自分の努力のために設定した目標の刻印を帯びるのである。これらの感情は、常に主として、彼の目標ならびに彼の一貫した人生のスタイルに依存しているのである。



感想

座右の古典」で紹介されていた本。著者のアドラーは、フロイトユングと並んで「心理学界の三大巨頭」と称されている人らしい。今回初めて知ったわけだけど。

アドラーは、人との結び付き・協同こそが人生の意味だと言う。自分のことしか考えないのは不幸なやり方だと言い、病人や犯罪者と結び付ける。アドラー心理学がこの一冊で分かるわけでもなく、統括して言えるわけではないけれど、やっぱり反発を感じてしまうよね。僕の目指しているものとは違うので。


僕としても、他人を害してまで自分の道を貫き通そうとしているわけではない。Win-Winになるなら、それに越したことはない。ただ、他者の介在が絶対条件だとは思っていない。そして、どっちでもいいのなら、わざわざ負荷を増やす必要も無い、と。他者のために行動しているように見えても、それって結局は自分の益になるから、なんだよな。一緒でないと実現できないことだったり、今後の影響・関係を考えてだったり、そう出来る自分に対する満足だったり。人のためと言っている人は、本当にそこには意識のすり替えや誤魔化しは無いのか?と思ってしまう。


完全なる自己犠牲ってのも確かにあるんだろう。でもそういう、自分よりも他者の益を考える人って、自分の価値を過小評価し、他者の価値を過大評価している面もあるんじゃないかなあ。自分は無理だから、他者の可能性に賭けている。それって、見方を変えれば自分の責任の放棄だろう。責任転嫁。意味の先延ばし。延ばした先にも結局意味は無い。

まあ僕も、不完全な人間だという自覚はあるけれど、だからといって他人の価値を妄信はしない。自分がダメなら他者だってダメ。そこに大した違いはない。ならば自分を生きた方がいい。

それは他者を自分のレベルまで下げる行為、かもしれないけど。でも、自分を他者より低める自虐よりはマシだと思う。


これまでの人類史において、人は他人と協同することでここまで生存し、発展してきた。そういう遺伝子が残ってきたからこそ、協同が普遍的な価値となっている。これに反する考えは異端として排除される。でも、普遍的な価値だからといって、それがそのまま絶対的な価値になるわけではないだろう。

今後も生き残っていくのはそういう人たちで、僕は淘汰側の人間だとは思う。だからといって、生き残るため・次代に繋ぐために考え方を矯正しようとは思わないけど。それが人生の意味だ、とは思っていないので。

2014-08-24

知的生活

| 10:58

知的生活

知的生活

真の教養とは、思考力を練り、その高貴な能力の活動源となる材料を提供するものでなければなりません。このふたつのはたらきをしないような知識はわれわれの教養にとって無益です。


時間を節約する一番いい方法は、なにかを学んだり行ったりする時には、必ず、完全にものにするのだという強い気概をもって臨むことです。そして、一方、どうにもならない限界がみえた時にはいさぎよくそれを認めてしまうことです。不完全な習得に費やされた時間は、大部分は無駄に費やされたのです。

断念せずこれからも研究を続けていくことになった対象について、次に決断すべきことは、どの程度まで研究を押し進めるか、その厳密な限界を設定することです。


孤独の悪影響ばかり見て、悪影響と引き換えに孤独がもたらす利点を見ようとしないのが人々の年来の傾向です。孤独で生活する人は、自分の時間を、自分の財産を、君主のごとく思うままに使えます。見栄を張る必要もなく、質素に、心のままに、ゆったりと暮せます。

「世の中にある者は、己が時代を生きる。孤独にある者は、あらゆる時代を生きる。」


幸福な生き方というのは、自分の中の一番すぐれたものを絶えず磨き、伸ばしていくような生き方なのです。



感想

座右の古典」で紹介されていた本。僕も、知的生活に憧れ、目指していたように思うけど。この本で言っているようなものとは、やっぱり違うよなあ。知識のつまみ食いに過ぎなく、本当にモノになったものなんてない。歴史、哲学、政治、等々。その時々の好奇心を満たしてはくれたけど、それを自分の核として形成できているわけではない。それら全てが合わさって今の自分が形成されているとは言えるけれど、明確に「コレ」として提示できるものではない。


そして、今後は知的生活を目指そう、と考えているわけでもない。一つ二つに熱中し、そこから大いなる成果を引き出そう、なんて。それよりは、世の中の進歩の恩恵に与ろう、という立ち位置。さっさとリタイアすることなんて考えているくらいだから、当然ではあるけどね。


知的研究に邁進している人たちのおかげで、今があるというのは分かっている。でもそれは、そういうことをするのが好きだったというだけの話だろう。好きの方向性がたまたま世の中に貢献できるものだっただけ。そうではない人たちが、無理に道を変える必要は無い。人それぞれ、自分の道を進めばいい。本当、多様性ってのは素晴らしいね。

まあ、タダ乗り側の人間として、別に今以上を求めているわけでもないしね。


自分の生き方を達成するため、その障害となるものを排除するため、そのためにこそ思考力を磨き、必要な知識を手に入れ、行動していきたい。見栄なんて気にせず邁進する姿は、知的生活者のものと似ているのかも?

2014-08-17

定年後7年目のリアル

| 19:43

わたしは十年一日のような「なにもない」生活にまったく飽きない。たぶん、このような生活は「お米」のようなものなのだ。いつ食べても美味しい。シラスやおかかや梅干し昆布をちょっとのせるだけで、味が一層ひきたつ。生活もおなじである。これが基本だ。「なにもしない」静かな生活はコシヒカリのように滋味があるのだ。


前作『定年後のリアル』をお読みいただいた方には、よし、この男は相変わらずだな、なにも変わってないな、死ぬまでそのままでいけ、と思っていただけるならば喜ばしい。


「生きがい」は不要だといいたいのではない。充実も充足も達成も要らない、そんなものはないといっているのではない。あるに決まっている。そんなものは一番筆頭にもってくる必要はないといっているだけである。そんなものはいらない、ではなく、なくても全然かまわない、というだけである。ちょっとした希望がある。愉しみがある。夢中になれる。することがある。そういうものがあれば十分である。なにもなければしかたがない。なにもしなくてもいい。なにもしないことを楽しむことができればいいのだ。



感想

前作「定年後のリアル」の5年後の現状を綴った本。本屋でぶらぶらしていた時に見つけ、早速購入。前作の著者の語り口が軽妙で愉しく読めたからな。その後の変化などあれば知りたいってのもあったし。


相変わらず愉しくは読めたけど、だいぶ内容が薄かったような。読んだ本からの引用やら、近所でよく見かける人たちの観察やら。言いたいことは前作にほとんど詰めたってことかね。まあ確かに、5年で劇的に生き方や思想が変わるわけはないよな。著者自身、積極的に動く人間ではないし、何も無い、あるがままを受け容れる人だったし。当然の結果だった。

まえがきにも書いてあるけど、相変わらずの様子が確認できただけで、まあ良かったかな。著者の思惑通りすぎてちょっと笑ってしまうんだけど。


僕もこういう生き方には共感できるな。もちろん、リタイア後にやってみたいことは色々あるし、著者ほど「何もしない」を極めるつもりもないんだけど。ただ、そういう生き方も有りだ、という最低限のベースを持っていれば、それ以上のことは全てボーナスとしてありがたく得られそうだし。まあこれも、有用な生活術ってやつかね。考え方一つで生き易くなり、それが自分と相性がいいとなれば、さっさと取り入れるに限るよな。まあ、元々持っていた思想ではあるんだけど。それで問題無さそうだ、というのが確認できたのは良かった。