2006-01-11
■[An amusing column]雪のリストラ
北海道と言えば雪、雪といえば森雪(宇宙戦艦ヤマト)というくらい、この時期に雪のことを語らなければ古代進に叱られてしまう。「古代君が危ないっ!」。冬の期間に北海道の豪雪状況を語らないのは、ヤキそば弁当にキャベツが入っていないくらい悲しいことだ。そんな悲しみを抱きたくないので、北海道の雪について話したいと思う。
先週の金土日と3日連続で雪は降り続いた。物事に飽きてしまったり根を上げてしまったりして、自分の約束事を守らないことを三日坊主という。この3日間というのはあっという間に過ぎる。しかし、今回の週末の3日間はひょっとしてこのまま一生続いてしまうのではないだろうか、という絶望に満ちていた。道端で一万円を拾ったり、自動販売機でジュースを買ったときに二本でてきたりするときには、この事態が一生続くのではないかなどということは考えないくせに、不幸なことが度重なると「一生続くのかもしれない」と思うのは人間の不思議なところだ。
とにかく、降り続く雪は確実に建物や路面を覆いつくし、生きるもの全てから「生きる力」を確実に奪っていった。元々生きる力など持っていないわたしにとって、この豪雪の状況は最悪である。「力」という文字がつくものなどわたしにはなにも無い。体力、知力、記憶力、忍耐力、活力、洞察力、理解力、チョコモナカなど、これらの力のつく言葉の中で、わたしが食べたいと思うのはチョコモナカくらいだろう。それくらいわたしには「力」が備わっていない。力のないわたしにとって、雪かきを命ぜられるということは、括約筋がないのにケツの穴を閉めろといっているようなものなのだ。そんな非力なわたしが、というか不力なわたしが、一日に三度も雪かきをするのだ。これはもう限界を超えているどころの話ではない。K点を超えて転倒しているようなものだ。
積雪というのは地面に積もった雪の他に、車に積もった雪、屋根に積もった雪、物置に積もった雪、わたしの頭に積もった雪、などがある。この中でも屋根に積もった雪が一番の厄介者だ。まず、高所にあるということがいかにも意地悪だ。そこに人間の手が届きにくいということを理解しているうえでわざと積もっているとしか思えない。いい根性をしている。力が無く高所恐怖症のわたしは、自分を奮い立たせ(急所は寒さで萎えているが)壁面に設置されているハシゴを登る。震える手と足で必死の思いで雪と氷がへばりついているハシゴを登りながら、このハシゴがどうか割り箸でできていませんように、と心で神様にお願いしていた。
屋上に到着し国旗を差したい気分を抑え、遠くに見える自由の女神やエッフェル塔などを見つめて心を落ち着かせ、そしておもむろにスコップを下に置いてきたままなことを思い出した。わたしはふたたび、どうかハシゴが爪楊枝でできていませんように、と神様にお願いしながら下りていった。スコップを取り上げたわたしは、三度ハシゴを登って屋上にたどり着いた。
屋根には、わたしの腰くらいまで雪が積もっていた。その積雪の中を雪をかきながら前進し、屋根の前方まで移動した。意地の悪い雪ども、ここで成敗してくれるわ、という思いでスコップを振り上げて、雪に突き刺し、そして下に叩き落して、ブン投げて、蹴飛ばしてやった。少し人間の怖さを知ったほうがいいぞ、雪。君たちの単細胞な脳(があれば)では理解できないし九九もできないと思うが、自然破壊をさせたら人間の右に出るものはいない。森林を伐採し、ガソリンを燃やし、酸性雨を作り、昼食に三食弁当しか食べられないこのわたしを筆頭に、人間を、人を、甘く見るなといいたい。
わたしの逆鱗に触れれば、雪といえども赤子の手に捻られるほど情けない様だ。もう少し自粛し、反省してこれからはもう少し降り方を考えたほうがいいぞ、雪。まあ、君たちにも生活があることはわかる。しかし、やり過ぎ振り過ぎ来生たかおは良くないぞ、雪。所詮、人の手にかかってしまえばあっけないものだ。あれだけ積もっていた雪も姿を消し始め、まるでリストラにあったサラリーマンのように肩を落としながら屋根から居なくなっていった。約1時間の雪との格闘を終えて、綺麗になった屋根を見渡しながら、わたしは深い深呼吸をして心地よい達成感に浸った。どんな小さなことでもやり遂げるということは気持ちのよいものだ。この後は温い湯にゆっくりとつかり、そしてキンキンに冷えたビールをいっき飲みしよう。そんなことを考えながらハシゴを下りた。もう神様にお願いすることなどなかった。
下は一面の銀世界。綺麗だ。
そして、積もった雪に屋根から降ろした雪が重なっていた。
2006-01-06
■[Reflection column]刃物そのもの
ニュース番組でよく使われる「刃物のようなもの」とはなんだろうか。例えばこのような内容のアナウンスを聞いたことは何回もあると思う。
「昨晩未明、○△区のコンビニに客を装った強盗が入りました。強盗は店員に"刃物のようなもの"で切りかかり、全治二週間の怪我を負わせ、レジから現金2000円を奪って南極に逃げました。」
人に傷を負わせる、若しくは切れるぞという脅しに使う"刃物のようなもの"とはどんなものであろうか。当然『刃物』であってはならないわけだが「切れる」という機能が備わっていなければならない。それを列挙してみる。
●ガラスの破片
●スキーの板(エッジ部分は危ない)
●「パッ缶」のとった後のフタ(縁が鋭利だ)
●よく伸びた爪
●コピー用紙(書類の整理などしている時に、紙のフチで指を切ることがある)
●砥石(角が鋭い)
●マリックが使っているトランプ(よく切れそうだ。パリッとしてて)
●広東麺(私は昼によくだべる)
などが挙げられる。しかし、実際これを見せられて怯むような人などいない。
ならば、実際には切れなくても視覚的に「これは物凄く切れるぞ」と認識させる物はなんだろうか。それを列挙してみる。
●じゃんけんの「チョキ」
●手刀
●刃の部分が銀メッキされたゴムで出来ている名刀正宗
●100メートル全力疾走したあとの息
などが挙げられる。ここでもうレディースANDジェントルマンの方々は既にお気づきだと思うが、どれをとってみても「殺傷能力」など皆無に等しい。ということは「刃物のようなもの」で人を切ってみたり、脅かしてみたりすることは不可能なのである。そのようなことをするのは「刃物」そのものではないと無理なのだ。これからのニュースは是非「刃物そのもの」と変更願いたいものだ。
■[Reflection column]NASAで開発された商品
「NASA開発商品」が巷に蔓延している。たとえばフィトネス器具などがそうだ。無重力空間を浮遊しながら歩くような運動をさせ、膝や足首などに負担をかけないような器具が大ヒットしているそうである(私は缶チューハイを5本ほど飲むと、これに近い運動ができる)。「NASA開発商品」はまだある。低反発ウレタン素材を使用している枕がそうだ。量販店で売られている「テンピュール枕」の素材は「NASA開発商品」である。
そして断熱素材やオーディオ製品、感熱紙、医療機器にも「NASA開発商品」が多く、コスメ商品、消臭剤、浄水器も「NASA開発商品」の物が多い。列挙するだけでもイミダス一冊分くらいのラインアップがある。
私たちの生活の中で「NASA開発商品」でないものを探すことのほうが難しいくらいだ。それくらい「NASA開発商品」は生活の中に溶け込んでしまっている。「NASA開発商品」と何回書いたか数え切れないくらい「NASA開発商品」はあふれている。
一番メジャーなところでは「エアロビクス」だ。もともと宇宙飛行士の有酸素運動のトレーニングメニューとして立案されてから世間一般に広まった。あの毛利さんも趣味は「エアロビクス」というくらいである。私も「エアロビクス」に関しては、産まれてから1回やったことがあるくらい趣味としている(夢の中でかもしれない)。
最近は、そんな「NASA開発商品」に埋もれる毎日に恐怖さえ覚えてしまう。100円ライター、服、下着、靴下、靴、爪きり、数珠、仏壇など、事あるごとに「NASA開発商品」でないかどうか確認しなければ気がすまなくなってしまった。非常に疲れてしまう。今日も出かけに気になってしょうがなかったので妻に聞いてみた。通勤の車の中で気になって気になって交通事故を起こしてもいけないし、仕事中に気になって仕事ばかりして転寝できないと困るから恐る恐る聞いてみることにしたのだ。
「お前は"NASA開発商品"じゃないよな」と。
返事さえしてもらえなかったのは言うまでも無い。
2006-01-05
■[An amusing column]正月無料
最近、世間では「気分」という意識が薄れているように思えてならない。わたしも家の納戸や、年老いた母が入れ歯の洗浄容器に使っている"あんぱんまんのマグカップ"の中などを探索してみたが「気分」を見つけることが出来なかった。
わたしがここで言う「気分」というのは、乗り物酔いや二日酔いなどで陥る"不快な気分"のように、人間の生理的現象によって発生するものではない。また、会議中の居眠りを注意されたときの"気分をこわされる"や、散歩中に一兆円拾えるかもしれないのに散歩に行くのが億劫になる"散歩に行く気分になれない"というような、その時々の漠然とした物事に対しての心の状態でもない。
わたしが言う気分は、限定された物事に対して起こる特定された心理状態のことを言う。例えば、銀河系の遠いかなたで宇宙戦争があったくらい昔に味わったロングロングタイムアゴーの"新婚気分"や、氷点下の中に開催されて、誰もふんどし一丁でみこしを担がない雪祭りに味わう"お祭り気分"、20歳代の女性達と合コンをして、カラオケで北島三郎の「祭り」を歌った瞬間に、引き潮のように引いていく女性達の心理をよそに、完全フルコーラスで歌ってしまうような"合コン気分"のことを言う。
今回が初めてというわけではないが、正月気分という気分を味わえるような気分になれなくなってしまった気分になってしまった気分だ。昔であれば年末30日くらいから、明けて3日くらいまでは何もすることがなかった。スーパーやデパートは休業だったし、映画館にしろ何にしろ兎に角営業をしている施設などは皆無ではなかったろうか。かといって何かをしようとして闇雲に表へ出てスキップやワルツを踊っていたのでもないし、家にいて何もすることがないからといって、「何かをしなきゃ、何かをしなきゃ」と心の中で繰り返しながら過ごすこともなかった。つまりは、正月には何もしなかったのである。することといえば転寝と「オール阪神巨人」や「やすきよ」の漫才を見て過ごし、お年玉がいつもらえるか精神を研ぎ澄ましていたくらいだった。車が通らない交差点で信号は寂しく止まれと進めをシグナルしているだけ。雪が積もって静まり返った町内では、郵便受けに年賀状が投函される「パタン」という音さえ響き渡って聞こえた。何もしないで冬眠する熊のように家に閉じこもっていてこそ正月気分だったのである。世の中の機能は停止し、なんの向上心も、なんの消費欲も、なんのしがらみも、黒人も白人も黄色人種も、キツネもカエルも、精子も卵子も、バクテリアもハエも、地球に生きとし生けるもの全てが静寂の中で、その心の中で新年を迎えそして正月を味わっていたのである。
だが、今はどうか。営業していない、活動していない物を探すにはスペースシャトルに乗って木星へ行くか、ザンダーバード4号に乗って日本海溝に行ってちょうちんアンコウに聞くしかないくらいだ。全ての物事は進行し続け、とまって休みませんか?と言ったなら鬼の形相でにらまれる様な世情となっている。いつも通りにコンビニでは弁当が温められ、元旦当日にして御節を売るスーパーが営業し、正月休みなんてあるわけないだろうと言う、わたしの上司が正月休みでオーストラリアに行くような、そんな太陽電池みたいな、充電切れしない電池みたいな、そんな世の中で正月気分を味わえというほうが無理である。
「正月であります」という情報があまりにも散乱し、世間の「正月表明」が飽和状態になっているのがその要因であるとわたしは考えている。メディアと社会は一斉に「正月ですよ、みなさん」という情報を発信し、それ以外の情報は止めてしまう。選挙報道でNHKと民法が速報番組をするさなか、頑なに20年前の映画を放映しているようなテレ東のようになれないのだろうか。いつのまにか「正月気分」は消費材料とされ、そのことによって「感じる」ということよりも「与えられる」ものに変貌していってしまった。朝昼晩カツどんを1年間続けているようなもので、そのカツ丼の味がどうのこうのという問題ではなくなり、むしろ今食べているのはカツ丼なのだろうか、ひょっとしたらうに丼ではないのだろうかというように、いわゆる正月気分に対して失調症にかかっていると言っていいのではないだろうか。与えられ続けることによって、本当の意味の気分を失ってしまっているのだ。なにもしないことによって得られた「正月気分」は、もはや何でもできることによって消滅してしまったのである。
それでは、気分はそれほど重要か?という疑問がわいてくる。正月気分に浸ることが、それが人生において大切なことなのだろうか。「気分」は感じるものではなく「味わう」と表現する。人間食べることが大切であって、味わうことなど二の次だという人もいるかもしれない。食べることが成長することや行動するエネルギーとなるわけだ。食べることが重大かつ重要であって、味わうことになどには意味が無いというのであれば、みんな宇宙食を食べて一生を過ごせばいい。カップラーメンを食べ続けて、摂取できない部分はサプリメントでカバーすれば合理的かつ経済的でよいのだ。しかし、人生というもの自体合理的ではない。合理的とは程遠いものが人生である。つまり人間は合理的生き物ではない。「心」が宿っている以上、合理的ではないのだ。機械には心などないわけだからいくらでも合理化が出来る。毎日500円しかくれない妻も、ある意味心が無いといえるので合理化が得意と思われる。「味わう」というのは、この「心」があってはじめて展開されるものだ。人間には「心」があるのだ。あるのにもかかわらず、この「心」を使わないでいるということは、手があるのに茶碗を持ってご飯を食べないのと一緒だ、目がついているのに好きな女性に対してウィンクしないのと一緒なのである。
心を使うのに金が必要か?「ちょっと今から悲しまなければいけないので銀行で金をおろしてきます。」という話は聞いたことが無い。「明日からは毎日お小遣いを3万円あげるので銀行に行ってきます。」という話などは、もっと聞いたことが無い。「正月気分を味わう」というのは、なんの準備も必要なく、なんのコストもかからない「心の贅沢」なのである。忙しさや、悩みや、辛さが蓄積された1年で唯一許されている無料の贅沢が「正月気分」なのだとわたしは思う。わたしは気分を大事にしていきたいと考えている。それは心の遊びの部分であり、ある意味余裕でもある。それが奪われたり、または機能しなくなってしまうことは悲しいことだ。何もしないで味わえるちょっと一休みの正月気分。その気分を味わうことを放棄したくない。
それは、わたしに許されている気分が、会議中の転寝気分しか残っていないからだ。




















