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元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

江戸御府内八十八ヶ所関連の記事 → [御府内88]
[東京][千葉]は都道府県別のカテゴリー設定はございません。

2017-12-23

天開山 大谷寺 (大谷観音・平和観音) その二

宗派 天台宗

本尊 千手観世音菩薩

321-0345 宇都宮市大谷町1198

 



【坂東第十九番】天開山 大谷寺 (大谷観音) → その一





大谷寺  大谷寺境内



さてお次は大谷寺です、

ワタシも坂東三十三観音でお参りして以来、

七年ぶり三度目の参拝。

大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する、

日本屈指の洞窟寺院です。




大谷観音  大谷磨崖仏



本尊大谷観音は、

凝灰岩の岩壁に彫られた、

丈六(約4.5m)の千手観音で、

弘仁元年(810年)に、

弘法大師空海が刻んだとされていますが、

最近の研究では、

バーミアンの石仏共通点が多いので、

作者はアフガニスタン僧侶でないか?

とも、云われているとか。

本尊の左手先の脇堂には、

釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊があり、

制作年代はそれぞれ異なりますが、

併せて「大谷摩崖仏」として、

国の特別史跡重要文化財に、

二重指定されています。



縄文最古の人骨  弁財天





またこの大谷寺の周辺は、

縄文時代の人の生活痕跡がある、

大谷岩陰遺跡」で、

昭和四十年(1965)、

大谷摩崖仏防災工事中には、

お堂下約150cmより、

約11,000年前の、

縄文最古の人骨が出土され、

この宝物館に提示されています。

さて宝物館を出て、

弁天池の回りをしばらく散策した後、

大谷寺を後にしました。




平和観音へ向かう  平和観音




大谷寺の南の大谷石石切り場跡に

あくまで大谷観音のお前立として、

この巨大な平和観音があります。

大東亜戦争の戦死没者供養と世界平和を祈り、

総手彫りで昭和二十三年(1948)から、

六年をかけて昭和二十九年(1954)に完成、

昭和三十一年(1956)に開眼したもので、

全長は88尺8寸8分(26.93m)なんだとか。

vcvc 2017/12/24 08:55 遠征、お疲れ様です。
みなさん、すごいパワーですね。(私は昨日はテニス漬けでした)
私は金曜日に食べ納めに行ってきました。味噌つけ麺小野菜、安定の美味しさでした。(若干いつもより麺が多かった気がしましたが。。。)
先週はつじ田に行ってきたので、今週はどみそに行ってみようかと思案中です。
今日は朝一番にヨコヤマにクリスマスケーキを取りに&会社の女性陣に頼まれた焼き菓子の買い出しに行ってきます。(その後、再びテニスですが)
来年も楽しいブログ、よろしくお願いします。

makoto-jin-reimakoto-jin-rei 2017/12/24 16:17 ありがとうございます。
栃木遠征ブログ記事、
ようやく完成致しました。
今日はそれだけで終わってしまいました。
こちらこそ来年もよろしくお願い致します。

2015-08-05

金龍山 浅草寺 その四 〜文扇堂 その三〜

宗派 聖観音宗 総本山

本尊 聖観世音菩薩

111-0032 台東区浅草2-3-1

公式サイト http://www.senso-ji.jp/

文扇堂雷門店

111-0032 台東区浅草1-20-2



金龍山 浅草寺 その → 

文扇堂(=渋扇) → 





雷門



午前ちう東上野の外れで、

新規アポがあったもので、

我が母方のルーツ

浅草に立ち寄って参りました。




五重塔と宝蔵門  本堂



まずは観音様にご挨拶。

しかし仲見世浅草寺境内は、

東西外国人観光客であふれ、

日本語がほとんど聞こえないほどです。



文扇堂  購入した白扇


さて、実は浅草を訪れた目的は、

こちらの文扇堂さん。

お気に入りの二代目・渋扇が、

大阪出張の前後から行方不明で、

この猛暑にとても不便だったのです。

しかし渋扇は最近また値上をしたようで、

なんと四英世超。。。

どうせすぐ失くしちゃうんだからと、

半額のこの白扇を購入しました。

とてもシンプル機能性も高く満足です。

2015-05-30

【坂東番外】【秩父番外】定額山 善光寺 その二

宗派 無宗派 (天台宗別格本山・浄土宗別格本山)

本尊 一光三尊阿弥陀如来

380-0851 長野市善光寺491

公式サイト http://www.zenkoji.jp/




定額山 善光寺 → その一

→ 「善光寺」関連の記事




「七年に一度の盛儀」とされる、

善光寺の前立本尊御開帳ですが、

実際には数え年ですので正確には六年に一度です。

前回はタヤパン、ジャラオの三人でお参りしたことは、

このブログのその一記事にしました。




一昨年、父を癌で突然亡くし、

それ以来ずっとふさぎ込んでいた母が、

善光寺の御開帳に行ってみたいと、

珍しく自分から言い出したもので、

たまには親孝行のマネごとでもしてみようかと、

たった二人の孫である息子二人を巻き込んで、

一泊二日の信州旅行を計画しました。





愛車プリウス  まだ雪の残る中央アルプス




朝5時半に亡き父の愛車だった、

プリウスで四人習志野を出発。

前日、午前様だった長男は、

まだまだナチュラルハイ状態で妙なテンション。

ほぼ四時間でこの雪の残る中央アルプスを望む、

長野県内のサービスエリアに到達しました。



善光寺  仁王門



さて午前10時過ぎにようやく善光寺門前に到着。

参道は多くの参拝客に賑わい溢れています。

いくら明日が御開帳最終日とはいえ、

この参拝者の数はどうしたんだろう。

明らかに六年前よりもすごい数デス。

どうやら北陸新幹線の開通で、

過去に例を見ぬほどの人出なんだとか。



阿形  吽形  



阿吽が逆の仁王尊にも六年ぶりの再会です。

実はこの仁王尊、高村光雲の製作ですが、

製作の際にその手本としたのは、

あの「仁王さまの股くぐり」で有名な、

松戸の萬満寺の仁王様だったとか。




→ 法王山 萬満寺





仲見世に伸びる回向柱待ちの行列  山門




山門を過ぎて仲見世まで伸びる行列は、

なんと回向柱に触れたい人々の列で、

柱に到達するまで70分の待ち時間とか。。。

理系の次男が「てか別に地面でつながってんジャネ?」と、

しらける一言に諭された訳ではありませんが、

とりあえず回向柱はギブアップ。




釈迦堂  ぬれ仏と六地蔵




代わりといってはなんですが、

釈迦堂の涅槃仏とつながる回向柱に触れつつ、

ぬれ仏と六地蔵をかすめて拝し、

国宝の本堂方面をめざします。



善光寺本堂  内陣参拝に並ぶ行列




さて、本堂前に到達したものの、

やはり内陣参拝もお戒壇めぐりも、

それぞれ70分〜90分待ちという大混雑。



ねじれ柱  お戒壇めぐり入口



それでもやはりその二つは、

折角の機会 なので並びました。

ねじれ柱にも六年ぶりの再会です。

さて、一時間半ほど並んで、

ようやくお戒壇めぐり入口に到達。

わいわい大騒ぎをしながら、

四人とも無事に錠前に触れて、

ご戒壇めぐりを完了。



回向柱と本堂




その後、内陣参拝も、

時間ちょっとで無事お参り致しました。





中霊殿  歴代の回向柱




時間の都合から、

中霊殿と資料館を流して参り、

歴代の回向柱で六年前のものと再会して感無量。




解体修理中の経蔵  善光寺を後にする




なんでかこの時期に解体修理中の経蔵を眺め、

まだまだ多くの参拝客で溢れる善光寺を後にしました。




八幡屋礒五郎本店




七味唐辛子の八幡屋礒五郎本店も、

店内ものすごいお客さんの数です。。。

時間はもうお昼ドキをかなり過ぎでいたものの、

どちらの飲食店も皆長い大行列で、

正直もうとても並ぶ気にもなりません。



野沢菜のお焼き  かき氷




参道で名物の野沢菜のお焼きを買って、

歩きながらかじりつく美味さ。

子供らに付き合って食べたかき氷。

いやいやカキ氷なんでおそらく三十年ぶりかもしれない。



牛に引かれて善光寺の顔出し看板




(・ん・)?

この「牛に引かれて善光寺」の顔出し看板おかしくね?。

百歩譲って、牛の顔部分の穴はいいとしても、

もう一箇所はおばあさんの顔の部分ジャネ??

なんで牛の尻に顔出し穴が開いているかな〜。。。

( ´・_・`)



【坂東番外】【秩父番外】北向山 北向観音堂

宗派 天台宗

本尊 千手観音菩薩

386-1431 上田市別所温泉1656

公式サイト http://www.kitamuki-kannon.com/




前回の六年前の善光寺の御開帳参拝は、

坂東三十三ヶ所を巡礼途中のことでしたから、

正確に言えば今回が初の御礼参りになりました。

そしていよいよ念願のこちらに今日お参りすると、

ついに坂東霊場を番外も含めて、

すべてお参りする完全結願を迎えます。

思えば三年前の一人旅の計画も、

すべてはこちらにお参りする為の計画だったのです。



北向観音堂



名前の通り北向きに建てられた観音堂は、

南向きの善光寺と向かい合い、

そのご利益は一体のものとされ、

二つをお参りしなければ、

「片詣り」とも呼ばれています。

この観音堂は、正徳三年(1713)に先代が焼失し、

享保六年(1721)に再建されました。

その後何度か修復を繰り返し、

昭和三十六年(1961)に、

善光寺と同じこの「撞木造り」になったとか。



繭でつくられた山号額の奉納



奉納された額の中に、

土地柄でしょうか、

繭で作られた「北向山」の、

山号額があります。



温泉薬師瑠璃殿  鐘楼と不動堂



観音堂の西側の崖上に、

文化六年(1809)再建の、

温泉薬師瑠璃殿があります。

温泉の効き目に併せて病気を取り除くという、

まさに現生利益の信仰の具体化です。

鐘楼や、不動明王が祀られた護摩堂は、

近年建てられたものと思われます。



愛染堂  愛染桂


観音堂の左側にこの愛染明王を祀る愛染堂。

そして右側に巨大なカツラの大木があり、

愛染桂と呼ばれ霊木とされています。

川口松太郎の「愛染かつら」は、

この木からヒントを得て創作されたそうですが、

はて?確か他でもそんな桂をみた気がする。




→ 本覚山 寳光寺 自性院 (谷中愛染堂)




また、このカツラの木の下に、

別所三楽寺と呼ばれた長楽寺があったとされますが、

現在は現存しておりません。

元禄七年(1694)から現在まで、

こちらはその内の一つ、

常楽寺管理の「観音堂」となっておりますので、

それより以前に廃絶したと思われます。



額堂の仁王  慈覚大師之湯


昔は仁王門もあったのかもしれませんが、

今はなぜか阿吽の仁王尊が

額堂の中に仲良く並んでいます。

参道の川の近くに、

この円仁ゆかりの慈覚大師之湯があって、

今も熱い温泉が渾々と湧き出していました。



北向観音の御朱印  坂東霊場全御朱印



さて、ご朱印を頂戴しましたので、

坂東観音霊場三十三ヶ所と番外二ヶ所、

計三十五ヶ所のご朱印を一同に並べて、

坂東霊場完全結願の御礼と代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

2012-08-17

瑞應山 蓮華院 弘明寺 その二

宗派 高野山真言宗

本尊 十一面観世音菩薩

232-0067 横浜市南区弘明寺267





瑞應山 蓮華院 弘明寺→ その一





仁王門

金剛力士 吽形  金剛力士 阿形  

本堂(観音堂)




横浜に生息している馬油がお散歩で合流し、

そのまま弘明寺にお参りしました。

このお寺につきましては、前回坂東三十三ヶ所巡礼で、

詳しく書いておりますので、

由来・境内の案内は、その一をご覧下さい。





パンフのご本尊の写真



お参りの際は、三百円を納めて、

是非、ご本尊の直前までお参りください。

行基菩薩作と伝わる鉈彫りの十一面観世音菩薩は圧巻です。



弘明寺かんのん通り




さて門前の商店街、

弘明寺かんのん通りをぶらりお散歩。



かんのん不動産商会

かんのん不動産

エステートかんのん



「かんのん不動産商会」

「かんのん不動産」

「エステートかんのん」

と、並ぶ「かんのん」不動産三兄弟には笑いました。



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2010-09-26

【坂東第三十三番】補陀洛山 那古寺 (那古観音) 〜和泉式部供養塚〜 《坂東三十三ヶ所結願御礼》

宗派 真言宗智山派

本尊 千手観世音菩薩

ご詠歌 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても

294-0055 館山市那古1125




南国ムードたっぷりの館山  



館山道を終点まで下り、

館山市内へと入りました。

急に南国ムードの情緒がたっぷりです。



那古寺・本坊  蘇鉄




無料駐車場の奥にある那古寺の本坊です。

その右手には、根元が12本に分かれた、

高さが6mにも及ぶ、館山市内一の蘇鉄です。

嘉永七年(1853)一力長五郎という力士の奉納だとか。




大山巌揮毫の碑




観音堂への参道の入り口手前、

多くの石塔の奥にこの「日露戦争記念碑」がありました。

"せごどん"こと西郷隆盛の従弟の大山巌元帥の揮毫です。

坂東霊場の多くに、乃木希典・東郷平八郎の揮毫をみましたが、

大山巌のものは初めてかもしれない・・・。

彼の書はいつもとても丁寧な教科書体のような楷書です。



→ 大山巌像 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

→ 「西郷隆盛」の検索結果一覧 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】




仁王門

吽形  阿形




渋い仁王門には、スレンダーな阿吽の金剛力士。

そもそもこのお寺は第四十四代の女帝・元正天皇の病気回復を祈り、

養老元年(717)に行基菩薩が海中から霊木を得て千手観音を刻み祀り、

無事回復をされたので、勅命によって、

この那古山の山頂に建立されたと伝わる古刹です。

源頼朝や足利尊氏、里見義実や徳川家康に信仰されて栄えました。



那古寺の境内



ただし元禄十六年(1703)の大地震で、

山頂にあった伽藍はほぼすべて倒壊し、

山の中腹に現存するこれら伽藍は、

ほとんどそれ以降に建てられたものです。




鐘楼



鐘楼は瓦が崩落していて、

危険なので近寄らないよう書かれていました。

実際、角の瓦の一部が下に落ちて割れています。




阿弥陀堂  阿弥陀如来像



ほとんどの建物が元禄期の再建ながら

鎌倉時代に造立されたという阿弥陀堂。

中には、県指定有形文化財の、

木造阿弥陀如来坐像がいらっしゃいました。



多宝塔  多宝塔内部の木造宝塔




同じく県指定有形文化財の多宝塔は、

やはり宝暦十一年(1761)の再建。

内部の中央須弥壇にはこの木造の宝塔が祀られているとか。





観音堂



「圓通閣」の扁額のかかる、

本堂でもある観音堂です。

こちらは宝暦八年(1758)の再建。




重文の銅造千手観音の写真




本堂内は写真撮影禁止の為、

写真はこの案内板のものですみません。

よく知られた国指定重文のこの銅造千手観音は、

中央左手にあって、あくまでご本尊ではなく、

本尊は秘仏の中央の御簾の中、

藤原期作の楠の一木造りの、

同じく千手観音菩薩なんだとか。




日枝神社  観音堂の裏の諸堂



観音堂左手には日枝神社があり、

その裏手には様々な諸堂が並びます。




観音堂からの館山の海の眺め




ご詠歌にある「岸うつ波を見る」この絶景。

しかし、そもそもこの寺はもっと山頂にありました。

今この山の上には、なぜか全国にいくつかある、

和泉式部の墓の一つがあるとか。

これはちょっと頑張って上に登ってみましょう。



和泉式部下のムラサキシキブ  潮音台に向う石段 



その供養塚がある潮音台は、

観音堂の左手に登り口があります。

和泉式部への供養塚への道筋に、

ムラサキシキブが実っていたのは皮肉でした。




急な石段が続く  和泉式部供養塚への石標




急なを石段を上ること十数分。

本堂上の山の山頂、潮音台に出ました。

那古山の山頂はもっと南東になるようです。




潮音台



しかしここは本当に素晴らしい絶景。

ご詠歌の景色はここであると思い込んで

その眺めを堪能しました。



潮音台から和泉式部供養塔をみる  小式部内侍供養塚

和泉式部供養塚




和泉式部供養塚と小式部内侍供養塚です。

和泉式部にはこの石塔がありますが、

娘の小式部内侍にはこの明治期の笠のある石塔が一基のみでした。

日本最初の(×)ヤリ○ン(○)自由奔放な男性遍歴を重ねた貴族の女性、和泉式部。

ライバルの紫式部はその才能を認めながらも、

その素行に眉を顰めていたという話です。




→ 小野小町の里 〜小野小町墓〜 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】




この茨城の小野小町の墓同様に、

この和泉式部の墓も全国にまた多数あります。

多くの弘法大師空海伝説と同様に、

ここにもそんな和泉式部のような、

自由奔放な女性と娘が流れて来て住み亡くなって、

ここに葬られてこの墓が出来たのでしょう。



第33番朱印

結願の印




さてついに坂東最後の納経をして、

坂東最後のご朱印を頂戴しました。

すべてのご朱印を確認して頂き、

結願の印も押してもらいました。

古の巡礼者は鎌倉を旅立ち、

関東一円をぐるりと廻って、

ここ館山で杖を置き、

舟でまた鎌倉に戻りました。



結願之証(表紙)  結願之証(中・お祝いのことば)




志納で頂けるという「結願之証」も頂戴しました。

ご朱印代と合わせて、千円を納めました。(←少ないっすか?)




結願之証



証の中央には「巡拜畢」と記されています。

これは巡拝が終わったことを表わしています。



我が家の賞状コーナー  ボロボロになった観音霊勧行式




我が家のダイニングカウンター上の賞状コーナーに、

子供達の小学校のマラソン大会、

妻の紙ヒコーキ全日本三位と並べて、

私もこの「結願之証」をかかげました。

五年余りの間、一緒に巡拝した、

観音霊場勧行式(経本)はこの通りボロボロです。




→ 長男のマラソン大会 2005 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

→ 息子達のマラソン大会 2006 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

→ モノづくり体感スタジアム 2009 〜かみさんの全日本折り紙ヒコーキ大会〜 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】




全ご朱印




改めて結願の感謝を込めて、

すべてのご朱印を並べてupします。

長いようで短い五年間でありました。

実はごく身近な方々には、

坂東三十三ヶ所霊場結願と同時に、

このブログも終了するつもりであることを話しておりましたが、

さて、どうしよう・・・???。

善光寺と並び、もう一つの坂東霊場番外札所である、

長野県上田市の北向観音

そして巡礼途中である、

吉橋大師八十八ヶ所にすべてにお参りするまで、

とりあえずこのブログはまだ継続致します。



おかげさまで坂東霊場を無事結願しましたことをご報告申し上げます。

ともかく皆々様、今までありがとうございました。




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元パズ〜元パズ〜 2010/09/28 00:10 結願おめでとうございます。(願いは何だったのでしょうか?)
34番札所は善光寺とは洒落てますね。(あえて釣られてみるw)
「番屋」は、運転を任せる人が居れば数倍楽しめますよ!
ところでプロフィールの髪の毛が無くなってしまったのですが、
ストレスいっぱい有りますか?

makoto-jin-reimakoto-jin-rei 2010/09/28 05:47 ありがとうございます。
私は原則神仏に対して日々のお礼以外のお願いを致しませんので、
巡礼といえども「願い」は「巡拜畢」そのものでした。
番外二ヶ所の「御礼参り」の風習は、ずっと後に生まれたようです。
尤も私は善光寺にはご開帳にお参りしたので、
ちっとも「御礼」ではないわけですが・・・。(笑)

「番屋」、一杯やりたかったですねぇ。

プロフィールですが、あんまり似ていますと、
神社仏閣で声をかけられたことがありまして・・・。(汗)

2010-09-12

【坂東第二十番】獨鈷山 善門院 西明寺 

宗派 真言宗豊山派

本尊 十一面観世音菩薩

ご詠歌 西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ

321-4217 芳賀郡益子町益子4469

公式サイト http://fumon.jp/




→ 2010-08-22 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

→ 2010-08-23 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】



さて"坂東巡礼2010"、

埼玉・栃木・茨城編の第一弾は、

この通り、次男との一泊の二人旅となりましたが、

残ってしまった、栃木一箇所、茨城三箇所が、

どうしても心残りです。

遅い夏休み第二弾のこの四連休。

もう一泊は必要ないでしょう。

発作的に計画を立て、

今回は長男との二人旅。



日曜、朝六時半ちょっと過ぎ、

前日塾で遅かった眠い目をこする長男を助手席に、

習志野宅を出発。

ナビのないオンボロラウムは、

東北道を駆け上がり、

栃木都賀Jctで北関東自動車道へ。

真岡ICで降り、陶器の里・益子を目指します。



茅葺屋根の西明寺寺務所  寺務所の観音様



益子市街から東に少し離れ、

坂東巡礼お馴染みの山登りを終えると、

駐車場の隣にはこの茅葺屋根の寺務所がありました。

先に納経して朱印帳を預け、

こちらにも祀られている観音様にご挨拶。

猫がこちらに尻を向けたまま欠伸していました。(笑)



さてこちら、そもそもは天平九年(737)の行基菩薩の開基と伝わります。

聖武天皇の勅願で刻んだご本尊の十一面観音は、

元は豊前国(大分県)にありましたが、

その後、行基がここを霊地と見て堂宇を建て本尊を遷しました。

元の寺号は益子寺でありましたが、

出家して最西寺殿とも呼ばれた北条時頼がここに寄進した後に、

同音である、現在の西明寺と改められました。




石壇



私の踵、長男のオスグット膝にはキツイ石段です。

これも修行のうちよ。

長男よ、ボヤくな。黙って登るのだ。痛ったたたたっ。



楼門

阿形  吽形




まずは明応元年(1492)建立、

「純唐様式三間一戸重層入母屋造茅葺き」の、

国指定重要文化財の楼門がお出迎え。

室町時代の特徴をよく残す建築方式なんだとか。




三重塔


楼門から遅れること46年、

天文七年(1538)に西明寺城城主・益子家宗の建立した三重塔です。

やはり国指定重要文化財に登録されています。

板屋根の三重塔は我国唯一のものであるとか。




鐘楼



この変わった鐘楼堂は、

「三間四方重層宝形造り茅葺き」という形式で、

享保七年(1722)建立。

県指定文化財です。

梵鐘自体は、寛文十一年(1671)の鋳造です。



閻魔堂




さてこちらの閻魔堂。このお堂自体は、

正徳四年(1714)建立、寛保三年(1743)再建の素朴な建物です。



閻魔堂内


しかし堂内には県指定文化財の

中央・閻魔大王と、左右に善童子・悪童子、

左奥には奪衣婆の仏像が並んでいます。

そして右奥には、地蔵菩薩。



笑いの閻魔  脱衣婆



なぜかその閻魔大王が大爆笑中。

閻魔様が裁判官ならば、

善童子・悪童子は良かれ悪かれ、検察官。

奪衣婆は拘置所職員か?、

地蔵菩薩は弁護士と言ったところか。



お寺の縁起によれば、

閻魔様の化身元である、地蔵菩薩の真言、

「おん、かかか、びさんまえい、そわか」

「オーン、ハハハ、ヴィサマエー、スヴァーハー」

の、ハハハ(笑い声)を表現しているそうです。 




弘法大師の無盡水  加持本壇の城(場)





延暦年間(782〜806)、

ここにもやはりどこぞの弘法大師がやって来ました。

当時ここはまだ法相宗だったので、

僧侶たちは真言宗の弘法大師の高名を妬み、

岩屋に閉じ込めてしまいました。

すると大師は独鈷一つで、するりと脱出。

これにより山号が独鈷山になったとか。

おそらくその時でしょうか、

本堂下にはやはり錫杖一本で湧かせたであろう無盡水。

また本堂前の石段の上には、案内がなければ気づかない、

小さな加持本壇の城(場)があります。




本堂

本堂





さて観音堂である本堂です。

本堂自体は元禄十五年(1702)再建であり、

県指定有形文化財に留まっていますが、

本堂内の厨子は、このお寺で最も古く、

室町時代初期のものと推定され、

これも国指定重要文化財に登録されています。




回向柱



本堂、左には回向柱がありました。

ご開帳はいつなんだろうか。




こうやまき(高野槇)の巨木




本堂の右後ろには、

高さ30m、周囲5.4m、推定樹齢750年のこうやまき(高野槇)の巨木です。

巨木との出会いは、坂東巡礼醍醐味の一つです。




本堂から振り返る楼門と三重塔




第二十番 朱印




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【坂東第二十四番】雨引山 楽法寺 (雨引観音)

宗派 真言宗豊山派

本尊 延命観世音菩薩

ご詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺

328-0026 真壁郡大和村本木1

公式サイト http://www.amabiki.or.jp/




さてこれで栃木の札所はすべて終わりました。

益子の町より、41号つくば益子線を南下して、

茨城県に入り、岩瀬町で国道51号を交差して、

真壁郡大和村へ向います。




薬医門(黒門)=旧真壁城城門




またまたお約束の山登り。

カーブでは新車登録から11歳の、

我がラウム君が悲鳴をあげております。

ようやく到着したお寺の駐車場。

入口にはあまりお寺なしからぬ「黒門」があります。

これ「薬医門」といって、

元々は山の麓の集落の中央にあったものを移築したそうで、

関ヶ原の戦いの以前には真壁城の城門だったものだとか・・・。


磴道




またまた足の痛む二人を泣かせる大石段。

この「磴道」は文政四年(1821)から1年2ヶ月かかって造られた145段。

一段一段登るごとに「南無観世音菩薩」と称号を唱えて登れば、厄が落ちるそうですが、

我々は「痛い、痛い」と悲鳴とともにで登ったので、

おそらく厄は落ちていません・・・。(泣)


地蔵堂  子安地蔵  




→ 宗尊親王 - Wikipedia




この磴道の途中左手には地蔵堂がありました。

建長六年(1254)、鎌倉幕府六代将軍・宗尊親王の願によって建立した堂宇で、

享保年間(1716〜1736)に、左甚五郎の兄弟弟子である、

仏師・無関堂円鉄*1が彫刻したというこの地蔵菩薩を祀られています。

俗に「子安地蔵」といわれており、お子さんの健康を願うお供え物に溢れていました。




鐘楼




磴道を登りきると、右手には鐘楼があります。

これもそもそもは地蔵堂と同時に、

宗尊親王の願によって建立しますが、

その後天和二年(1682)にここの第十四世の堯長さんが再建。

またまた大破してしまって、

文政十三年(1830)に第二十四世の元盛さんが再々建立したものだとか。

屋根は昭和五十年(1975)に瓦葺きに葺き替えられたものの、

その他は文政年間の建設当時のままだそうです。




仁王門

木造阿形  木造吽形

石造阿形  石造吽形




なぜか木造・石造の二対四躯の仁王尊が祀られている仁王門。

これもそもそもは建長六年(1254)の宗尊親王の建立ですが、

現在のこの建物は、鐘楼の二度目の再建と同じ、

天和二年(1682)の第十四世の堯長さんによるものです。

周囲の彫刻は、先ほどの地蔵菩薩を彫刻した、

無関堂円鉄が宝永元年(1704)に施したもの。

ただし木造の仁王尊は、鎌倉時代の仏師・康慶のものと伝わっています。

スダジイの巨木



磴道を終えて、仁王門をくぐっても、

また石段は続きます。

途中、このスダジイの巨木に目を奪われて一休み。




本堂(観音堂)

本堂内




ようやく本堂(観音堂)の前に辿り着きました。

最初の本堂は、文明六年(1474)に真壁城・城主だった真壁久幹と弟・高幹によるものだったそうですが、

現存のこの本堂は、天和二年(1682)に第十七世、文昭さんの建立だとか。

この本堂の内外の彫刻もやはり無関堂円鉄によるものです。

平成十年(1998)までは茅葺だったようですが瓦葺きに形を変えました。

宮大工にこの技術者がほとんどいなくなってしまったようで、

どんどん茅葺屋根が減ってしまうのは寂しい限りです。






本堂からみた多宝塔




形を変えたといえば、この多宝塔。

そもそもは鐘楼や仁王門を再建した、

十四世堯長さんが天和三年(1683)に、

三重塔を再建しようとしますが、第二重目までで病に倒れ、

継ぐ十五世堯宗さんが翌・貞享元年(1684)に完成させます。

その後なぜか、嘉永六年(1853)に、三重塔を改めて、

現存の多宝塔と改修したそうですが、

ちょっと調べたもののその理由は不明のままです。




多宝塔と本堂




ただし、この二つの建造物。

並んでみればとってもよく"絵"になります。



東照山王権現社殿


本堂の左奥には、

なぜかこの東照山王権現社殿・東照宮があり、

徳川家康公が祀られています。

どうやら第十世宥円さんの時代、

慶長十八年(1613)に駿府城に呼ばれ、

大御所・徳川家康公に謁見し、

台命によって法論となるも、勝ち、

褒賞として寺領、朱印地百五十石を賜った恩義から、

この祠堂を建立したとか。

現存の祠堂は、享保十二年(1727)第十八世吽教さんによるもので、

やはり仏師円鉄さんによる彫刻でその時に徳川家光も合祠しました。




六角堂  薬師不動堂内




御供所の隣には鉄筋の六角堂。

本尊・薬師如来と、不動明王が祀られていました。




白睡蓮




池には美しい白い睡蓮が咲いています。

境内には孔雀が放し飼いになっているそうですが、

結局ご縁が無く見つけることが出来ませんでした。




御供所にあったご本尊の写真




納経をお願いに御供所へと向います。

ここでご本尊・延命観世音菩薩写真に拝しました。



御供所から仁王門越しに下界を眺める




御供所から仁王門越しに下界を眺めると、

仁王門の屋根越しに関東平野がかなり遠くまで望めます。

知らぬ間にかなり高く上がっていたようです。




第二十四番 朱印





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【坂東第二十三番】佐白山 観世音寺 (佐白観音)

宗派 普門宗

本尊 十一面千手観世音菩薩

ご詠歌 夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風

309-1611 笠間市笠間1056-1




41号つくば益子線を北へ岩瀬町へ戻り、

国道51号を右折して、

車は一路、笠間市内を目指します。




国道50線沿いにある笠間稲荷入口の鳥居




地図を見ながら国道50線を進み笠間市内に入ると

左手にこの朱色の大鳥居が見えました。

こりゃ間違いなく、これをくぐれというものです。

後に訪れる予定である笠間稲荷を横目に見て、

車は目的地である笠間稲荷神社外苑、佐白山に向います。



佐白山 観世音寺 入口



佐白山観世音寺の入口です。

こちらの開基は、殿様でも高僧でもなく、

白鳳時代の狩人の粒浦氏。

白雉二年(651)、この粒浦氏が獲物を占うと、

鏡中に霊木を護る白馬・白鹿・白雉が現れたので、

この霊木で観音を刻み、寺を建て、

山号を三白山としたとか。




境内


意外に小さな境内

しかし祈りの歴史を深深と感じさせます。

建保二年(1214)地元の豪族、笠間時朝は、

この三白山を襲って僧を殺し、

笠間城を築城しますが、

後に自らの悪行を悔い、

焼失した本尊に代わる千手観音を祀りました。

鎌倉幕府に無断で兵を動員し築城したことは、

本来であれば、きつく咎められる所業ですが、

どうやら鎌倉幕府は忙しかったのか、

そのまま笠間氏は残ります。

これを観音の霊力と崇め、

「三白山」の「三」を「佐」(たすく)に代え、

「佐白山」として今に続きます。




仮本堂



後の戦国時代、笠間氏は滅び、

寺も衰亡したものの、

昭和になって現在の地にこの"仮本堂"が建ち、

幾度の遷座にも残った笠間氏奉納の本尊が祀られています。



仮本堂内の前立本尊と本尊の写真



厨子の前の前立本尊

左下にはそのご本尊写真がありました。

経本をみるとどうやら独自の組み合わせのようです。

宗派は「普門宗」となっていますが、

事実上は単立のようです。




第二十三番 朱印




納経所、あれは住職さまだったのでしょうか。

書き終えた私の朱印帳に、

小さな声で約数分間、お経を唱えて頂きました。




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【坂東第二十二番】妙福山 明音院 佐竹寺 

宗派 真言宗豊山派

本尊 十一面観世音菩薩

ご詠歌 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 身ゆるむらまつ

313-0049 常陸太田市天神林町2404




さて、お昼時になりました。

とりあえず、さっさとすぐに済ませたいので、

水戸市内のファミレスを選び、

すぐに出てくるであろうカレーとドリアを注文するも、

なんと入店から50分、オーダーから45分、

なんの音沙汰もありません。

持ち前の"気の短さ"も、そこは観音巡礼中。

努めて冷静に我慢しておりましたが、

もし確認して、オーダー漏れだったならば、

黙って店を出ようと決めていた数秒前に、

笑顔のウエイトレスさんが、

カレーとドリアを持って「お待たせした♪」と登場・・・。

なんとも拍子抜けしてしまい、

黙ってすぐに食べ終えて、レジを済ますと、

一万円のおつりに対して、あれま、千円足りません・・・。

おいおい、コ●ス、いい加減にせいや。

あやうく大損するところでした・・・。

(すみません、これも修行ですね。)



さて水戸ICより、常磐道を北上し、

日立太田南ICを目指します。

インターからはひたすら国道293号線を西に向かい、

常陸太田駅を越え、目指すお寺に到着です。





仁王門

吽形(左)  阿形(右)

仁王門に掲げられた日の丸絵紋の佐竹氏の軍扇




佐竹寺正面には、この瓦葺の、

昭和十五年(1940)再建という仁王門。

ただし仁王尊は宝永年間(1704〜1710)の製作です。

さてここにはこの「扇に月」の家紋、

俗に"日の丸絵紋の軍扇"が掲げられている通り、

こちらは元々この地方の豪族だった佐竹氏の祈願寺です。

本尊は伝・聖徳太子作で、

花山法皇が護持していたという十一面観音

この法皇の勅願で、元密上人が創建したとされるのが、

こちらの寺伝による起源です。

佐竹氏初代・佐竹昌義が寺領を寄進。

戦国末期には大寺となるものの、

反徳川方だった佐竹氏は、

関が原の戦いの後、秋田に国替となり、

佐竹寺も衰退してしまったとか。

しかし延享年間(1744〜1748)に、

この坂東札所に加わって、

今に至ったという訳です。




国指定重文の大唐破風の本堂




とにかくその豪壮さに目を奪われる国指定重文の大唐破風の本堂。

天文十五年(1546)に佐竹義昭が再建したものです。

・・・これがとにかく凄い。

桃山建築の様式美というやつが、余すことなく伝わってきます。




本堂に掲げられた日の丸絵紋の佐竹氏の軍扇




ここにもやはり当然、佐竹氏家紋「扇に月」、

日の丸絵紋の軍扇がありました。




本堂内




本堂内をF2.0で覗かせて戴きました。

肉眼では暗く見えないこの壇が拝せて大満足。




円窓より本堂外陣をみる




禅宗様式でもあるこの円窓・火頭窓より、

本堂外陣を拝します。

これがとても美しい・・・。

・・・参りました。





本堂前の銅造聖観音



さてさて遂に、

坂東三十三ヶ所観音霊場札所も残り一箇所のみとなりました。

あとは結願の千葉県館山市の那古寺です。

板東札所、発願から五年余り、

初の"完全・般若心経・写経納経"のメジャー巡礼となりそうです。

さて、いつ館山にお参りしようか。

楽しみ、楽しみ。




第二十二番 朱印




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*1:円哲ともいう。

2010-08-23

【坂東第二十一番】八溝山 日輪寺 

宗派 天台宗

本尊 十一面観世音菩薩

ご詠歌 迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく 

319-3704 久慈郡大子町上野宮真名板倉2134



坂東巡礼2010、二日目の朝です。

日光のホテルでトーストの昼食を食べてチェックアウト。

午前8時、日光ICより東北道に戻って矢板ICで降り、

坂東霊場中最北で最も山深い、難所の札所を目指します。

茨城・栃木・福島の県境、標高1022m八溝山の八合目です。

なんとここのみはバスで行くことも出来ないとか。




矢板より、那須黒羽を抜け、

大子町を目指すも、どこかで一本間違えたのか、

まるで馬頭観音に導かれたのか、

馬頭という温泉郷に出てしまいました。

わがオンボロラウムにはナビはなく、

地図は札所の周辺のみをコピーして持参していたもので、

まったくもって迷子になってしまいました。

道の駅に飛び込んで、観光案内所で地図をもらい、

どうにか大子町に入ることが出来ました。うぃしゅっ。




八溝嶺神社入口  ガードレールのない山道




日光を出発して三時間

ようやく八溝嶺神社の鳥居のある

八溝山登山口に到着。

ガードレールもほとんどない急な山道を、

タイヤを鳴らせながら登ります。

こりゃいろは坂なんて、目じゃないね。

ほんとにこの先に寺や神社なんてあるんだろうか。




八溝山日輪寺の湧水 



やっとのことで到着した、

八溝山八合目のお寺の駐車場。

湧水が滾々と流れていました。



八溝山 日輪寺 

八溝山 日輪寺 本尊




山の名前そのものの山号の八溝とは、

この湧水が八つの細流だという分析説、

弘法大師が八葉の蓮華のような、

山相をみて名づけたという形容説。

また、日本武尊が来征の際に、

あまりにも山深いこちらをみて、

この先は闇ぞ。」といったという駄洒落説があります。

本尊弘法大師作という説がありますが、

今見る限り、さほど古い像には見えません。





古いお堂




本堂の左隣には、元は本堂だったのでしょうか、

この古い小さなお堂がありました。




第二十一番 朱印




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