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少女好き、アリスマニアが見た、ティム・バートン版「アリス・イン・ワンダーランド」

アリス・イン・ワンダーランド オフィシャルサイト

ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」を見てきました。
 
で、こういう映画の感想を書くときは必ず主観をあえて入れるようにしているので、先に自分のスペックを書いておきます。

・少女大好き。少女美至上主義者
・アリスオタク。マニア。コレクター。
ティム・バートン映画は大好き。双璧はシザーハンズバットマンリターンズ。
・分かりやすい映画よりも、変な映画の方が好き。

こんな感じです。なので贔屓目な感想になりますのでご容赦を。
と、その前に。
一個余談的になりますが、映画館で配っている「アリスインワンダーランド」の無料パンフレットはネタバレ全開なので、映画が終わってから見た方がいいです。
 

●「アリスインワンダーランド」の3D効果●

アバター」は「3Dでなければ見る意味がないくらいすごいぞ!」と話題になりましたね。
じゃあ「アリス・イン・ワンダーランド」はどうか?というのは一番気になる所だと思います。
 
個人的感想としては「3Dで見られる映画館が近くにあるならそっちの方がいい」。
つまり3Dじゃないから見る価値がない、とまでは言わないという感じ。
ようするにきちんと2D状態でもしっかり楽しめるレベルに映像は作られています。3Dありき、ではないと思います。なので「近所に3Dで見られる映画館がない!もうだめだ!」と絶望しなくてもいいです。大丈夫です。
 
もちろん、意図的に3Dの方が楽しいようにして作られているカットはあります。例えば怪鳥に連れ去られるシーンとか、穴に落下するシーンとか。ただ、スピードがありすぎて逆に「思ったほど立体的じゃない」という印象。
あと最初の方の不思議の国じゃないシーンは、むしろ距離感がないため、3Dがチカチカして目がつかれてしまい、見づらいです。なるほど、なんでもかんでも3D!ではなくて、人間ドラマを描写するときは3Dじゃない方がいいんだなあ。字幕があるとなおのこと浮き上がるので見づらいです。
 
しかし「アリス・イン・ワンダーランド」の3Dの真価は、チェシャ猫にあります。
断言していい。
チェシャ猫が好きなら多少苦労してでも3Dで見た方が絶対いい。
消えては現れる神出鬼没なチェシャ猫がかなりいいとこ取りで登場しまくるんですが、こいつの3D描写は半端じゃないです。気づいたら自分の横にいるんじゃないかと錯覚するくらいいい具合に3Dを活かして活躍しまくります。またモヤモヤ煙のようでありながら、毛のふさふさ感が3Dだとよく出ていて、いやあ素敵でたまらない。ある意味アリスで一番躍動的なキャラなので、当然といえばそうなのですが、チェシャ猫のためなら3D見る価値あります。
 
あと3Dが真価を発揮していたのは、やたらめったらに広い不思議の国の描写です。
スリーピー・ホロウ」のやたら鬱蒼と茂る森の中を3Dにした感じを想像してもらうと分かりやすいかもしれません。

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どちらかと言うと陰鬱な(これも理由はあるんですが)世界で、とにかく森はどこまでも深く、荒野はどこまでも広い。
ここが3Dだと奥行きが出て、かなり効果絶大な部分です。多分今後の3D映画はこの「奥行」メインで作られて行くんじゃないかなあ?
というか「不思議の国」って原作読んでる限りだと、子どもがうろうろしているだけあって、国レベルだけど村単位の狭さのようなイメージがあったので、このだだっ広さは結構衝撃でした。こんなに広いのかよ、しかも荒れまくりかよ!と。
 
あと3D効果がすごかったのは、青虫のタバコの煙。見ていて手で払いよけたくなるレベルです。あとはキチガイお茶会のテーブルの長さや、ジャヴァウォッキーのでかさなど、やはり大きさ比較がされるシーンでの奥行。
意外とアクションシーンは早すぎて、3D効果がそこまで発揮されていない感覚を受けました。とはいえラストの戦闘シーンは奥行きのある場所が舞台なので、そのへんは効果絶大。
 
えー、つまり、繰り返しになりますがチェシャ猫好きなら3D見に行ってください。
ほんと。まじで。あのチェシャ猫は見ないともったいない。
 

●大人のアリス●

はてこの映画、ネタバレするのは致命的なので、なるべく避けながら感想を書いていきます。
まずポイントになるのはアリスが大人だという所。
これは多くのアリスファンの不安の種だと思います。
なんといっても「アリス=少女の権化」じゃないですか。なのにアリスが19歳? おいおい、その年齢はアリスなのかい?と。
自分も相当な少女美至上主義者なのですが、それを踏まえても言い切ります。
あれは、少女でした。
 
この「アリス」は原作を忠実になぞった作品ではないです。
ストーリー的にどういう位置に当たるかを書くのはネタバレになるので避けますが、少なくとも登場する主人公アリスは、見た目は19歳のほぼ成人女性。しかしとにかく映像の中でものすごい少女なんですよ。
 
これは彼女がでかくなったり小さくなったりという伸縮比率を持ち合わせているせいもあります。
サイズ比の基準値がマッドハッターだとすると、それよりやたらでかかったり小さかったりするため、「大人の女性」として見る瞬間がラストまでほとんどないんです。
実はこのサイズ変更自体がストーリーにも影響を及ぼしていて、序盤のビッグ&スモールサイズアリスは気まぐれでちょっとわがままで、不安なことも多かったりキレやすかったりと非常に少女的。もろに精神状態そのものなんですよ。
このへんはティム・バートンのさじ加減の上手いところだと思います。おそらく女性の人が見た方が、この作品に出てくる成人アリスがいかに少女的かを感じられるんじゃないかと思います。多分巨大化+縮小化は精神のピリピリした感覚そのものだと思うので。
不思議の国のアリス症候群とはちょっと違いますが、少女期特有の精神の不安定さという意味では通じるものがあるかもしれません。
それを考えると、異質な頭のでかさの赤の女王の見た目も、なんとなく納得が行きます。あれもアリスが見ている感覚的な世界の一つなんです。
 
その分、ノーマルサイズに戻ってからのアリスの成人女性っぷりもまた際立っています。
と書くと「育っちゃうのかー」と感じてしまいますが、うーん、「少女でありながら女性になる」んですよ。そういう絶妙なバランスの成長物語が軸になっています。
(このへんのネタバレは収納している最後の方で。)
決して「不思議の国」から卒業して「あれは夢だったのよ」みたいに捨ててしまうことはありません。あくまでも最初から最後まで「少女」という曖昧なものは存在し続ける映画です。
このへんは見る人の感覚に委ねられると思うので見て確認してみてください。少なくとも自分は「少女であった」と思っていますが、芋虫の話の絡みもあるので微妙なところ。非常に見終わった後、もやもやを引きずります。引きずるから、いい。
 

●もう一人の主人公、マッドハッター●

今作では、ジョニー・デップ演じるマッドハッターが非常に重要な役割を果たしています。
ジョニー・デップ人気でお客さん総取りですね!」とか邪推したくなりますが、少なくともそうではない、と先に言っておきたいです。
マッドハッターがなぜ「キチガイ」なのか。
彼はなぜ「キチガイ」でいいのか。
(字幕では「まともでない」と訳されています)
ちゃんとその「キチガイ」の部分に理由があり、それがアリス自身の物語と密接に絡んでいます。だから彼はキチガイでなければいけないし、この作品でアリスの次に軸になるべき人物として理由を持って据えられています。
このへんは非常に映画のキャラとしてよく出来ています。彼がいなければこの物語は成立どころか始まりすらしないし、アリス自身も動き始めないはずです。
 
個人的な感触としては、原作のマッドハッターよりも「シザーハンズ」のエドワードの立ち位置に近い気がしました。

ティム・バートンの描く人間は、時にトリックスターのように道化じみていたり、異形だったりします。
身体感覚もおもちゃ的で、ひょいひょいと死んだり生き返ったり取り外したりします。
このへんのスラップスティックなおもちゃ感覚は「アリス・イン・ワンダーランド」では最大限まで生かされているのですが、その頂点にいるのがやはりマッドハッター。アリスは比較的「血の通った少女」として描かれているのに対して、マッドハッターはやはりかなりかっこいい役回りにはなっているものの、道化の域を脱することが出来ませんし、脱しようとしません。
この人間関係の距離感こそが、今作のテーマの一つでもあると思います……いや、ティム・バートンの映画のテーマかもしれません。
 
無論、非常にいい役どころなのでジョニー・デップファンには問答無用で「見た方がいいよ!」と言いたいところ。
あのマッドハッターは、あまりの真摯さに、愛しさに、不安定さに、抱きしめてあげたくなる。
いいんだよ、もういいんだよと。
しかし逆にアリスを導き、助けつつも助けられるのが彼なのもたまらないんですこれが。
キチガイ」であるがゆえに。
OPの方で出てくるある単語が、彼とアリスを解く重要な鍵になっているので注目です。
マッドハッターのキチガイと、アリスの気まぐれは、表裏一体。
 
マッドハッターばっかりかっこいいとか贔屓だ!と思われるかも知れませんが、同じくらいヤマネがかっこいいので必見。
ヤマネ超かっこいいです。あのヤマネにだったら抱かれてもいい。
あ、3月ウサギはどうでもいいです。
 

●原作「アリス」の距離感●

この作品はティム・バートンが独自に「アリスの行った『不思議の国』とはなんだったのか?」の解答になっています。そのため原作の「不思議の国のアリス」はベースというよりは、記号のように扱われています。
出てくるキャラは「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の両方。で、全部が出てくるわけじゃないです。その中でも特に目立つキャラが数キャラ出てくる程度だと思ってください。
「なんでウミガメがいないんだよ!」とか「トカゲのビルくらいだしてよ!」とか「公爵夫人好きなのに!」とか言われても、「残念!」としか言いようが無いです。まああんまりそんなところに拘る人はいないとは思いますが。
ようするに「不思議の国」の記号の中からピックアップされた「印象」で作られた映画です。
言い換えれば、「不思議の国のアリスの原作読んでないんだよなあ」という人でも大丈夫です。逆に知っていたらニヤっとするエピソードは随所に入っているくらいのノリです。原作アリスから色々なパーツをサンプリングして、ティム・バートンの中にある「少女のいた世界」として構築したらこうなりました、という感じです。
 
とはいってももちろん「不思議の国のアリス」原作をおろそかにしているわけではないです念のため。登場する気の狂った住人達は、少女の気まぐれさそのもののようにみんな気まぐれ。
問題は、主人公のアリスが少女と女性の狭間にいるということ。
なので、登場するキャラも時に気まぐれなのに、時に理知的に行動します。
そもそも原作アリスのキャラ達はあえて理知的じゃない行動を取るわけですし、アリス自体も自らの感覚で迷走するのが少女らしいところなはずです。
しかしマッドハッターやチェシャ猫をはじめとしたキャラ達は意志を持って、一つの目的に向かって動き始めているあたりがちょっと大人びているのです。
 
「アリスインワンダーランド」という題名。「アリスは、不思議の国にいる」。
考え方を変えたら「アリスは『不思議の国』そのもの」と曲解することも可能です。
曲解? いやもしかしたら真実かもよ?
 
ティム・バートンはその解答の一つを、芋虫の状態に託しました。今作での芋虫は語り部のような役割を担っています。
アリスはそんな芋虫を見、マッドハッターの心の不安定さを見、赤の女王の周辺の虚構とジャヴァウォッキーに対峙する自分の心を見ます。
そもそもジャヴァウォッキーとはなんだったんだろう? あれこそが、彼女の心のなかの葛藤そのものだったんじゃないだろうか。そしてマッドハッターの戸惑と決意こそが、彼女の中の「少女」のゆらぎと、迷いだったんじゃないだろうか。
色々な思いを乗せて、エンディングに突き進む様は非常に爽快です。
ただ、アクションシーン以外の細かな心の機微やキャラクターの行動は、大人向けな気がします。多分子供が見ても奇怪なばかりで意味がわからない気がします。……その奇怪がこそがティム・バートンの愛なんですけれども! でもファミリー向けではないです。
これは、かつて少年・少女だった人間達への不安や狂気や不安定さへの問いかけのような作品。
多くの人がかつて経験した、得体の知れない世界への恐怖心が蘇ってきながら、それを俯瞰するように見つめられるはず。
 
再度問う。
「このアリスは少女なのか?」
自分はこの映画に関して答える。
「彼女は少女である」
色々な意味で。
解答は、一つではない。
 

 
インフォレスト版は「マッドハッターが狂った世界を紹介する」本。
ぴあ版は「映画の裏話」などが載っているガイドブック。
用途に合わせて選ぶのが吉です。
 
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以下、ちょっとだけネタバレを含む雑感のため収納。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このくらいでいいかしら。
 
ラストシーンの「少女でありつつ女性になった」アリス像とチョウチョの関係は非常にハッピーエンドっぽく見えて、「それでよかったんだろうか」という一抹の不安が残るのが興味深いです。
そもそもマッドハッターがなんにも救われてないんですよね。一応復讐を果たす意味では救われていますが、彼の思いはシザーハンズエドワードのようにかないません。ずっと待ってたんですよ!?そして、共に命をかけて闘うんですよ!?でも、彼はわかってる、ここに彼女が残らないことを。
「それでいい」のかもしれませんが、そもそもマッドハッターはアリスの心理の一部なんでしょう。それを考えると「これでいいのかなあ」というアリスもきっといるんだと思います。涙はこらえて決別するアリスですね、自分に対して。ひいてはマッドハッターに対して。
あくまでも女性として成長しつつも、少女であることを全ては捨てきらなかった部分は非常に個人的には評価したい(大人になることが必ず正しいとは限らない)んですが、微妙な歯がゆさは残ります。そこは観客に委ねられた部分でしょうか。
 
自分が理解しきれなかったのは白の女王の存在。どうしてもマッドハッターやチェシャ猫をピックアップするためには白の女王をそこまで引き立てなくてもよいのも分かるのですが、彼女が女王の権威を持てるほどの人間であることの描写が極端に少ないため、なぜ彼女がしたわれているのか、彼女はアリスにとってどういう存在なのかがいまいちわかりません。
個人的には白の女王は「大人としての女性」という感覚の表現なのかな?と思いました。だから少しだけ、距離感がある。今のアリス自身はマッドハッターやチェシャ猫の方が感覚的に近いんだよと。下手したらジャヴァウォッキーの方がアリス自身の感覚に近い気すらします。きっとジャヴァウォッキーはアリスの中の「少女から大人になることへの拒否感」なんでしょうね。現実を認めたくないという思い。
一番怖かったのが、現実世界で王子様を夢見る狂人のおばさんだったというのがティム・バートンの意地悪さというか。はねられた生首の数々より怖かったわ!
そんな世界をもひっくるめて「私はここにいる」と認めることが彼女の成長でありつつ、かつて少女時代に訪れた「不思議の国」を忘れたのに対し今回は忘れず、傷も残したまま記憶にとどめているあたりが、彼女の決意なんでしょうね。
彼女が「少女」であり、無限の可能性を信じ続けている限りマッドハッターは消えない。消えないけど報われない。
シザーハンズ」といい「バットマンリターンズ」といい、異形の者達への心からの敬服を持ちながらも、報われないように描く。そんなティム・バートンの感覚が非常に色濃く出た作品のような気がします。悪趣味を前面に押し出したというよりも、成長することに伴なう悲しさの香りがすごく強い気がしてならないのです。とっても幸せな、はずなんだけれども。
個人的には「チャーリーとチョコレート工場」のように、ラストでひょこっとマッドハッターが出てきたりしたらニヤニヤしたんでしょうけど、きっとそれは間違っている。「また来るわ」で終わらなければいけない。出てきてはいけない。
はて、羽化した芋虫は、本当に幸せだったんだろうか? キチガイから解き放たれ不思議の国から開放された彼女はそれでよかったのだろうか?
不思議の国が遠い異国の世界になってしまっているぼくらは、幸せなんだろうか?

 
「アリス」という「素材」は、本当に作り手の心を反映するなあと再確認した映画だった、というのが一番の感想です。
非常にいいバランスのエンタメになっていますが、個人的にはもっとティム・バートン流に破壊してもよかったかも。
色々な映画監督の、色々なアリスが見たい。ストーリーのないこの物語のどこにストーリーを作るか、不思議の国をどう捉えるのかが見たい。
そしてぐるっと一周して、キャロルにとっての「不思議の国」とはなんなのかを確認したい。
 

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余談も余談なんですが、赤青メガネじゃない今の3Dメガネタイプの3D映画初めて見たのって、20年前くらいの夕張石炭の歴史村の仮面ライダー全員集合みたいなやつなんですが、詳細が分かりません。スカイライダーとかそういうやつが出てくる奴。
今思うと、その時点で今の3D映画と同じレベルの立体感のある映画になっていたので、考えてみるとすごいことだー。なので自分の3D初体験はアバターじゃなくて仮面ライダーです。