DQNネーム、キラキラネームの見分け方


 発売したばかりの『新潮45』の新刊案内を見ていたら、ふと目にとまったのがこの本だった。

森本あんり『反知性主義アメリカが生んだ熱病の正体』

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)


 反知性主義という言葉に今、興味を持っているのもあるが、それ以上に「森本あんり」という名前と「反知性主義」というタイトルのギャップである。「あんり」の柔らかい感じ。
 むしろ
 森本あんり『寝るだけで痩せる! グダグダダイエット』
 森本あんり『投資系女子が解説する 絶対儲かるNISA』
 ……これならならしっくり来る。
「あんり」氏の肩書を見たら大学教授、きっと気鋭の若手女性学者なのだろう、と思って、発売を待つことにした。

 そこで他の新刊案内にも目を配るが、さすがに『新潮45』に告知が載るような本の著者の名前にいわゆるDQNネームやキラキラネームはない。これは一つの基準になるだろう。本の信頼性を担保できる名前かどうか、これが絶対基準ラインである。
 たとえば実在する名前に「波波波」と書いて「サンバ」と読ませるのがあるという。この人が大学教授になったらどうなるか。
山田波波波『イスラーム学入門』

 正直に言って「ない」。信憑性に深刻な問題が発生する。「イスラムとサンバ……」版元も頭を抱えるだろう。
 だがこれならどうか。

山田波波波『僕の彼女の父上の父上が石油王だった件』

 ……あまり違和感がない。ラノベなどの小説家、エッセイストなどなら行けるかもしれない。
 他にも「姫星」「流絆空」「今鹿」などの実在ネームがあるが、かなり厳しいと思われる。
 石川流絆空(ルキア)『フランス現代文学と古典の潮流』とか中野今鹿(ナウシカ)の書いた『資本主義の終焉と新世紀への展望』という本を読みたいだろうか……。
 そこそこ固めの書籍のタイトルの横に、子供につけようと思っている名前を書き込んでみる。違和感があればそれはDQNネーム、キラキラネームだ。間違いない。

 さて、本日発売となった森本あんりさんの『反知性主義』を買って、「30代前半くらいの女性だろうな……」と思って駅のホームでプロフィール欄を確認して、思わず声を上げた。
http://www.shinchosha.co.jp/book/603764/

 名は常に体を表すわけではない!のであった。

おにぎりぐらい握らせてやればいいじゃないか


 我が埼玉県発の情報が珍しく大ニュースになっています……*1

 11日に龍谷大平安を破り2回戦進出を果たした春日部共栄。その勝利を支えた女子マネージャー「まみタス」こと三宅麻未さんのエピソードが注目を浴びました。春日部共栄では練習中におにぎりを大量に食べるのだそうで、そのおにぎりを握ってきたのが三宅さん。2年間で握ったおにぎりは2万個にも及び、日刊スポーツの記事によると「おにぎり作り集中のため、最難関校受験の選抜クラスから普通クラスに転籍したほど」とも。

 これに対し、さまざまな意見が飛び交っているようで、つまり「他人のおにぎり握るために人生を棒に振った」だの「男尊女卑」だの、しまいには「こうやって球児(つまり男)を甘やかすから、家事一つやらない夫になる。自分でやれ」的な内容。
「他人のサポートをしたい」というマネージャー職の意義を全否定する動きが活発です。
 野球部のマネゆえか「男女関係」として見ている人が多いようで、ひどいツイートには「〇〇さんは女子マネージャーは部員の精神的肉便器だと言っていた」などという完全にアウトな文言まで引いて、このニュースに非難を浴びせかける始末。いやー、すごいですね。

 高校時代、我が女子部にはステキな女子マネージャーがなんと3人もいました。私は勝ち組です。うち2人は怪我や体力の限界を感じたため、プレーヤーからマネージャーに転向した転向組(2人とも私から見て後輩)。もう1人は文化部と兼部していた同級生でしたが、はっきり言いまして、彼女たちの存在がどれだけ私たちの心と体を癒してくれたか、ここに書き始めたら長文必死なほどです。

 このクソ暑い中、炎天下で臭いグローブをはめて、「ハワイ帰り?」と聞かれるほどこんがり焼けた私たちは、一日の練習が終わるとそれはもうくたびれたボロ雑巾のようでした。そんな時、「ポカリをどーぞ」と言って粉末ポカリを激薄に薄めた飲料を差し出してくれる彼女たちの存在。もちろん、マネが欠席の場合は自分たちで用意しましたが、そりゃ他人が用意してくれたものの方がおいしいんですよ。優しいマネがかけてくれる冷たいスプレーやマキロン、彼女たちが本を読んで覚えて巻いてくれるテーピングが我々の傷ついた肉体を癒していたのでした。

 彼女たちは選んで、自分の時間を使って、我々のようなポンコツプレーヤーを支えてくれたのです。ポンコツチームですから当然話題にもならなければ、内申点どうのこうのにもさほどプラスはなかったでしょう。しかも相手は(半分男になりかかったようなところもあったが)女。それでも彼女たちは私たちを支えてくれたし、私たちもそれに感謝していました。疲れている時に補佐してくれる人の存在はありがたい。

 それによって彼女たちが、志望校に進学できたか出来なかったかは知りません。しかしそれを「犠牲」だとも思わないし、彼女たちがマネージャーという立場を選んでくれたことに感謝する以外なにがあるというのか。「テーピング巻くために費やした時間で進学する大学のランクが下がったじゃねえか」なんて言う人はそもそもマネにはならないし、「おにぎり2万個」を批判している特に女性よ、あなたにマネージャーになれなんて誰も言っていないのだ。何でそんなに怒るのか。むしろ自分がマネージャーとして求められないキャラだから怒っているのだろうか。みえる、みえるぞ。嫉妬の嵐が。そして「結局男はそういう女を選ぶ」という怨嗟の声が。

 女性の人権を言うなら、一人の女性が自主的に、進学コースよりもおにぎりを握ることを選んだその選択を尊重すべきでしょう。

*1:今は東京在住ですが、心は錦

『かもめのジョナサン』は脳内LSD


かもめのジョナサン 完成版』を読みましたよ。
 中学二年生くらいの時に初めて読んで以来、折に触れて読んできた本。まさか「完成版ではなかった」作品を読んでいたとは思わなかったので、『完成版』をすぐに買いはしたものの、読み始めるのは躊躇していた。だって、Part3までで「完成」だと思って読んでいたのだから。天下の完成版になるか、大いなる蛇足になるか、確かめるのに勇気が要った。
 この作品を読んだきっかけはオウムの村井秀夫が「『かもめのジョナサン』の心境になったから」と言ってオウムに入信したと聞いたからだった。当時オウム事件に絶大な関心を払っていたのだが、中でも最大の興味は「なぜいい大人が、あんなひげ面のデブについて行ったのか」だったため、「この心境になったから入信したんですよ」という本があると聞いてさっそく買い求めたのだった。
「ああ、自分をカモメに重ねてしまったんだな」
「確かにこんなの読んで、感動して、タイミング良く『何らかの真理』を与えてくれそうなものに出会ったらついて行きかねないよな」
 そんな感想を抱いた。共感はしないけど(村井の)心理は理解できた、という読後感だった。
 Part3でブッツリ話が終わっているあの感じはぶっ飛んでいて、ある種の人にとっては快楽だったんだろうと思う。後になって「自己啓発的な本」と書いてある解説を読んでなるほどと思ったが、繰り返し読んでいる割に感化されないのは私がもともと「自己啓発」的なものと相性が良くないからだろう。
 その後、高校の頃に読んだ時の感想は「共同体のしがらみから抜け出して、自分だけが好きなこと、やりたいことだけを追求して生きていけるものか!」だったし、大学くらいの時は自分の就職活動のこともあったせいか「若干羨ましい」とも思った。いずれにしても「こんな風には生きられない(生きたくはない)」と思いながら、若干の気味悪さをまとうぶっ飛んだ脳内LSDみたいな話を読んでは脳から排出して、感化されることを拒んできたという読書体験だったように思う。
 真理を追っているはずのジョナサンの目が「異様に光った」という描写があるが、こう書く以上、原作者もジョナサンが「狂気の域」に達し始めていることを分かっていたのかと思っていたが、原作が嫌いだと公言する訳者の五木寛之が「創訳した」と言っている以上、訳を盛ったんじゃないかという気がする(確かめれば分かるだろうが、この点は曖昧にしておきたい気がする)。
 で、Part4。
 大いなる蛇足とも言わないが、「これぞ完成版」とも言えないうやむやな気持ちを抱えている*1
 完成版を読む前に、遅ればせながら初めて知ったことは、原作者のリチャード・バックが飛行機乗りだったということだ。パイロットの話を聞くと、常人とは違う神経を持っているので(俺の飛行機は絶対落ちないと本気で信じている、など)、多分原作者はパイロットとしての実体験において「ジョナサン的な境地」に達したことがあったんだろうと思う。もはやあとは光を超えるのみ、というまでのスピードと、一秒以下の瞬間に行われる判断。それは戦闘機の性能が増すごとに、人間の限界も高めている。一瞬の判断の誤りで即死亡という世界。
 だからこそ、原作者は自分が死にかけるほどの事故に遭ったことで、このPart4を書かねばならない(世に出さねばならない)と思ったのだろうが、でもそれは読者には関係ない。ぶっ飛んだままの「未完成版」をこれからも読もうと思う。
 読後、「村井が入信前に完成版を読んでいたら、どうしただろうか」ということを考えているが、こればかりは分からない。

かもめのジョナサン完成版

かもめのジョナサン完成版

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)

*1:ちなみに4に出てくる「アイドルのファンクラブ」という一文には何の神秘性寓話性もなく、ちょっと驚いてしまった。この部分こそ創訳してくれ

心の闇をえぐり出す


 佐世保で「また悲劇が」と連日報道されています。ネット界隈ではネバダ事件とも言われる小学生女児の同級生殺害から十年余り、地元では「命の大切さ」を教える教育に力を入れていたという。その上での今回の事件。「人間をバラバラにしてみたかった」との動機の発言や過去の「猫解剖」に大人たちは大いに衝撃を受けているようです。
 衝撃を受けているようですが、そこでしたり顔で命の大切さを説いている方々は、昔、虫だのトカゲだのを解剖したり、死に至らしめたことはないのでしょうか。私はあるわけです。我が家の(というか母の)教えは「動物を大事にしろ」で、家に侵入したアリでもナメクジでも「殺さずに外へ出してやれ」という教育方針がありましたが、一方でゴキブリ・ハエの類は容赦なく殲滅しておりました。
 それだけではなく、私はカマキリ好きが高じて「イナゴやコオロギをカマキリにささげる」遊びをよくやっており(しかも一人で)、その時には「無差別大量殺虫」をやらかしていたわけです。
 したり顔の大人の皆さんだって、時代が古ければ古いほど、「蛙爆竹(蛙の尻に爆竹を突っ込んで爆破)」とか、「毛虫の蒸し焼き」「アリの巣大パニック」などをやっていたはずなのです。
 それをどこで歯止めをきかせるかが教育とか成長なのであって、「虫まではOK、蛙、ネズミもギリOK。でも猫とか兎とかになってくるとアウト」というなんとなくの線引きを身につける。面白さよりも無残に転がった「さっきまで命あるものだった死骸」を前に罪悪感が立ち登って来た時、それらの遊びから卒業するものです。
 今回の犯人はその「罪悪感」の歯止めがどういうわけかきかなかったのでしょうが、しかし我々の延長線上にいるのではないか、と思ってしまう。無差別大量殺虫の延長線上に、「興味が先立っての殺人」もある。心の闇(命あるものを殺めたい、めちゃくちゃにしてやりたいなど)を持っていても、しかし罪悪感なり、ルールなりで蓋をしている。「相手にも家族や未来がある」と思えば、殺人などという大それたことをしてはならないと気づく。大人になれば「ここで人を殺した場合、失う社会的地位」などの「リスク」や「コスト」を考えてフタをしているうちに、自分の日々で忙しくなり、そんな願望も忘れていくものでしょう。
 しかしそんな「心の闇」を持つこと自体が悪だとされると、これは「闇社会の人間」(心に闇を持つ人間という意味ですが)としては我慢ならない。闇をえぐり出して「そんな考えを持つ人間は危険だ」としてしまうと、もはや闇社会の人間としては立つ瀬がありません。
 たまたま佐世保で事件が起きただけで、ネバダ事件とは相関はないでしょうが、ただ「事件再発防止のための教育に力を入れていた」ことが必ずしも功を奏するとは限らない。人間の興味というものは、「これをやってはいけない」と言われればやってみたくなるものでもあるし、「仲のいい友達を殺すなんて考えたこともなかった」人に、「そういうことがありうるのか」と教えてしまうきっかけでもある。「いけないことなんだ、やってはいけないんだ」と言えばそのまま相手が受け取るわけではない。「私もやってみたい」になる可能性だってある。
 いじめ自殺が頻発した時期に、彼らと同じ中学生だった人間としては、各種報道が続くたびに「ああ、また死んだ」「また同級生が自分で死んだ」「うちの学校でも起こるんじゃないの」という不思議な空気が教室に広がって行った経験を思い出します。先生方は当然、「自分たちの教室では、そんなことは起こさせない」と頑張っていましたし、そこまでのいじめもなかったのですが、しかしあの空気は本物でした。「まさかお前、死んだりしないよな」とクラスの一角を占める「いじめられてはいないけど尊重されてもいない(嫌な言葉ですが)スクールカースト最底辺の人たち」に向けられる視線。「死んだら楽になるのか」と考えた人もいたでしょう。その思いも含めてのあの空気。
 あるいはサカキバラ事件が起きた時、誰も口にはしないけれど「やられた」「俺が考えていた以上のことを先にやられてしまった」と思った同年代の人間もいただろうと思う。「そんな風に考えてはいけない」と思うほど、引っ張られるということもありうるのです。
「だからこういう事件はどんな教育をしても完全に防ぐのは無理」というのは被害者でも加害者でもない傍観者だから言えるのでしょうが、やっぱりどんなふうに「命の大切さ」を教えても殺人願望を持つ人はいるし、「大量殺虫」で満足して小動物や人間に及ばずに済む程度の人もいる。だから「心の闇が原因」だとか「再発防止」というのがどうも腑に落ちないのです。それでも、やらなければならないのはよくわかるのですが、その一方で。
 だからそういう「闇」を持つ子供には、「私も昔は持っていたけれど、その闇とうまく付き合ってるよ。本当にやってしまったら取り返しがつかないけど、それを『やらない』ことによって得られる楽しいこと、すごいことが世の中にはある」としか、少なくとも私には言いようがない。

謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

クローゼットからもう一つの見立て


ファストファッション―クローゼットの中の憂鬱』から、もう一つ見通せることがある。

 本書の最終章で著者は中国の縫製工場を「仕事の依頼を検討している業界関係者」のフリをして訪れ、中国の繊維・縫製業の実態にきりこんでいる。 
 そこで分かるのは、中国は「共産党支配」であるがゆえに工員の給与の上昇どころか組合の結成、ストの締め付けなどを実現できており、そのことが結果的には「アメリカをはじめとする世界のグローバル企業の低価格に応えられている」という実態だ。
 中国が発展したことで、格差はできたとしても低層の低賃金が是正されて困るのはグローバル企業なのだ。となれば当然、共産党支配も続いてもらわなければならない。
 他国では起こった「賃金上昇により進出した工場を結果的に追い出すことになった」という結末が、中国の場合はやってこない可能性があるということだ。
 となると、アメリカに限らず世界の、中国の共産主義体制に恩恵を受けている企業(あるいは政府)は中国の共産党体制を崩壊させないのではないだろうか。
 
 もちろん、より広く見れば様々な要素が入り混じって世界情勢は動いているのだが、「中国には今の共産党体制のまま、低賃金の億単位の労働者に文句も言わせず働かせられる状態を保ってもらわなければならない」「そうでなければ多くの企業が立ち行かなくなる」という思考が働く可能性があるのではないかと思う。
 各国が人件費カットのために中国に手を突っ込み、労働者を使い倒している。となれば、表向きには「中国の軍事的無法は許されない」と言っていても、実際には「共産党体制を護るためには多少の対外強硬姿勢もやむなし」と考えてもおかしくはない。
 対話もむなしく日中が衝突した時にどうなるのか。諸外国にとって自国経済と切り離しても差し支えないのはどちらか。安い人件費の中国VS消費者としての日本。日本の購買力が落ちているとなれば、どうなるか。どんなに国際的道義を訴えても、「道義で飯は食えない」。
 もはやチキンレースである。中国人民が労働者の権利を訴え、暴動を起こし始めるまで(つまり共産党体制により低賃金でも黙って働く状況が破綻しはじめるまで)の間に、中国が日本に喧嘩をふっかけた時、先進国は積極的に中国を非難しない可能性がある。これはアメリカも例外ではないだろう。
 
 となると世界中で日本は「(低賃金労働者は供給できないので)世界中から物を買い上げて(あるいは先端機器などを輸出して)世界に必要不可欠な存在」になるしかない。代替の効かない、経済においても孤立しない立場をとるしかなくなってしまう。クールジャパン的なソフト路線で「日本のあれがなくなったら困る」という状態を保つのも手だが、果たしてどうだろうか。
 すでに日本でも、浜田内閣参与もメンバーである「平和と安全を考えるエコノミストの会」が「日中衝突はGDPを下げる」などと言い出した。
東シナ海を友好の海として共同管理すべき」とまるでルーピーのようなことまで言っていて驚くが、要するに「サプライチェーン(原料の段階から製品やサービスが消費者の手に届くまでの全プロセスの繋がり)としてアジアの統合を」というのはまさに「経済のために国家主権をも制限せよ」と言っているに等しい。
 
 そしてここで気づくのは、グローバル企業であれとはっぱをかけ、続々海外に進出し「勝てる」企業たれ、と述べる人々は、ある意味で中国共産党体制の延命に力を貸してもいる、ということだ。価格競争で勝てないのは他国のように人件費の安い土地へ進出しないからだ、という以上、遠まわしであってもそういうことになる。市場原理主義新自由主義と言ってもいいが)は共産党体制を延命させる。皮肉のようだが本当のことだ。

 まさにグローバル化という泥沼で、一度足を踏み入れた以上、二度とは抜け出せない仕組みになっている。国家を超える企業活動の肥大が招く未来がどんなものになるのか、予想もつかないがいい予感はしない。

ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱

ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱

グローバリズムが世界を滅ぼす (文春新書)

グローバリズムが世界を滅ぼす (文春新書)

あまりにファストになりすぎた世界で


 ファストファッション―クローゼットの中の憂鬱』エリザベス・L. クライン著、鈴木 素子翻訳を読んだ。
 久しぶりに書こうと思ったのはこの本が面白かったからという理由が第一(第二に書く時間があること、第三に「せっかく書いてきたブログがAKBで終わるのは如何ともし難い)だ。
 出てくるファッションブランドの多くを、この辺境・日本でさほどファッションに興味のない私でも知っているし、買ったこともある。そして、一度も着ずに値札のついたままクローゼットに塩漬けになっているものもあり、リサイクルショップに売りに行ったことがある点まで著者と同じ。「クローゼットの憂鬱」は日本にも当然のように迫っていたことを実感する(ただし女性の方が顕著)。
 想像を絶する速さと安さ、複雑さで店舗に到着し、「鮮度」を理由に二週間以内に店舗から姿を消す粗悪な洋服の群れ。パクリ上等のファッション業界では劣化コピーが主流(特にForever21はひどいが他も同じようなもの)で、売れ筋の形や雰囲気だけをまるっといただき、激薄の生地を激安の給料しかもらえない作業員たちが縫製した服を、我々は「安くてかわいい」と身にまとっている。しかし翌年にクローゼットを見返して愕然とする。「去年の夏は何を着ていたんだっけ。着られるものが一枚もない」。そうして再び、安くて粗悪な布切れを売るショップへと走るのである。
 安い人件費を求めて世界の裏側まで行くのがいまどきの経営戦略だというが、世界の果てまで行き切って、「これ以上開拓の余地がない」となるまで、その過ちに気付かないのだろうか。果てまで行って振り返ってみたら、「自国が最も人件費の安い国になっていた」なんてホラーも起こりそうだ。これを日本では因果応報というが、グローバリズム全盛の世界でその言葉を口にするものがいるのかどうか。行く先々の産業構造を壊滅させながら進撃するやり方が、そう長く続くとは思えないが、うまくいっている間は止まらないだろう。止まれば死ぬマグロと同じであり、「グローバル企業」という名の自転車操業だからだ。
 自国の産業をぶっ潰し、「文句を言うなら海外へ行くぞ」と海を渡り、安い賃金でこき使う。その安い製品が自国に入って来て、かろうじて耐えていた自国の産業をぶっ潰す。潰れないためには「セレブ向け」に値段を釣り上げるしかない。製品の高級化によって生き延びたメーカーの製品は、自国の「非セレブ」は買うことさえできない。粗悪なペラペラのドレス1500円。刺繍の効いた、一見手の込んだようにみえるドレス35万円。差があって当然だが、ここまで格差が深刻になろうとは。その仕組みを、自らの「憂鬱体験」を踏まえながら解明していく手法は非常に面白い。特に女性は思うところ大だと思う。昨日寄ったZARA、明日行くつもりのH&M、通販メルマガが送られて来たforever21らが主役だからだ。
 そして気づく。この仕組みはすでに農業でも始まっている。TPP交渉参入の議論わき起こった時、賛成派はこういった。「安い農業産品が入ってくるからいいじゃないか」「選択肢が増える」「国産を食べたければ食べればいい」「国産は海外に高く売れるんだ」。
 そして実現した暁には、ファストファッションと同様、非セレブは安いだけの海外産農業産品しか買えず、国産など買えない状態になるだろう。今でさえ、西友クイーンズ伊勢丹に並ぶ輸入/国産牛肉の差は大きい。ファッションはそれれでもまだある意味「嗜好品」の要素が大きいが、農産品は食べ物である。
 隣の県の畑で作ったジャガイモが食べたい、と思っても手に入らない。まさに日本はそうなりつつある。既にメイドインジャパンの服は高くて買えない。企業は止まらない。消費者が気づくしかないのだが、「安い産品しか買えない」収入しかない消費者は、その構造に違和感を抱きながら、「安さの恩恵を受けている構造」に組み込まれていくしかないのだろうか。身を削って(出費を覚悟で)ささやかな抵抗をするしかない。

ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱

ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱

坊主事件


 早くも今さらな感じもありますが、AKB坊主事件について「なにが嫌な感じを想起させるのか」を考え、長々と文章を書いてみた結果、自分の中の結論が分かりました。

  1. 峯岸氏が仲間もファンも裏切っておきながら、坊主にすれば許されるかもと考えた浅ましさ
  2. しかもそれによって、次に交際がバレたメンバーは相当のことをしなければ許されなくなってしまった。やはり仲間や後輩のことを考えていない
  3. 仲間もファンも裏切るほどの相手なら、AKBを辞めても恋愛を貫徹すればいいのに、バレたら自分が被害者になり男を捨てる
  4. それにより、即捨てるような男とAKBが同程度だったとバレた
  5. 実は内部では「恋愛禁止条例」などないに等しいという疑いも
  6. にもかかわらず、負の面を見ず「物語」などを持ちこんで擁護する人たちがいる
  7. しかもそれが「いい年した大人」
  8. 「そりゃあんたらは『物語』とか言ってればいいだろうけど、若いファンや子供のファンはドン引きで置き去り」の状況が無視されている
  9. 「AKBに入るにはこれだけの覚悟がいる」「こんな覚悟を見せられる少女が他にいるか」と言うが、最も覚悟があるのは「恋愛しない」ことを貫徹するメンバー
  10. まるで自分は内部の人間であるかのようにメンバーらと一体化し、「受難の共有」をすることで浸っているおぞましさが嫌悪感を呼ぶ

 
 こんな感じじゃないでしょうか。