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mailonesghの書評

2014-10-13

ハーメルンの笛吹き男

| 12:02

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

わが国ではヨーロッパ都市の市民という言葉が、内実不明のまま比較的安易に使われることが多い。市民とは何かという問題は、必ずしも時代を越えて答えられるような問題ではないのである。もとより都市の城壁内に住んでいる者がすべて市民であったわけではない。


十五、六世紀においても下層民の貧困はまったく解決されていなかったし、極端にいえば全ヨーロッパにおいてすら、十九世紀にいたるまで飢えの問題は解決されていなかったのである。十八世紀前半において、当時ヨーロッパ先進国であったイギリスにおいてすら、間歇的にやってきた飢饉によって莫大な数の生命が奪われている。中世ヨーロッパにおいては、ほとんど毎年どこかで飢饉、疫病、不作等がくり返されていた。


われわれは中世政治史や文化史ロマネスクゴシック建築象徴される華麗な叙述の背後に、痩せさらばえ、虚ろな顔をして死にかけた乳児を抱いて、足をひきずるように歩いていた無言の群衆を常にみすえていなければならないのである。そのためには、いわゆる中世史の著名な歴史叙述者や年代記作者の記録にのみ頼るような研究手続きを改めなければならない。

彼らはもっぱら大状況の国家的事件のみを扱い、民衆の歴史には一顧だに与えていないからである。われわれの目を開いてくれるのはこうした著名な歴史叙述者ではなく、無名の修道士たちの書き遺した地域の年代記なのである。



感想

会社の先輩と話していて、塩野七生さんが好きならばってことで、同じルネサンス期を専門としている人として紹介されたのが、本書の阿部さん。こうしたきっかけで読書の幅が広がっていくのも面白いよな。

本書は、「ハーメルンの笛吹き男」の物語を出発点として、その物語の基となった出来事を追い、その過程で中世ヨーロッパ庶民生活を描く。


著者が指摘するように、僕も歴史を知るに際し、歴史を動かす上の立場から追うばかりで、下からの目線はあまり意識してこなかったからな。たまにはこういうのも悪くない。


そうして思うのはまあ、いつも通り、お上や周りの状況・環境に左右されない立ち位置を確立したい、ってことなんだけどね。振り回されるばかりの中世庶民には無かった選択肢が与えられているってのは、本当にありがたいことだ。

2014-10-05

人生論

| 12:04

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

自分のために生きるべきだろうか?だが、自分の個人的な生命は悪であり、無意味ではないか。家族のために生きるべきだろうか?共同体のためにか?いっそ祖国か、人類のためにか?しかし、自分個人の生命が不幸で無意味だとすれば、あらゆる他の人間個人の生命も同じように無意味なわけだから、そんな無意味で不合理な個人を数限りなく寄せ集めてみたところで、一つの幸福な理性的な生命をも作ることになるまい。


人間の真の生命は、動物的個我の幸福に対する否定のはじまる時になって、やっとはじまる。理性的な意識のめざめるその時こそ、動物的個我の幸福に対する否定がはじまるのである。


真の愛は、動物的個我を否定する際にのみ可能となる。愛は、それが自己犠牲である時にのみ愛なのである。



感想

勢古さんの本「結論で読む人生論」で紹介されていた本。「座右の古典」で紹介されていた本でもあるのでちょうどいい。


トルストイの思想の出発点は、「個人的な幸福を求めても、それは達成できない、不可能なものである」ということ。人の欲望に際限はないし、他人との対立を生み出すものでもあるし、何より死によって全ては無意味になってしまう。そこから、どのようにしたら幸福を得ることが出来るか、人生に意味を見出すことが出来るか。それを考察している。


トルストイは、人生の無意味に耐えられなかったんだろうね。ショーペンハウアーのような厭世哲学者に対し、「人生を否定しながら、そこからぬけだす可能性を提示していない、きわめて不誠実な解決だ」として非難している。僕からすれば、解決策なんてそもそも無いし、別にその状態でも耐えられるから、その道を提示していないだけだと思うけどね。無意味を受け入れ、そこから一種開き直って生きる。むしろ自由であり、僕にとっては居心地がいい。


それに耐えられない人は、ここから理屈を捏ねて自分を納得させられる理論を構築しなければいけない。僕からすれば、トルストイの論理は信じるにはだいぶ苦しい。飛躍があるように思える。別に僕も、完全な理論を、真理を求めているわけではないけど。

ただ、妄信はしたくない。自分で自分を騙したくはない。そういう鎖・制限から、自由でありたい。分からないものを無理に分かろうとして、分かった気になるために、自分を変質させたくはない。とはいえ、人は自分の気付かぬ内に、変わっていってしまうものではあるけどさ。


そして、そうやって妄信に見えるような信仰が悪いというわけではない。人は、それぞれ自分に合った生き方をすればいいと思う。人生に意味を見出し、積極的に生きられるのならば、その方がいいだろう。こうして全てを相対化してしまうと、僕の思想ももうこれ以上進みようもないように思うけどね。


まあ、これまで色々な人生論・幸福論を読んできて、そろそろお腹一杯になってきた。とりあえずこの方向は一旦終了にするかな。

2014-09-28

幸福について 人生論

| 21:33

幸福について―人生論 (新潮文庫)

幸福について―人生論 (新潮文庫)

ショーペンハウアー 自分を救う幸福論

ショーペンハウアー 自分を救う幸福論

人間の幸福に対する二大敵が、苦痛と退屈である。われわれの生活はこのどちらかを行きつ戻りつしている。苦痛とは困窮欠乏のことであり、退屈とは、安全と余裕のことである。

人間が幸福で健やかであるということの意味は、われわれの願望が満足へ、その満足からまた新しい願望へという移り変わりが、スムーズに速やかに進んでゆくことにすぎない。満足の得られない状態が苦悩であり、新しい願望が何かわからなくなってしまった状態が、退屈である。


全く自己自身のあり方に生きていて差し支えないのは、独りでいる間だけである。だから孤独を愛さない者は、自由をも愛さない者というべきだ。というのは、人は独りでいる間だけが自由だからである。強制ということが、およそ社交には切っても切れないつきものである。


人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に耐えられないからである。社交を求めるのも、異郷に赴いたり旅に出たりするのも、内面の空虚と倦怠とに駆られるためである。そういう人の精神には、独自な運動をみずから掴むだけの原動力が不足している。


対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。


本を読むことに気をとられて、現実の世界を見落とすことは良くない。現実を見ることは、読書などと比較にならないくらい、自分で考えるきっかけと刺激とを与えてくれる。具体的に存在するものは、根源的な力をもっていて、精神に刺激を与える。しかし単なる経験は思索の代わりにならない。また、思いついたことは、いつも書き留めておくべきである。


老齢期の主な欲求は、気楽にしていることと、安心していられることである。老人になってもまだ勉強する意欲があり、音楽や芝居を好み、外部のものに対する感受性が残っていれば幸せである。



感想

勢古さんの本「いつか見たしあわせ−市井の幸福論」で紹介されていた本。勢古さんも、幸福論として一番しっくりくると言っていたけど、僕も紹介文を読んでかなりのシンパシーを感じてしまったんだよね。

こうして本書を読んでみても、共感できる部分ばかりで、読んでいて楽しくなった。悲観・厭世主義の書を読んで楽しくなるのもどうかと我ながら思うけど。今後、僕の立ち位置の拠り所として示すのにこの本はぴったりかもな。


もちろん、人にはそれぞれ異なった生き方がある。ショーペンハウアーも、「人柄・人格に合った生き方を選ぶことが大事だ」と言っている。僕にはこれが合ったというだけの話。

最近、会社の研修において、自分が重視している価値観の上位5つを挙げるという課題があった。僕が選んだのは、上から、自立性、プライベートの時間、個性の発揮、安全性/安心感、多様性。自立ってのはブログプロフィールの人生目標にも掲げていることなんで当然。それによって、不確定要素となりやすい人間関係を最小限にコントロールする。そうして、誰にも邪魔されないプライベートの時間を楽しみたい。そのプライベートにおいて、自分の興味あることを楽しむ。そうするためにはまず、安全/安心を確保するためのお金がいる。必要最小限で十分だけど。最後に多様性。色々な楽しみの対象を見つける。もちろん、上位の価値観を損なわない範囲で。


こうして僕の望みは抽出出来ているんだから、その達成に向けて今後とも頑張っていきたいね。

2014-09-21

人生論ノート

| 17:11

人生論ノート

人生論ノート

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。


我々の生活は期待の上になり立っている。

期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である。


旅について

旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせるのである。

人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通ずるものがある。旅において出会うのはつねに自己自身である。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。

旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。



感想

勢古さんの本「結論で読む人生論」で紹介されていた本。人生論と言ったときに、著者の年代の人たちがまず頭に浮かぶもの、らしい。僕は聞いたことなかったけど。というわけで読んでみた。


内面的な幸福、外に現われない幸福は幸福ではないと言う。外に現われ、人に影響を及ぼすものが本当の幸福だと。そんなこと言ったら、僕には幸福はハードルが高いものになっちゃうんだけど。「幸福は各人のもの」って言ってるんだし、人それぞれの幸福があったっていいだろう。


期待の原則について。僕も昔はもっとがっちりと組み込まれていたな。そこから多少脱け出ることが出来たからこそ、今の多少の精神的強さがあるんだと思う。そして、完全脱出したいからこそのアリリタ願望。自分の人生は自分のためにあるんだから、他人の思惑に取り込まれたくはない。まだ道は遠いので迂闊なことは出来ないけれど、それでも、終わりを見据えていればこそ取れる行動もある。流されることなく、自分の本当の望みを達成するために最適な道を選んでいきたい。


旅についての話は面白い。日常からの脱出。だからこそ、僕は旅が好きなんだろう。つくづく、僕は自由を求めているんだな。そして、旅は人生に通じる。一人旅が好きな僕は、やっぱり人生も一人で歩んでいくのが性に合っているんだろう。触れ合いはたまにで十分。

2014-09-14

会社員の父から息子へ

| 11:44

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

会社員の父から息子へ (ちくま新書)

わたしが現実に知っているのは、わたしの父とわたしの関係だけだ。そして、わたしが知ったのは、父親は家の中ではひとりだということだ。父と息子はぎこちないということだ。そして、それでいいと思っている。


すべては人間がこしらえた物ばかりなのである。そして人間は、それを価値あるものとしたのだ。意味もまた生みだされた。ありとあらゆる無意味に意味をつけたのである。目的も夢も意味とした。そうである以上、わたしたちは生きている間は、意味化された無意味を、そのまま意味として生きればよいのである。そして、それ以外にはないのである。

問題は、どんな無意味を自分の生きる意味とするか、である。どれを選択するかは自分次第である。自分で作り出してもいいが、そこでその「人間」がきまってくる。それが価値観である。


三十代の後半頃だろうか、「幸せ」なんかおれはいらないなあ、と思った。男は、女と子どものために働いて、死んで行けばいいのである。女と子どもがいなければ、ひとのために生きて、死んで行けばいい。もし幸せというものがあるのなら、男の幸せは一番最後だ。これまで幸せになりたいと思ったことは一度もない。


わたしは父親としてはほとんどなにもいわなかった。ほとんどなにもできなかった。しかし、「父」の心としていつも願っている。どうか、雄々しく、やさしく、強く生きていってほしい。惜しみなく働き、惜しみなく愛し、惜しみなく生きていってもらいたい。きみたちは、わたしの「意味」そのものだ。



感想

引き続き、「定年後のリアル」を書いた勢古さんの著作。同じベース・出発点から始まった著者と僕の思想に大きく異なる部分があるのは、著者には妻がいて、子供がいるからではないか。元々違いがあるから結婚に至ったのか、それとも結婚によって変化した部分があったのか。そんなことを思いながら読んだこの本。


著者と子どもについてだけでなく、著者と両親との関係についても語っていく。

いますべてを思い返してみて、もしもこの世に「幸せ」というものがあるのなら、わたしはただ父と母の子として生まれてきたことだけで、これ以上ない「幸せ」だったのだ。

僕にとっても、両親がいたからこそ今の僕があるわけで、感謝しているし、尊敬もしている。両親の元に生まれることが出来て、「幸せ」だ。もし僕が結婚し子供を持ったとしても、両親以上のものを提供は出来ないだろう。そこにはやっぱり、越えがたい壁があるなあ。


でも。そんな、子を想う親であっても、絶対の道を示せるわけではないし、援護が出来るわけではない。「絶対」が無いんだから当然ではあるけれど、結局、自分の価値観に基づいて行動することしか出来ない。その価値観が、子のものと対立することも当然あるだろう。自分のことを最も考えてくれるであろう両親であってもそうならば、全くの他人にそれを期待できるはずもない。後から振り返って和解出来る思想もあるけれど。それを望めない、根本的な違いというものもある。そしてそれは、多様な価値観の存在するこの世界においては当然のことだと認識している。

ならばやはり、自分の持っている価値観と適合する行動を取れるのは、自分をおいて他に無い。他人に「与える」ことも、それって本当に当人のためになってるんだろうか、と考えてしまう。もちろん、完全に一致しなければ意味がない、というものではないんだけどさ。こういう点にも効率を求めてしまう自分がいる。


我ながら、極端な思考に走ったものだ。もちろん、部分部分他の人と価値観が一致することはあるだろうし、自分が最も大事にしている所が一緒ならば、共に歩くことも可能なんだろう。ただ、今の僕が目指している最大の目標は、「誰にも依存せず強く立つ」こと、なんだけど。


最適なものではないとしても、人が人を想う気持ちは尊い。著者も子供に対する想いを綴っているけれど、他人のことながら、すごく有難く感じる。僕の両親も、同じように想ってくれているんだろうな。それには出来る限り応えたい。返しきれるものではないけれど。

先月、父が入院した。すぐに退院出来たんだけど、もうそういう年代だよな。祖父母が同じ状況になったときは少し遠いものを感じていたんだけど。それを父に置き換えると、やっぱり来るものがあるね。いつまでも生きていて欲しい、例えどんな状態であっても、って願う人の気持ちがちょっと分かっちゃったよ。我ながら自分勝手だよな。でもまあ、僕にも人の心があったってことかねえ。それがちょっと嬉しかったり。