酔いどれ詩人になるまえに

キャストもなんかいいね。マット・ディロンリリ・テイラーマリサ・トメイ。それぞれの顔に肉体に、確かなボックボーンみたいなモノを感じるんだよな。目が合っただけで求め合っちやうその必然が分かりやすいんだもんな。そのバックボーンみたいなモノが画面の余白みたいな部分を満たしているからなんだろうな。だから、このだらだらしたストーリーをいつまでだって、だらだらと見続けたいという気持ちにさせるんだよな。


何度職にありついても酒が原因でクビになってばかりのヘンリー・チナスキー。有り金が底を尽き住む家すらなくても懲りずに飲んだくれる日々で、唯一続けているのが「書く」ことだった。湧き出る言葉を書き留めずにはいられない(というだけで)彼は、詩人であり作家だった。彼は常に孤独で、寡黙で、戦い続ける人にみえた。それはたとえ勝ち目が無くても、人には理解されなくても。確かに彼は戦う人だった。


チナスキーがジャンにケジラミを移されて。薬ぬって一晩ほっぽいたばっかりに、おちんちんが腫れ上ってひどいことになっちゃうシーンが好きだった。それをジャンが見つけて、笑いながら包帯巻いてるシーン。ジャンがすっごくキレイだった。包帯巻かれてるチナスキーも、あんまりにもチャーミングで。永遠のシーンみたいに見えた。誰かとずっと求め合って与え合って愛し合っていくことって。もしかしたらば、永遠にありえないことかもしれないけれど。おちんちんに包帯巻いて巻かれてる二人には、確かにソレがあった。


きっと、そういうことなんだよな。そういう点のような濃密な時間を自分の中に刻んでいくことが、ボックボーンみたいなモノを育てるってことなのだろうし。「愛」という不可解なモノに接近遭遇する時間なのだね。もっと言えば、そういう風にしか、近づけない領域なのかもしれないね。「愛」とか「永遠」とかってさ。そしてそれを共有できた二人は、離れたって別れたって、ある部分を濃密にシェアし続けているんだろうね。なあんて。


続けられることって限りがある。誰かとずっと寄り添っていくことだってもちろん。自分との戦いだって。何時まで続けられるかだって分からない。やめてしまうことは、愚かなことになるのかもしれない。それでも「きっとなんとかなるさ」と言い続け、ただ自分の内から湧き出す言葉を書き留めることだけを続けていた。いや、それしか出来なかったチナスキーという男に。私は愚かにも惹かれてしまってる。懲りない人です。はい。