かなしみは友だち

 目を閉じて、じぶんはとくべつに悲惨でかわいそうな存在だと思うと、なぜか慰められ癒されるような気がしていた。悲しみは乳色の湯のようにまだ小さかったわたしの震える身体をあたためた。だけどわかっていた。それはただ優しいだけではなく、わたしを甘やかせ、堕落させ、淫させるものでもあるということを。
 じじつこの悪癖は、理不尽に立ち向かう勇気や、現状を変える行動、じぶんの意志を他者にはっきりと示す声などをわたしから奪っていった。その後遺症はそれから二十年以上経ったいまでも残っている。
 またそれはわたしをあやしく閉じた世界に引き込んだ。やがてわたしはとくにかなしい目にあわなくても、ただじぶんがかなしい目にあうという妄想をするだけで、乳色のあたたかい湯に浸ることができるようになった。自制することはできなかった。漫画で残酷なシーンがあればすぐにじぶんを重ねた。あわれな登場人物に共感しさらには同化した。そういった営みが性的な色彩を帯びだしたのはいつ頃からだっただろう。ただひとつ確実にいえるのは、そのときはまだじぶんの身体に割り当てられた性的な役割をほぼ知らなかったということ。ずっとあとに、ミシマユキオの小説の中で、聖セバスチャンの殉教図を見て性的な興奮を覚えるという一節を目にすることになった。そのときにようやく、じぶんの妄想のタイプがオリジナルではないことを知った。
 いずれにせよ、悲しみはわたしのずっと昔からの友だちだった。優しくて、悪くて、淫らで、時と場所をわきまえないで。両親は忙しかったのでわたしの相手はあまりできなかった。だからわたしは心置きなくわたしの中の鏡張りの部屋の中で「かれ」と長いあいだ喋ることができた。結果として、土手をジャンプで飛び越えたり、はやりものを手に入れたのを自慢したりすることのない、かといって心の中に鬱屈とした野望を秘めているというわけでもない、何をしてもぼんやりとした表情を見せるだけの発育不全の子どもができ上がった。ときどきへたくそで意味のない絵や文章を書いては、すぐに破り捨てた。まだ現実の絵や文学にろくに触れたことのない子どもにとってじぶんで絵や詩のようなものを書くということはとてもわいせつなことだ。わたしのやることなすことのすべてはこの肉体の外にある現実を一ミクロンも動かさなかった。

★★

 だけど、大人になったらそれは許されないのだった。あたりまえだ。
 パソコンの画面の上の数字を増やすこと、パンを膨らませること、テーブルを素早く綺麗にすること、果物を実らせること、人間をあちらからこちらへ移動させること、工場のラインの上のものを組み立ててベルトコンベアの上にまた戻すこと。何かを動かし、じぶんの力で元のもの、元の状態に変化をもたらさなければ生きていくことは難しい。この世界にどんな種類の革命が起きてもたぶんそれは変わらない。
 ドライバーがわたしの身体を依頼主のもとへと運んでいく。
「かれ」はいまでもわたしの友だちだった。





 

日記(1)わたしの位置

 ××回目の誕生日を迎えた。
 これをきっかけにふたたび文章を書きはじめよう。というわけで、このページを開いてみた――と、書き出したのは実は二日前のことで、わたしはそこから先がずっと続けられずにいた。
 これはなかなかつらいことだ。以前ならわけなくできていたはずのことができない。しかしここで引き下がってはいよいよわたしは自分から言葉を繋いでいく能力が喪われてしまったことを認めることになる。そこで、わたしは考えた。なぜ書けなくなったかということについて書いてみよう。これはほぼ空っぽのマヨネーズのチューブをぐるぐる巻いたり、ねじったりするのに似た実に惨めな作業だけれど、とにかくそれでマヨネーズが下品な破裂音ともに出てくればサラダは皿に盛れる。もっともそれを食べさせられる方はたまったものではない……いやはや、この比喩も救いようもなく惨めだ。
 昔、お水の仕事をしていたときに、水割りを作っているタイミングで先輩のホステスに「ねえ、面白いことしゃべって?」という無茶ぶりをされたことがあるけれど、――もちろんそれは本気のイジメなどではなくネタとしてのイジリであってこのやり取りを見てお客さんが笑うわけだが――この「面白いことしゃべって?」という言葉ほど人に口をつぐませるものはない。現実にはわたしは「イジメ、かっこわるい!」などとずいぶん昔のCMの真似をしつつメタに逃れる切り返しをして笑いをとろうとしたわけだけれど、これが許されるのはその上に乗っかるべき情報と文脈があるからで、全くの白紙ののっぺらぼうのところから、「ねえ面白いことしゃべって?」と言われた日にはもはやお手上げである。そこで最初の話に戻るけれども、二日前のわたしはまさにそういう状態だった。
 そこから考えるとツイッターというのは何とも快適な空間であって、上に乗っかるべきネタはタイムライン上にあふれている。この世界では誰に返答するか明示せずに誰かのつぶやきに反応するつぶやきをエアリプと呼ぶが、おそらくタイムライン上の近況報告や身辺雑記以外の多くのつぶやきは本人がそのつもりがなくても多かれ少なかれエアリプの要素を持っているものと思われる。エアリプの相手は他のプレーヤーであったり、ボットによる自動ツイートだったり、ニュースであったりする。もちろんツイッターの外にある誰かのリアルな声であったり、紙の上に印字された文章であったりもするだろう。そして場合によっては自分の過去のつぶやきだったりする。個人の内面や魂から湧き出るという、何やら素朴で神秘的な言葉の捉え方に対してわたしは極めて懐疑的だ。わたしの紡ぎだす言葉は結局のところ、自分自身も含めた誰かの言葉に対するリプライというかたち以外では存在し得ないのではないか?
 だとすれば、わたしの言葉はこの延々と連なる巨大なリプライ宇宙のネットワークの1ユニットを担っているだけで、誰かに実用的なメッセージを伝える以外に、新たにそれを紡ぐ意味などどこにもありはしないのか?そうではないのか。もしくは無意味であっても紡がざるを得ないのか。それを考えるということと新たに何かを書くことはもはや不可分と思われる。だからそこを考えよう。
 とにかくサラダは皿に盛れたわけである。不格好の極みだけれども。
 
 

紀行文・南紀再訪『神々に逢いに』

 眼下のぎざぎざの海岸線に囲まれた海に陽光があたり、玉をちりばめたように輝いているのを車窓から目の当たりにすると、ああまた来たのだ、と思った。東京からこの地方は地図が示すよりずっと遠く、昨晩から幾つもの電車を乗り継いでやっと辿り着いたのである。駅に降り立つと暑さのために汗が吹き出る。この鈍行の旅はさすがに堪えた。南国の太陽が日焼け止めをもろともせず肌をじりじりと灼いてゆく。
 以前、熊野の地を訪れたのは寒風がコートを貫いて肌を刺してくるような頃のことだった。ある作家が生まれた地であり、かれの本で読んだこと以外にはとくに何も知るわけでもなく宿のあてもないまま辿り着いた。ふらりと現れては去る行客のひとりとして。そのつもりだった。

 観光案内所で教えられたビジネスホテルの向かいに一軒の小さな居酒屋があった。この時もひどく旅疲れしており、あちこち歩いて店を選ぶのは億劫だった。店内はわたし一人がカウンターに座るばかり。お湯割が硬く冷えた身体をほぐしていく。心細さの反動か旅先の気安さからなのかママとの会話も弾む。口の中ではらはらと解れて旨味が広がっていく鮪の串揚げに感動していると、何でまたこんな辺鄙な所に来たんだいね、と尋ねられ、その、好きな作家の故郷で、といえば、健次さんか、とママは微笑んだ。亡くなってもう随分、けど愛されてる、前も大学生の女の子がひとりで来たわい。
 翌朝、ママは息子さんとお友達が運転する車でホテルまで迎えにきてくれた。那智の滝で恒例の神事が行われるので一緒に行かないかという。未知の土地を案内してくれるのは心強い。だが通りすがりの旅人にすぎないわたしは些か、いや相当に恐縮してもいた。
 ママは様々なものに手を合わせるのだった。紀伊半島の地形はかれの本にある通り、海から少し離れるとすぐに急勾配の山道に入る。時おり山道が開けて海をさんさんと照らす太陽が顔を出す。するとママは手を合わせ何事かを呟くのだった。あっという間に標高は上がって行く。駐車場に車を止めて一行は参道を下る。ひときわ目を引く老樹があった。ママはその下で手を合わせ、顔を上げ両手を広げる。何百年もの時を越えて聳え立つ老樹の霊力を我が身に得ようとするかのように。
 道中、ある光景が目についた。ガードレールの向こうの川岸に赤黒い岩があちこち転がっていて、重機がそばで佇んでいる。川が氾濫し一帯を荒廃に追いやったその痕だった。熊野がこのような災いに見舞われ易い地であることは何となく想像がつく。信仰心の篤さと、破壊と再生が隣り合わせの土地の厳しさは分ちがたく結びついているように思われた。人々が手を合わせるところの天と地は、時おりむき出しの暴力を振るう。にも関わらず、いや、だからこそなのか。かれの本にも津波南紀の地を襲ったときのことが描かれていた。家は流され多くの命が消えた。
 それにしてもふしぎだった。この人たちはなぜ何の縁もない人間にこんなに親切にしてくれるのだろう。旅とはこれまでわたしにとって関係から逃れ、孤独の穴に入り込むための手段だった。旅館や食堂で何か尋ねられてもその場限りの回答をして出会いは何も残さない。だから、東京から実家に引っ込んで部屋の中に閉じこもっていた日々のこと、今はそこから足を踏み出したばかりで、旅が終わったら実家を離れ東京に再び出るつもりだということを自分が話したのは思いもよらぬことだった。
 なら、うまくいくよう神さんに祈らんと、とママ。わたしたちの眼前には、百三十三メートルの高さから水が布を引くように落ちる那智の大滝があった。

 あの鮪の串揚げが食べられないのはしんから残念だった。ママはその後大病を患い店を畳んでいた。だが会ってみると以前と何も変わらないように見える。
 本当にようなった、冷えたビールを美味しそうに飲み干してママは言った。そしてわたしを見て、表情が華やかになった、と息子さんと言い合う。改めて乾杯をする。こうしてまた会えたのも神さんのおかげや。
 その翌日、わたしはひとりで息を切らしながら熊野古道を歩いていた。山林を貫く石段をひとつひとつ踏みしめて行く。汗の粒が頬を流れる。樹々が太陽の光を遮り、あたりはしんとしていて涼しい。風が枝を、湿った髪の毛を揺らす。木の葉ずれの音が反響しあい、森の声となる。ふとわたしは今、この森とひとりで向かい合っていることに気づいた。軽い胸騒ぎとめまい。何か大きなものに抱かれようとして気がつけば手を合わせていた。


*某随筆コンテストに出品した作品です※

ひらひら舞うエメラルド色のなにか

わたしが思いまするに、言葉には捉える力というのがあって、つまりそれは、対象だとか概念だとかを網でつかまえて虫ピンで止めて固定して文字の形に定着させるという働きであって、この働きのために世界は安定し法は機能し道徳は大いに栄えみなみなが幸せな結婚に向かって奔走するのだと思うのです、よ、おとこはおとこ、おんなはおんな、おとなはおとな、にんげんはにんげん。
え、大風呂敷広げ過ぎだって?いえいえ本当だって、本当に、たとえば、ほら、見てご覧、いま、空にひらひらと不規則に舞うあのエメラルドグリーンの羽を、空に消えたかと思えばまたこちらに舞い戻る、えいっ、捕まえた、これは、オオルリアゲハという蝶々です、ほら、このピンで留められた標本の中のこいつと同じでしょう?ほら、「オオルリアゲハ」ってしっかりとした印字がこの下に。可哀想に、こいつはもう死んでしまっているのだけれど、ね、しかしその代わりに、こいつは永遠にオオルリアゲハなわけですね、たいへん名誉なことです、しかし、わたしはこれ以上殺生をする事はのぞまない、なので、この新しく捕まえたエメラルドグリーンは再び空に放ってあげることにしましょう、だいたい、この子自身にとっては、自分がオオルリアゲハであることなんてどうでもいいはずです、ただ必死にその生を生きているだけなのですから、我々のような乱暴者に満ちあふれた世界の中で、空気の抵抗に逆らってなんとか必死に空を泳いでいるだけなのですから、ほうれ、飛んでいけ!

そう、このようにして生き生きとしたそれぞれのものたちが、言葉によって捉えられピンで留められるから、我々は様々な事を合理的に裁けるようになるのです、もしあれが、オオルリアゲハではなく、空を舞うエメラルドグリーンな何か、のままだったら、そして世界の様々なものたちがそのようであったなら、我々は何も言えなくなるでしょう、世界は混沌に満ちるでしょう、しかし自由でしょう。


わたしの関心事は言葉によって秩序立てられるまえの世界をいかに言葉によって再現できるかです。


























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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報告など。贅沢について

小遣い稼ぎ程度とはいえお仕事で書きたくもない文章を書くということは案外たいへんなもので、オペレーターの仕事に加え水商売もしてるところに、ハヤクカキアゲナケレバという意識が常にありながらネットに逃げたり逃げなかったり寝不足になったりする現状はあらゆる意味で非常によろしくなく、ついにこないだ依頼企業に来月以降はお仕事を辞退させていただく旨申し出たのでした。
もちろん収入的には痛いのですがその分他の2つの仕事を増やせばいいわけで、業務量の多さが辛いというよりはわたしのようなスケジュール管理が苦手な人間が3つ仕事を掛け持ちするというのがそもそも無謀な話だったのです。それにしてもここ数ヶ月はむかし正社員だったときよりもずっと稼いでいるのに毎月給料日前カツカツになるのというのは困った話で、脱毛だの薬だのといったいわゆるトランス関連の出費というのももちろんあるんですが、なんだかんだで飲食費など無駄な出費が多いのでした。
疲れた身体とメンタルを回復するために贅沢メシをという考えも正しいとは思うしここ東京に来てからのわたしもその考えを採用していたんですが、実はここのところお寿司を食べたりカクテル飲んだりするよりもきれいに掃除したキッチンで色鮮やかな野菜を包丁でざくざく切ったりお鍋で煮込んでいる肉の匂いを嗅ぐ方がよほど贅沢なのではないかと思えてきたのです。ただその際に残念なのは料理を楽しむにはうちの一口コンロのキッチンはいかにも狭いということと、この煮物うまくできたね美味しいね、と語り合う人が多くの場合いないということで、料理写メをSNSにあげたりするのはたぶんその代償行為なのでしょう。
贅沢といえば、大学生の頃なんかにはよくやっていたカフェで読書というのも今から考えると最高の贅沢なのであってこれからはそういう時間を多少は持てるかもという淡い期待を抱いています。やはりインプットがないとアウトプットもダメになるわけで、依頼に応じて文章を書いているうちに自分の言葉の栄養状態がひどく悪化していくのに気づきました。そうそう、こうしてお金にならない文章を好き勝手に書き散らすのもわたしにとっては贅沢なのです。ようはわたしはお金を使う贅沢よりも時間を使う贅沢の方が向いているという事なのですね。ここ半年わたしにしては珍しくたくさん働いてたくさん使うというスタイルで生きてきたのですが、そろそろギアを緩めないと身体がもたないです。
さてライターのお仕事をやめたかわりにといっては何ですが、今後は書きたい文章を書くことに集中したいと思っています。出すところに出すのもそうだし、イベント参加の誘いもいただいているので、前向きに検討しているところ。こちらのブログももう少し頻繁に更新できそう…かな?

創作<15枚>

天狗のはなし


 ねえ、ゆーくん、天狗のこと知ってる? 子どもを攫って儀式の生け贄にするの。たまに大人も攫うんだけれど。
 知らないんだ。なら、あたしが話してあげる。そうねえ、たしかに。ゆーくんみたいな人はきっと知らないと思う。都会の、まじめな、サラリーマンだものね。ううん、知らないなら知らないでいい。知っていなくちゃいけないことじゃないもの。ううん、そういうことじゃない、世の中には知らなくても良いことがある、っていう意味じゃなくて、ひとりの人間が知りうることは限られていて、誰にでも絶対に知り得ないことはどうせどこかに必ずあるってこと。たとえば地球人から見た月の裏側のように。天狗のことがゆーくんにとって月の裏側であるように、あたしにだって、ゆーくんの知っていることで永久に知り得ないことがきっとある。確実に月の裏側の景色は存在する、でも、それがどんななのかは地球人にはふつう、わからなくって、その裏側に月の住人の町があったとしても。あちら側の人間は、当たり前のこととしてそれを見ているのに。あれれ、何かおかしな話になってきた、ええと、何の話をしていたのだっけ?そうそう、天狗の話ね。
 天狗はどの街にもいるの。もしかしたら別の呼び方もあるかもしれない。でもあたしたちの周りの天狗遭遇経験者はみんなあれを天狗って呼んでるから。身長二メートルくらいで、すごく大きいし、力も強く、あちこち飛び回ることができるの。ものすごく視力が良いし、マントみたいなもので姿をすっかり隠すことができる。いつも姿を隠しているから、天狗に実際に遭遇してひどい目にあった人しか天狗を見たことがないの。
 天狗は街の景色がよく見えるところ、うん、たとえば、ビルとかテレビ塔の上とか、そういうところから街を見下ろし、まずターゲットを絞るの。ここで多くの人は対象外、ゆーくんもそのひとりね、になって、天狗の視界から消える。世の中には天狗に目を付けられやすい人間、というのがいて、あたしは特にその中でも目を付けられやすいみたい。天狗の遭遇仲間によく言われる、天狗遭遇経験者の会っていうのがあってね。そこで、君はダントツで狙われそうだから注意した方がいいって。命の危険だってあるのに、もう少し用心すべきだ、とくに一人で夜道を歩くのも危ないし、歩くスピードがゆっくりすぎるのもいけない、いざというときにたよりになる近しい友人がいないのもよくない、まず基本的な生活習慣を改めるべきだ、と脅迫まじりに警告されることだってあるの。もう、ほんとうにべきべき言う人ってきらい。その、天狗遭遇経験者の会の代表幹事のべきべきおじさんは、四十代のタクシードライバーで、十代の時に一度だけ天狗に襲われたって言ってたけど、本当なのかな。実は天狗の話は聞いたことがあるだけで、あの会に入ってくる若い女の人を狙ってるんじゃないかってあたしは思ってる、なんか粘っこい目でじろじろ脚を見てくるし、不必要に身体に触れてくるし、気持ち悪いの。ミニスカートだとかショートパンツといった服装もあるいは天狗の標的のなりやすさと関係しているかもしれない、だなんて。お前と天狗を一緒にするなっつーの、ばーかばーか。あと、ときどき新興宗教のパンフレット持ってきて、入信したら天狗に遭遇しなくなったからあなたもどうか、なんて言ってくる女の子もいるし、最近あの集まりどうかなあと思ってる。まあゆーくんには関係なかったね、どうでもいい話を長々としちゃってごめんなさい。
 あ、そうそう、天狗の話。どういうタイプが狙われやすいかって? だいたい分かるよ、あたし。まあ、何回も天狗に遭遇しているとだんだん天狗の気持ちが分かってくるものなの。男より女の方が目を付けられやすいけれど、そおねえ、若い男の子の天狗の遭遇経験者ってけっこう多かったりするから、性別はそれほど重要じゃないみたいね。それよりはまあ、若いってことの方がよほど重要。天狗は子どもが大好きだから。ときどき間違ってあたしみたいなちょっと歳を食った女に目を付けたりもするけど。ええ、見た目がかわいいのも条件じゃないかって?あははははははははは。
 ゆーくん、褒めてくれるのは嬉しいけれど、実はそれもあんまり関係がなかったり。むしろ、モデルみたいに美しかったり、それで人気者だったりする人には天狗は近寄らない。絶対に。たとえば、いま天狗が柱の影から学校の教室の風景を眺めつつターゲットを探しているとして、これから天狗が連れ去るのは、クラスの中で隅っこで本を読んでばかりで目立たない子、フケ臭くて陰気でいじめられたりしている子、常に何をしたらいいか分からなくてウロウロしていて助けを求めているように見える子、そのあたり。あたしも昔そんなだった。それかそもそも学校に行ってない子。運動ができて男子にもてて太陽のように明るくて美しくて快活なすばらしく洗練された野生動物みたいな女の子、いるでしょう?クラスの人気者タイプ。そういうのになんて何があっても手を出さないわけよ、なぜか。そういう魅力的な子が連れ去られた方が、なんというのか、こういうことを言っちゃいけないのかもしれないけれど、公平な気がするけれど、そうはならないの。でもまあ、世の中ってだいたい、そうなった方が公平な気がする、ってことの逆をいくものよね、まったく。チャンスが落ちてくるのはいつだってお金を持っている人のもと。そして貧乏人は賭け事でますます身持ちを崩す。
 天狗はまず標的がひとりになるのを待つの。さっきの話からも分かるように、天狗が狙うのはいつだって孤独を抱えた子。女の子が女となっていく、男の子が男となっていく、その流れからポツンと置いていかれて、ひとり左右を見渡しながら目を潤ませている子、どの群れにも長く属すことができず、ふらふらさまよって、ときどき群れから門前払いされて、困惑しきった顔をしている子、そんな子に天狗はゆっくりと後ろから近づいていくの。そして誰もいないところにさまよい出るのを待つ。天狗にとってはこんなことはワケないでしょうね。ビーズの中にまぎれたパチンコ玉を探すことよりも簡単よ。天狗にとってはその子が自分を誘っているようにさえ見えることでしょう。そんなことはあり得ないわけだけれど。
 その子が肩を叩かれて振り向くとそこに天狗がいるの。最初に遭遇したときはたいてい誰も声を上げることができないの、仮に声を上げても周りに誰もいないから意味がないけどね。というのは、なぜかそこは人々の群れから遠く、星が違うのかってくらい、離れた場所で、だから、逃げるにしても逃げ込む場所がないの。気がつけばそこはさっきまでいたはずの人間の世界じゃない、天狗の世界。すでに連れ去られているわけね。もう、この時になったらすべてが手遅れ、だからその子は、こうなる前にどこかの群れの中に入って、仲間の子とくだらないおしゃべりを延々と繰り返していればよかったの。そうしたらこんなことにはならなかったのに。
 天狗の世界には景色というものがないの。それにすぐ目隠しをされてしまうからどこに何があるのか全然分からない。感じることができるのは、天狗と自分の肉体とそれにぶつかる空気の流れだけ。肉体しか存在しない世界に放り込まれると、肉体というのは何もしなくても実にたくさんの音を出しているということに気づくの。友達と何か話をしているときは決して聞こえなかった肉体の音がする。フー、フーという天狗の吐息、自分のつばを飲み込む音、自分の鼻息、そして自分の靴が地面とこすり合う音、自分の歯がカチカチなる音、あと天狗の喉からなる唸り声のようなもの……あたしは、あの時何を見ていたのだろう、最初に天狗に会った時。天狗の姿を正視することができなかった気がする。記憶にあるのはその音だけ、あとはその後にやってくる儀式、生け贄にされるの。変な飲み物を飲まされて目隠しされているから何も分からない……熱いような痛いような、揺らされるような、形而上的かつ形而下的な痛み……。それはとても口では表現できなくって。一度死ぬような感覚とでもいえばいいのかな。身体の上を電車が通り抜けるような、身体の穴という穴に焼けた水銀を流し込まれるような。そのままショックで死んじゃった人もきっといる。そしてたぶん、世間では失踪者として扱われるの。あのねえ、あたしこうやって何でもないように話しているけど、天狗ってやっぱりおそろしいの。
 でも、そのとき、あたしと天狗の間には何かこう、親密さ、というものがあったような気がする。違うの、そうじゃないの、強制的に親密さの空間に押し込まれるという感覚、とでも言えばいいのかな。あたしの親は引っ越してばかりで、なんていうか、人と深く知り合う機会も、こうして、親以外の人間と距離を詰めることもまるでなかったの。だからすごく不思議な感覚だった。その不思議さは、恐怖とはまた別に、独立して存在していたわけ。強制的に味わされたものではあったけれど。少なくともあたしはそのときそれまでで一番孤独じゃなかった。燃え盛る火の前で木の台の上に横たわっているとき、不思議な高揚感があった。
 最初に天狗に遭遇した時、あたしはお祭りの後の夜の神社にいた。親とはぐれたというよりは、賑やかなお祭りから帰りたくなくって親からわざと離れたような感じ。お祭りが終わり、出店の灯りもぽつぽつと消え始め、風景がだんだん寂しくなっていく。あたしは、どういうわけかお参りしたくなって、小さなほこらの前に立っていた。そしたら、天狗に肩を叩かれたの。
 気がつけばほこらの前であたしは倒れてた。そして、顔についた泥をハンカチで拭いて、口の中に入った砂粒を吐き出しながら、あたし、これはきっと罰なのかもしれないと思った。良い子に育たなかった罰。ひとりで夜のお祭りを楽しみたいなんて、小さい娘にあるまじき願いを持ったことに対する罰。ちゃんとした大人になれないことに対する罰。健やかで明るくてみんなと仲良くできる子だったら、きっとこんなことにはならなかったんだって。その後も、天狗に遭遇するたびに、自分が悪いことをしたからだ、と思ってた。ふつうに男の子に恋をして、結婚を考えたりして、子どもをうみたいと思ったりして、そんなふうにふつうに生きることすらできないで、みんなの前では笑っているふりをして、そのくせ、嘘をついたり、隠し事をしたり、陰険なことをしたり、怠け者だったり。だから未だに天狗に狙われるのかもしれない。痛みを味わってる時、いつもあたしはごめんなさいって思ってる。ふつうに、倫理的に、まじめに生きられなくてごめんなさい、っていうか、そもそもそれらのふつうとか倫理的とかまじめとかいう言葉の内実すら知らないでごめんなさい、ごめんなさいって。
 天狗の顔ねえ、あたし実は天狗の顔の細かいところって全然覚えられないの。あたし人間の顔は結構覚えるの得意なのに。だから、今回遭遇した天狗が、こないだのと同じなのかそうじゃないのかすら分からない。みんな同じ天狗に見えてしまう。だいたい三度めくらい、いったん天狗に遭遇してしまったらもうどうしようもないということを理解しだしてから、あたしは天狗の顔から目をそらさずにじっと睨みつけてやるようになったんだけど、それでも特徴を覚えられない。四角い顔と丸い顔があるから、天狗はこの世界に一匹だけじゃないということくらいね、せいぜい分かるのは。天狗の顔がそれぞれ特徴豊かだったら、もしかするともっと親しみやすいかもしれない。恋だってできるかも。こういうことを言うから天狗遭遇経験者の会で、だから君はダメなんだ、とか、天狗に対する意識が甘すぎる、とか言われちゃうんだけどね。、あの、タクシードライバーなんか昔左翼だったから、「自己批判するべきだ」なんて言ってくるし。ウケる。あほらしい。
 こないだ会った天狗の顔も全然覚えてないな。ええと、一ヶ月ほど前だったっけ。自慢じゃないけれど、あたしくらいに天狗に遭遇していると、だいぶん根性が据わってきて。こないだなんか天狗に話しかけたの。はじめて!昔なら考えられないこと。子どもの頃は、これから何が起こるか分からないけれど確実におそろしいことが起こるということだけは分かる、そんな状態で、ガタガタ震えていたばかりだったから。ちなみに、この話をしたのはゆーくんがはじめて。たぶん絶対ひどい言われようをするから、天狗の遭遇仲間にはこの話してないの。下手すると会から除名されちゃうかもしれないし。かといって、天狗を知らない人に話しかけても、信じてくれないし。ゆーくんみたいな変わり者なら別だけどね。
 それで、お久しぶりかな?それとも、はじめまして?ってあたしは言ってやったの。強制された親密さをあえて引き受けることで、恐怖も罪もまぎれる気がしたのかも。もちろん、これからひどい目に遭わされるのは分かっていたから怖かったけれど、もうこちらから何をしても無駄だから、覚悟を決めるしかないわけ。あたしはごくんと唾を飲み込み、天狗はフー、フーと息をついていた。いつもの肉体が息づく音が聞こえてきた。天狗には日本語はやはり通じないのかしら、と思っていたら、驚いたことに天狗が喋ったの。……人がわれわれに話しかけるものではない。 あたしはどういうわけか嬉しくなった。そして目の前にいる二メートルくらいの天狗に親しみを持てるようになった。想像してみて。これまでは、フー、フー息を立てて、喉から猛犬みたいな音をたててただけなのに!言葉がわかるのね、とあたしが言うと、われわれの言葉は分かる、って言うの。まるでちぐはぐなやり取りじゃない?あたしは確かに日本語を喋っているのに。
 天狗の言葉であたしが天狗に話しかけてるって天狗は言うの。馬鹿なこと言わないで、とあたしが言うと、お前は既にわれわれになりつつある、って。その後、またあたしは天狗に生け贄にされたけれど、それまでよりずっと痛くなくなったの。あたし、天狗の世界から何とか帰された時はいつだってボロボロで歩くのがやっとみたいな感じだったけれど、こないだはずいぶん余力があって、最後に天狗に手を振る余裕すらあった。
 それにしてもねえ、ゆーくん、あたしが天狗になりつつあるって、そんなことあるわけないと思わない?だってちゃんと日本語喋ってるし、人間の顔をしているし。そう思うでしょ?いい加減なこと言うよねえ、あの天狗も。
 ゆーくん、今日ははじめて会えたのにこんな話ができて嬉しい。一緒に次の店行こうよ。まだまだ夜は長いもんね!

Monologue....

 分かりやすく言えば<精神的な問題>が原因でまるで散歩中の犬がむりくり飼い主に鎖を引っ張られるようにして実家に帰ってから約数年、わたしは再び東京の街に降り立ち、あたりを見回して19の頃に味わった新鮮さというのは人生で一度こっきりのものだったのだなということを改めて感じたのだった。寒風が吹き渡る1月の朝5時の新宿の白々とした街なみにはもはや特にわたしにとって見るべきものはなく、震える両手を合わせビル群のまっただ中で矩形に区切られたうす藍色の空を見上げながらただただあたたかな飲み物を求めていた。
 ただしあの頃とはこちら側が何もかも変わっていた。合うかどうか分からないけれども存在のかたちをもう一方の側に合わせたいというわたしの欲求を精神医学の世界では三つのアルファベット、もしくは<disordor>というものものしい意味の単語を含む五つの漢字で言い表すらしいけれど、そのやたら窮屈な箱にわたしの身体が、おそらく他の人同様に、すっぽりと収まるとはとても思えないことは分かっていたけれどとにかくあの頃とは違いわたしの髪は長くそして顔にはうっすらと化粧をしていた。バスは女性用の席に座っていた。
 それから一週間も経たないうちに夜のお店で働く事になって、さらに一ヶ月後には昼間の職が決まった。想定外なことはあったけれどひとまず順調で、とりあえず肉体的な疲労はさしおき<精神的な問題>は発生していない。
 かつての<精神的な問題>といわゆるとの関連は正直なところ自分でもよく分からない、だから、それについては積極的には喋らないことにしている。広い教養を持つ精神科医が散文よりも詩歌や絵画にやたら言及するのは、散文にほぼ必然的につきまとってしまう政治性が非常に邪魔であるからかもしれない。わたしは「心はこちらで身体はあちら」という言い方は恥ずかしくて真顔で使用する事ができない。それはたとえ大学でジェンダー論を学んでいなかったとしても恥ずかしい事には変わりなくて、ただ、もちろんお店でそういう事を言われたときは冗談にしたり微笑んだりするくらいにはあの頃と違って大人になっている。
 しかしわたしの歴史はその<精神的な問題>が発生する前後の時期を真ん中に挟んで革命前革命後のように見事に二つにぱっくり割れてしまっているのは事実で、この深い溝を埋めずにこのまま生きるのはどうも——こういう表現はいまさら何を言ってるのか、な感じがするけれどとにかく——健康的ではないような気がする。だから、わたしにとっては変わったことよりも、変わっていないことの方が大事だし、この十年抱き続けてきたものを見失わないことが大切で、それを完全に手放してしまったときわたしは軌道を外れた人工衛星のようにあなたに飛んでいってしまうだろう。
 そこでわたしは東京に来てから暇を見つけてはかつて歩いていた場所を巡っていて、こないだはお茶の水のそのの医者のもとに通ったあとに、かつて三年間通った大学まで歩いた。お茶の水の喫茶店であたたかい薄緑色のミントティーを飲んでいると隣の席で老人たちがキリスト教の神様について語っていて、わたしにはそれがとても懐かしく思われた。その話の内容にではなくその話す口調のゆるやかさに。こちらにきてからわたしが聞いたのはだいたい昼間は乾燥した金属のように空間を滑っていく声、夜は酒と色に酔った生暖かく粘ついた声ばかりで、その中で早くもわたしは多くのことを学んだけれども、そこがわたしのたどり着きたい場所だとはどうしても思えなかった。わたしはどう転んでも特定の既存の神様を信じることに向いていない人間であるけれどこのようにともにぬるま湯につかるように誰かとゆるやかな言葉を共有することには強く心惹かれる。けれどそんな誰かは今のわたしの周りにはもはや存在しないということに思いいたると索然とした気持ちになり席を立つ。
 それからかつて通った大学のキャンパスまで歩いた。お茶の水からここまでの街なみは新宿や池袋と比べるとどこか余裕があって、たぶんそれはこの街が背負っている歴史ゆえのものだと思う。その歴史は大学のキャンパスの中に入るといっそう色濃く、どれだけその時代をときめく商売人や権力者が行き来してもこれらの建物たちはまったく動じることなく<歴史>の中にまるまると飲み込んでしまう風情だ。だから逆に言えばわたしのようなもはや外部者となってしまったうさん臭げな人間が闖入しても誰もとがめない。
 文学部三号館に向かう時、あのときのわたしが熱心に講義を受けた著名な翻訳家の教授とすれ違い、あのときの○○○です、と声をかけたい衝動に駆られるけれどもどうせ気づくはずもなくてやめた。そしてそうだ、わたしも大して変わっていない。とにかくわたしはわたしの書くものを書こうと思った。