海外を何箇所か訪れて、現地の人としゃべる(主に商談)と、そのうち出てくる言葉がある。
英語なら、ノープロブレム。
中国語(普通語)なら、メイウェンティ。
広東語なら、モーマンタイ。
タイ語なら、マイペンライ。
日本語なら、もんだいない、となるわけで、中国語、タイ語の語感と似てくる。
”人生とは何かと言えば、一言で言えば「生まれたから死ぬまで生きている」ということですから、その意味ではこれ以上の意味はありませんね”
”「現在」ということに気がつけば、現在に死は存在していないわけです。生きているわけです。でも、死が存在してうないのだから、実は生も存在していない。生でも死でもなく、ただ存在しているのだ、ということになってしまいます。
絶対的現在ということに本当に徹底すれば、過去の後悔、未来の憂いということがなくなるのでしょう。たぶんそれこそが、言うところの大安心というのか、大丈夫という言葉の本来であったらしいです。つまり「ノープロブレム」ですね”
言葉に付いた長年の澱、のようなものを、その言葉を学ぶときに一緒に感じるものだから、その言葉自体の魅力というか、成立したときの無垢な意味合いを知らずにともすればこのまま死んでしまうのか、ということがある。
長田弘、言葉のダシのとりかた、という詩を読むと、そんなことが書いてある。
”鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。
それが言葉の一番ダシだ。”
ポケット詩集 P.66より
池田晶子さんの講演を文書化した”人生の本当”を読んでみると、池田さんが原稿をきちんと用意されていたことを感じる。思えば小林秀雄も、講演の際は、凄く前から内容を考え、遂行し、そして自然に話せるように練習をしたという。
しかし、講演を音声で聞けば、その凝縮された内容についていくのがやっとである。数回、繰り返して聞いて、ああ、そういうことを述べているのか、とうすぼんやりと解ってくるような気がする、その程度である。
しかし、池田さんにしても、小林秀雄にしても、その生存された時代にたまたま同じように存在することが僥倖であるような稀代の魂の持ち主であるが、その人たちが我々、ここでは端的に"僕に”かたりかけてくれる、と感じるわけだが、そういう"面倒な”ことをわざわざしてくれる、これこそ天命、あるいは天職として、伝えるべきことを伝えていただいている、という感じになってくる。素直にありがたい。
或る意味自分の存在が、どうにもこうにもなぜかそういうことを”皆のもの”に伝えるためのものである、といったような意識があったのではないか。勢い込んで伝えたい、というのではなく、肩の力が抜けて、仕方ないな、やるしか、という。
”そのように気がつくと、あえて「救い」という言い方をするならば、救いは今ここにすでに成就しているという言い方も可能なのかと思いますが、それを救いと呼ぶべきかどうか、ちょっとわかりませんね。”
宗教について語って、そもそもの人間の”救いが欲しい”という根源的な欲求に対するこの回答。
実は飛んでもない本なのである。
例えば、高校で、”倫理”の授業をやり、毎週この本を1章ずつコピーを渡して読ませて、翌週それについて思いを自由に語る。答えは個人がそこで個別に得る。
こんな授業を全国でやれば、世界は、人類はガラッと変わってしまうのではないか。
心が根本から革命される、という。
その後の社会が、会社が、人生が、どうなってしまうのかはちょっと怖いような気がするが。
池田晶子 ”人生のほんとう” Ⅳ 宗教 人生の意味 より
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