文化的な一日(第31回京阪・文化フォーラム)その2


 3月23日の続きです。1部終了で、15分の休憩を挿んで、第2部『光秀の虚像と実像』です。
河内将芳・奈良大学教授(日本中世史専攻) 1963年生まれ 甲南学園甲南中・高等学校教諭、京都造形芸術大学芸術学部歴史遺産学科専任講師、助教授を歴任。
河内将芳の窓=http://www.scn.tv/user/kk122917/index.htm
著書は「祇園祭の中世: 室町・戦国期を中心に(思文閣出版 2012/5/26)」「中世京都の民衆と社会(思文閣出版 2000年)」「中世京都の都市と宗教(思文閣出版2006年)」「祇園祭と戦国京都(角川叢書、2007年)」「秀吉の大仏造立(法藏館 2008年)」「信長が見た戦国京都(洋泉社歴史新書 2010年)」

  


 明智光秀のイメージ(虚像)は、現代人=本能寺の変の首謀者、名門の出身、知的、保守的。同時代(戦国)の人々が書いた古文書や古記録などの文献資料でその実像にせまる。

 ①『その人となり』②『信長との出会い』③『延暦寺焼き討ちと坂本城』④『本能寺の変へー終わりにかえてー』

当代記』の付記による永正12年(1515年)では、没年が天正10年(1582年)6月14日なので67歳という高齢になる。なお、『西教寺過去帳』『明智軍記』では享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年)8月17日)。これ以外の説には『綿考輯録』の大永6年(1526年)などもある

『当代記』(とうだいき)とは寛永年間(1624年〜1644年)に成立した記録資料。主な筆者(編纂者)は松平忠明で、全体的には太田牛一の『信長公記』を中心に、他の記録資料を再編した内容となっている。内容は織田信長の上洛以前から江戸時代初期に至るまでで、江戸時代初期の政治社会・文化を知る上では史料価値が高いと評価される。信長時代に関しても、他の資料に見られない考証を重ねられた内容も散見できるが、小瀬甫庵が『信長公記』を大衆向けに脚色した『信長記』からの影響が認められる部分も多く、信憑性は不確かな部分も多い。


フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、ポルトガル語:Historia de Iapam)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体史書
キリスト教の布教史としてのみならず、織田信長豊臣秀吉ら諸侯・武将の動向から庶民生活の実情、災害や事件などについて細かく描かれており、一部に日本人に対する誤解やキリスト教的偏見が含まれているものの、優れた観察眼と情報蒐集の確実性が明らかにされており、日本史における重要な史料として高く評価されている。


多聞院日記(たもんいんにっき)』は奈良興福寺塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。
 基本的には寺院の生活、身辺のことを記した日記ではあるが、室町時代末期から、戦国時代、安土桃山時代、さらに江戸時代初頭の大坂冬の陣、夏の陣、と激動の時代の奈良を中心とした近畿地方の情勢を物語る貴重な断片的情報が記述されている。


禁裏御倉職立入家文書(きんりみくらしき たてりけ もんじょ)』
 本書は,禁裏御倉職に任命された立入家に伝わった古文書。御倉職とは,南北朝時代から戦国時代にかけて,天皇,院,幕府の財産管理などを本務とした酒屋・土倉衆といった金融業者から構成されていました。御倉職の職制のなかで,天皇や院に関しては禁裏御倉職,幕府に関しては公方御倉職と称しました。かれらは,ある種特権階級として,その時代に活躍し,政治・経済・社会に大きな役割を果たしました。

 歴代立入家のなかで,特に注目されるのは宗継で、織田信長正親町天皇との政治的仲立ちを成し遂げ、また信長に上洛を促すなどの行動をとった人物でもあったとされています。宗継以降も、江戸時代を経て明治時代から現在に至るまで,同家は絶えることなく存続しました。

立入宗継( たてり むねつぐ)
 1528−1622 戦国-織豊時代の商人。
大永(だいえい)8年1月5日生まれ。立入宗長(むねなが)の子。京都で土倉(どそう=金融業)をいとなむ。禁裏御倉職(きんりみくらしき=財政担当)もつとめ,正親町(おおぎまち)天皇の使者として織田信長をたずね,その京都入りをうながす。天正6年信長と石山本願寺の和睦を斡旋。見聞をまとめた「立入宗継記」がある。元和(げんな)8年9月26日死去。95歳。号は隆佐。


兼見卿記 ( かねみきょうき)』

 吉田兼見(1535‐1610)の日記。従二位神祇大副。吉田神道の宗家として公武の神事祈禱をつかさどり,織田信長豊臣秀吉らとも交渉があったため,その日記には神事関係以外にも政治情勢,社会,文芸など多方面の記事が含まれ安土桃山時代の重要史料である。1570年(元亀1)6月から92年(文禄1)(うち1574,88,89年を欠く)と1610年(慶長15)分が写本として残る。

吉田 兼見(よしだ かねみ)天文4年(1535年) - 慶長15年8月20日(1610年10月6日))は堂上家(家格は半家、卜部氏)である吉田家の9代当主(卜部氏25代)である。戦国時代の京都の吉田神社神主の神道家で、『兼見卿記』(かねみきょうき)の著者。細川藤孝(幽斎)の従兄弟にあたる。
 神祇大副兼右兵衛督・吉田兼右の子。吉田兼治の父。萩原兼従は孫で猶子。初名は兼和で、天正14年(1586年)に兼見に改名した。官途は、従二位・神祇大副・左衛門督。
織田信長明智光秀と親密であり、比叡山焼き討ちのとき延暦寺を焼く事に不安を抱いた信長が相談に訪れたとされる。


信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)』は、中世〜近世の記録資料。安土桃山時代戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長旧臣の太田牛一。江戸時代初期に原本が成立。信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11年)までを首巻とし、上洛から本能寺の変が起きた1582年(天正10年)までの記録が全16巻(16冊)にまとめられている。

 太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず、1527年(大永7年) - 1613年(慶長18年)3月)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。和泉守。通称は又助(またすけ)。牛一の読みは、ぎゅういち、うしかず、ごいちなどの説がある。また、織田信長の右筆であったとする説はよく見られるが実際は誤り。
 大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現名古屋市北区)に生まれる。織田氏の家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では弓をもって活躍したという。その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。変後には丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には弓大将として肥前名護屋に在陣。文禄3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の側室三の丸殿の警護を務めた。晩年は、大坂天満にて隠居生活を送った。慶長18年(1613年)3月、病死。
 文才に優れ、信長・秀吉・秀次・秀頼・家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。


 参考資料=天下統一期年譜 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho0.htm
  年譜:個人の1代の履歴などを年代順にまとめた記録。


 
          

THE NEVER ENDING STORY

THE NEVER ENDING STORY

「Follow Me」のロングヒットで大注目のE-girlsから待望の新曲が登場! !
 4枚目となるシングルは、
 80年代世界的に大ヒットした感動の名曲「THE NEVER ENDING STORY」をカヴァー! !
 フジテレビ系月9ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」主題歌
カップリング「JUST IN LOVE」は、これぞE-girls POP! の弾けるカラフルサウンド


アーティストプロフィール
 EXILEのDNAを受け継ぐ、本格的なダンスパフォーマンスを展開するガールズ・パフォーマンス・プロジェクト。
 2011年4月に始動。
 2011年12月にE-Girlsとして1st Single「Celebration!」をリリース。
 2012年4月に2nd Single「One Two Three」、10月3日には3rd Single「Follow Me」をリリースし、オリコンウィークリーチャート2位を記録。現在に至るまでロングヒットを続けている。つねに最高のパフォーマンスを目指して、作品ごとにベストフォーメーションで展開していくE-Girlsにご注目ください。


CD収録曲
1. THE NEVER ENDING STORY ~君に秘密を教えよう~
2. JUST IN LOVE
3. THE NEVER ENDING STORY
4. THE NEVER ENDING STORY (Instrumental)
5. JUST IN LOVE (Instrumental)