少し不思議はちょっぴり怖い気がするんだけども。「第七女子会彷徨」
今自分達が当たり前だと思っている、パソコンや携帯電話のある生活は、30年前には想像すらできませんでした。
車や飛行機がある生活は100年前には想像すらできませんでした。
でも自分達は今、ごく当たり前のこととしてそれらを生活の一部にしています。
きっと昔の人が見たら「何言ってるの、気持ち悪い」と思ったことでしょう。
数年後、いや、明日。何が世界の当たり前になっているかなんて、分からない。
●ごく当たり前な非日常●
純SFなオムニバスコメディ作品。藤子・F・不二雄先生の描く「ごく当たり前にある非日常」感を正統的に継承していつつ、ちょっと…どころじゃないブラックさもふんだんに盛り込まれています。
SF小説はあまり詳しくないですが、この作品が影響を受けているであろうSF文学は読んだ人なら色々思いつくのではないでしょうか。それを考えてニヤニヤするのも一興。
「ごく当たり前にある非日常」は、最初にも書いたように少し「気持ち悪い」んですよ。
というのも、絶対に現時点ではあり得ないものが、生活の一部になっているからです。しかもなんだか説得力のあるような裏付け付きで。
マンガはそうした「非日常」が絵によって楽しめるジャンルではありますが、微妙な説得力が絵にあると、妙に不安を感じさせる力も持っています。
たとえばこれは、「脳に直接働きかける笑い袋」の話。もちろんバッドエンドとかはなく、のほほんと話は進んでいくのですが、これ現代の常識で考えると怖くないですか。
「脳の感情中枢を安易に刺激」って、それ一歩間違えれば簡単に人間を破壊できるわけです。むしろこういうテクノロジーがあるのですから、それを悪用する人はこの世界に間違いなく存在するであろう、というバックグラウンドもここから読み取ることが出来ます。
じゃあどうするか?
それを管理するための体制を作らねばなりません。
このへんを小難しく描かない。
むしろその上っ面に乗っかった世界だけ描きつつ、微細なバランスを保って揺れている世界が後ろで氷山のごとく沈んでいます。
この海面の下に何があるのかまだ見えない。だから不安なのです。
とはいえ、女の子二人の様子を見れば分かるように、ごくごくこれは当たり前のことなんです、この世界では。
いわば「人が箱に乗って自動的に動くなんて、ぶつかったらどうするんだ!」と心配していた昔の人と、現代の車社会に生きるのが当たり前の人の感覚の差。
実際車を悪用する人もいます。それを守るための管理体制も存在します。今はそこに安心して暮らしていますが、昔の人は漠然とした不安を抱いていたでしょう。
その不安を、さらりと楽しむことが出来るからこの本はすごい。
●不思議な管理体制●
SFが科学的に愉快な方向に進んだ分、社会的な仕組みが必要になります。
この本の中でも、基本科学ネタが多い中、社会体制だけのネタで描かれる回が存在します。
これがまた…不安でねえ。
非常になんとも説明しづらいので読んでもらうしかないんですが、この世界には「友達」を作ることが管理されているんですよ。
普通の友達を作ってはいけないわけでは決してないんですが、授業の一環として「友達を作る」という科目が存在し、主人公の少女二人はそれで出会うことになります。だから仲がいいのか悪いのか時々曖昧になります。実質仲は良さそうなんですが、この回が入ったことで、この制度が存在しない現時点の価値観(自分達から動くことで友達として接しようとする)を簡単に壊してくれます。
人間関係の距離感が科学によって変わることがあるのは間違いないです。携帯電話とか、インターネットとか。実際に会うのが一番親しみ会えるのは分かっていても、昔と今の人間関係のあり方は微妙に違います。
この作品の世界では、位置関係以外のものを乗り越えて仲良くすることができます。同時に側にいても相手が誰だか分からない保護もできます。
もう一辺倒にこっちの価値観で計れないんですよ。
でもその「ありえない価値観」の中で過ごしているギャップがいいんです。それらはあくまでもこの世界では当たり前なんです。
●恐怖を超える方法。●
「第七女子会彷徨」の世界は生と死の境目も簡単に超えます。
このコマだけでも強烈すぎて、背筋がぞっとするものがあるのですが。
現実の世界において、死は人生の一大事です。何よりも恐ろしいものです。
しかしこちらの世界は死を全く恐れていません。まるでたまたま今日学校を風邪で休んじゃったかのように、日常の一部と化しています。
だから、死よりもCDの方が大事です。
ここだけ見るとなんとも悪い冗談にしか見えないんですが、実際は「死んだ後もコミュニケーションを取れる」という描写が徐々になされていき、少しずつ安心させてくれます。
でも待てよ。
安心はするけれども、だからといって「死ぬ」ということが無くなったわけではないのだよね。
感情の操作、意識の共有、生と死の境界線の移動。確かに人間が望み、そのために今も科学が進歩している分野ですが、これが当たり前になって価値観が変わるとこんなにも軽くなってしまうのか。
その軽さが、強烈な不安と、妙な心地よさを生みます。不安なのは自分の価値観がめきめき狂うから。心地よいのはIFの世界がすらりと叶う様子を端からシニカルな笑みをたたえながら見ることが出来るから。
一巻で「命」の価値観を簡単に破ったこの作品の中の少女達ですが、今後もっと「気持ち悪い」と感じる価値観の破壊を、スキップをしながら彼女たちは行うでしょう。
●女の子達の世界は変わらない●
この作品が、影に隠れた巨大な不安の種と、強烈なテーマっぽい何かを隠し持っているのに、軽快に楽しめるのはヒロイン二人が割とアホだからです。
価値観は変わっても、女の子二人寄ればやることは一緒、なんです。
一人は几帳面できまじめな性格の金やん。なぜかシェルターに住んでます。
もう一人はズボラで迷惑ばかりかけるマイペースの高木さん。
見ての通りのぐだぐだな関係の二人は、先ほども書いた「友達の授業」がきっかけで知り合いました。二人が真の意味ではどんな関係なのかは実際に読んでもらうとして、この二人の軽さがこの作品を救っている(あるいは目隠ししている)と思います。
何もかもズレが生じる世界観ですが、基本的に女の子二人の間の世界は変わらないわけです。若くて幼くて。仲良くしたりケンカしたり。彼女たちは不安なんて感じず、ただその世界を享受します。
視点が広がった大人になればなるほど、目の前にいる友人と自分の世界しかみえない視野の狭さに懐かしさを感じるというもの。視野が狭いからこそ、不安なことすら勝手に安心できます。
その視野の狭さこそが、実は人間の根っこにある関係なのかもしれません。言葉では説明できない、一番不思議なもの。
この二人の見方が非常に自由に取ることが出来るようになっているので、百合っぽいと思って見るもよし、うわべの関係から始まっていると見てもよし、かけがえのない親友ととるもよし。
一つ間違いないのは、お互い「彼女は側にいる」ときちんと感じていると言うこと、です。
それで十分。
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あわせてコメントとWEB拍手からも面白い話があったので載せさせていただきます。
『第七女子会彷徨』、面白いですよね!
藤子イズムな「日常の中の非日常」具合がとても心地よいです。
コミックビームでときどき描いている、新谷明弘さんの『未来さん』という作品と近いと思いました。 by キミドリ
「未来さん」好きです!これまたレアな作品の名前を久しぶりに聞きました。
高砂小橋
『はじめまして。
「みつどもえ」好きなのでいつも楽しく読ませていただいております。
尾崎翠の「第七官界彷徨」が好きなので、紹介された「女子会」を早速買ってきました。
まあ尾崎とは似ても似つかないのですが、面白かったですね。
粟岳高弘と石黒正数を足して割ったみたいな。
本ネタの尾崎翠も紹介して頂けると嬉しいなぁとちょっと思いました。』
粟岳先生は自分も大好きな作家さんです。妙な世界観の中に裸でたたずむ少女達。なんとも不思議な世界観がぬるま湯のように心地いいんです。おそらくSF的未来感にあわせて、子供の頃寝ながらぼんやり夢に見たような懐かしさを感じるからだと思います。七女も未来的なのに懐かしいんですよね。
ちなみにつばな先生、「それ町」でアシスタントをされていたとか(4巻参照)。なるほどー。