人生の2周目をはじめました。
この後の日々については、あたらしい場所 あたらしい名で 書くことにします。
ありがとうございました。
2011年8月
id:miruisi
お子たち
「子供」はあまりすきでない。「子ども」と、単語の一部をかなに ひらくのは いまいち…。それならいっそ「こども」か、などといつも迷う。
祇園祭をみた。金曜日の夜、宵々山を歩いた。四条笠鉾がすきになった。いつかまた京都に行って、四条傘鉾をみて、今度は霰(あられ)天神山のわらべ唄をきいてみたい。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gion/2003/warabeuta/window.html
雷除け火除けのお守りを
受けてお帰りなされましょう
常は出ません 今晩かぎり
ご信心のお方様は
受けてお帰りなされましょう
2000万円とも言われる費用がかかるため、京都市内の資産家等の家庭から〔…〕選ばれ
祇園祭 - Wikipedia
それはともかく。
お化粧、きれいな服、陽射しを避ける傘、風を送る団扇、肩車。早坂みうら の化粧を思ったり。
早坂みうらの家族旅行写真について ―― あずまきよひこ『よつばと!』第10巻 - みるいし
「お子たち」ということばを聞いた。きれいだな、いいな、と思った。
なる、たる
実家に帰って、本棚を整理した。たくさん本を捨てた。
書棚にならべていた本って、何だったのだろう。
ぼくはからっぽだなあ、と思った。
こどものころは、何にでもなれるような気がした。
高校生くらいになると、だんだん選択肢が狭まってきて、それがとてもつらかった。
30歳もすぎれば選択肢なんてないも同然で、でも、そのことについて特別な感情をもったりはしない。すでに「なる」ことをあきらめているからだ。
ぼくは〔…〕なにものかになってやろう、と思っている者だ。しかしぼくがなにになれると言うのか。
中上健次「十九歳の地図」
今年36歳になる。
何者でもない。これから何者にもなりようがない。
それでも、なのか、だからこそ、なのか
これからどんなふうになっていくのかなと、たのしみな気持ちが、確かにある。
十三歳の少年なんて、ほんとうはもう何でもわかっているんだよ。〔…〕でも、ただ一つ、どうしてもわからないことがあるんだ。それはね、これから予想もつかない色々なことが自分に起こるってことさ。ほんとうに、いろんなことが起こるよ。
永井均「翔太と猫のインサイトの夏休み」
ただなんとなく、いつのまにか、何かになっているのだと思う。どこにでもいる、あまねくあるような、つまらない何者かになっているのだと思う。
そしてそれがたのしみだ。
いや、
ぼくが何かに「なる」というのではなくて。
ぼくとぼくのまわりの人やモノとの関係がかわっていくのかな。その移り変わりがたのしみなのかな。
ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」という歌がすきだ。
状況に応じて「ぼくのおとうさん」はなんと呼ばれるのか。お店に入ると「お客さん」になり、病院に行くと「患者さん」になり、歩いていると「通行人」になるなど、同じ人間でも場に応じて色々な役割をもつことがわかる歌。
ピタゴラスイッチ - Wikipedia
「ぼくのおとうさん」のほんとうの姿はどこにあるのだろう。誰がほんとうの「ぼくのおとうさん」を知っているのだろう。「ぼくのおかあさん」?
ぼくはこれから誰にどんなふうに呼ばれるのだろう。
「私」というものはどこにあるのだろう。
「私」と「今」とは同じものの別の名前
永井均「私・今・そして神」
「私」だけをとりだすことはできないのだと思う。
からっぽだから。
ないものだから。*1
だから、
自分自身に対してより、世界に対してずっと大きな興味があります。
ソンタグ「良心の領界」
かくありたい。
しごとごとごと
『孤高の人』のこの足立先生のことばを連載時に読んだときは、ちょうどリストラの真っ最中で、今の会社をやめるかどうか考えていたこともあり、目が潤んでしまってコンビニで立ち読みをつづけるのが難しかった。ただ、ぼくには「君にしかできない仕事」なんてないように思ったので、そういう「仕事」を見つけた主人公から、『孤高の人』から、ぼくの気持ちが一時的に離れる原因のひとつとなったのだった。(第9巻までと第10巻以降の表紙の色調を比較するとわかるとおり、この第10巻では主人公を画期する出会いが、もうひとつ生じる。)
会社(仕事)を休んで、祖母(と気落ちしている祖父)の見舞いにいった。お見舞いにいくのも ぼくがするべき しごと かな。生計を立てる手段といった狭義の仕事ではない。なにか社会的な意義があるわけでもない。では、お見舞いにいくのが心から楽しみかというともちろんそんなことはなく、暑いさなかに電車とバスを乗り継いで見舞いにいくよりも会社でのんきにしていたほうがよほどラクなので、半分くらいは義務感/使命感からだ。病室で行き会った親族とは「ごくろうさまです」と挨拶をする。お見舞いに行くのはしごとで、ぼくはぼくにしかできないしごとをしたのだとおもう。
ひとりの人間のとりかえがきく/きかないというのは、どういうことなんだろうか。
想起する
ろくに見ていないアニメの台詞
綾波さん「わたしがしんでも、かわりはいるもの」
そしてこの文章を
どんな人間も例外なく、いつ死んでもいいのです。この世の中に死んでしまったら困る人間なんか誰一人としていないのだから、誰でもいつ死んでもいいのです。死にたければ、即、死んでもいいのです、今日にでも明日にでも死んでいいのです。
だからって、僕は死を勧めないね。〔…〕なんでもプラス面で考えてほしいよね。
「いつ死んでもいい」ということは、「いつまで生きていてもいい」ということだからね。〔…〕「いつ死んでもいい」ということは「いつまでも生きていていいのです」 この気持ちを大切にしてほしいです。
松崎勝彦 - YouTube
これを読んだとき、ほんとうにたまげた。「死んでもいい」のくりかえし、そしてひっくりかえしての「生きていてもいい」のくりかえしのリズム。ただしいようなまちがっているような、読んでいてわからなくなってくるところもいい。すきな文章だ。こんなふうに考え、書きたいものだと、こころからおもう。
「かわりがいるなら、しななくていいとおもうよ」
みなさま よい週末を
シーブリーズ、タイガーバーム
節電のアイデアを社員から募集するというので、ぼくは夏期休暇の倍増を提案した。が、スルーされたらしい。
蛍光灯が半分はずされて雰囲気のわるくなった職場で、左手で団扇をうごかしながら右手でペンを持って書類を読んでいる。ときどき のぼせたようになるので、非常階段で涼んでいる。
会社帰りにシーブリーズを買って、帰宅して早速 身体を洗った。
じいちゃんが まだ今より若く、それでも ぼくの じいちゃんだった頃(ぼくが小学生の頃)、じいちゃんのからだからはシーブリーズのようなハッカ(メントール)の においが した。
においのもとはタイガーバームだったのだとおもう。
シーブリーズは いまこんなことになっているけど、
http://www.seabreezeweb.com/
いまもシーブリーズのにおいは じいちゃんのにおいだ。
石川美南「砂の降る教室」
『砂の降る教室』をよんだ。
読み始めて早々に「教室」とは大学の教室であると知らされたときには、「ぼくには縁遠いお話なのかなあ」と思った(ぼくにとって教室とは小中学校の教室なので)。けど、そうでもなかった。
「お話」――そう、これはお話のようだ、と思った。
いちばんすきなのはこれ。
百匹の猫引き連れて海に行く気分 にやりと君が笑へば
石川美南「砂の降る教室」(スキップ)
以下を想起した。
ポケットに銀貨があれば海を買ふつもりで歩く祭りのゆふべ
光森裕樹
ぞろぞろと鳥けだものをひきつれて秋晴の街にあそび行きたし
前川佐美雄
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
前登志夫