雨宮まみの「弟よ!」

2009-07-17 『リボンの騎士』

 サザンオールスターズの現時点でのラストオリジナルアルバム『KILLER STREET』の中に、原由子が歌う『リボンの騎士』という曲がある。作詞作曲は桑田圭祐。最初ざっと聴いたときに「好きだな」と思ってiPodに入れておいた。


 昨日少しショックなことがあり、胃が痛くなったので薬をのんで、少し眠れるように眠る薬ものんだのに眠れずボーッとして、音楽でも聴きたかったけど動くと痛むのでCDプレイヤのところまで行けず、テーブルの上に出しっ放しになっていたiPodを聴いていると、ふいにこの曲がかかって、最初は「ああ、こんな曲あったな」と思って聴いて、もう一度、もう一度と聴いていたら5回目ぐらいに聴いたときに心が叫ぶように涙が出てきて止まらなくなった。


 歌詞はこちらで読めるので、興味のある人は読んでほしい(http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A01357)。歌はこちらで聴ける(http://www.youtube.com/watch?v=FJINYl_GO-E)。


 聴いてもらえば、読んでもらえばわかるが、この歌はべつに目新しいものではない。『クワタを聴け!』で中山康樹先生も書いておられる通り、歌のモチーフは岩崎宏美聖母たちのララバイ』みたいな感じだ。みたいな感じどころではない。「戦に敗れ傷ついたら 精神(こころ)も肉体(からだ)も横たえて 私の中で果てるように すべて投げ出し静かにお眠りよ」「男の船が櫓を漕ぐ時 女の海に潮が満ちる」なんて、男を船に例え女を海に例えるなんてもう、使い尽くされてきた手垢だらけの比喩が恥ずかしげもなく使ってある。


 歌謡曲というルーツを持つ桑田圭祐っぽいといえばそうだし、そこに桑田ならではというエッセンスも入ってくる。「出来映えのいい大人の仮面は脱いで 裸の自分に嘘をつかないで 淫らな獣のオスのままでいて すべてを曝け出すように抱いて欲しい」。


 単に情緒不安定だったから揺れただけなのかもしれないとも思ったが、そうじゃない気もする。私が気になったのは、この歌を作ったのが桑田で、歌っているのが原由子であるという構図だ。桑田の書いた歌は、男の理想の女を歌ったものであり、それを原由子が受け入れて歌っている。


 桑田と原由子の愛情関係のことをさておいて、それを自分と誰か、男との関係に置き換えてみるとする。こういう理想を言われて、果たして自分はそれを受け入れられるだろうか? 「好きだから、嫌われたくないからその理想を演じる」ことはあり得ると思う。演じて、結局無理がたたって壊れてしまうことも、容易に想像がつく。


 私は、自分も戦場にいるから、自分もリボンの騎士に癒してほしいと思う。でもその反面、媚びでも、相手に好かれるために無理をして言うわけでもなく、好きな男が疲れたときにからだごとこころごと癒してやりたいとも思う。そういう、自分のふたつの欲求に、身がひきさかれるような気持ちになる。相手の好きなときに、相手を受け入れる余裕がない。自分が受け入れてもらいたいときに、少しの時間も待てない。いまでなければだめだというくらい、いつも切羽詰まっている。


 この歌は、一見非常にステレオタイプな男と女の歌のように見える。けれど、これを書いたのは桑田圭祐なのだ。女の多情さやわがままも知ってる、それに振り回されて傷ついたこともある、女をよく知ってる男が書いてるものなのだ。そして、歌っているのは、中性的にも見えるし母性的にも見える、でも女の情念をしっかり持っている原由子だ。


 歌詞のどこにも関係がないのに、この歌に『リボンの騎士』というタイトルがついているのは、原由子が歌っているからだと思う。ふだんはいつも、一緒に戦場に立っている仲間なんだから、原由子のそういう一面を、桑田が知らないはずはない。男装の麗人のように、男装して戦っていて、でも自分の意志でその服を脱いで、やわらかな部分を男に見せることのできる、そういう女の比喩としての『リボンの騎士』であり、原由子なのではないだろうか。


 この歌は、古くさい男と女の歌でありながら、本当は男でも女でも、どっちをどっちにあてはめてもいい歌のように聴こえる。桑田圭祐の中にも、ほんとは女みたいな、柔らかい柔らかい部分があり、その中に女を横たえて安らぎを与えてやることもできるだろうし、男のそれと女のそれは違うのかもしれないけど、この歌を聴いていると、男と女が、しばし入れ替わって聴こえてくるような感覚に陥る。私は女だから、この歌になぞらえれば敗れた男を癒す役割なのだけど、疲れてぼろぼろになった自分を、誰かが癒してくれるような、そういう気持ちで聴こえてくることがある。


 桑田圭祐は、男のこと、女のことをけっこう「男だから」「女だから」という書き方をするが、実のところ、そう思ってはいても、本人はもうひとつ違う次元にいるんじゃないかという気がする。桑田ほど女々しい男はいないし、原由子ほどりりしい女はいなくて、ふたりの間では「男」と「女」が、ある意味交換可能であり、男と女でわかりあうのではなく、男同士や女同士のように何かをわかちあえる感覚があるのではないかという気がする。


 だとしたら、それは私にとっては、ユートピアのような場所だ。だからいくらでも泣ける。本当のところはどうか知らない。桑田圭祐が歌謡曲好きの部分を活かしてただ作った歌なのかもしれない。ただ、私はそこにまぼろしを見たし、まぼろしを見せるような歌であるのは確かだと思う。


 私は、自分の望むものの正体や、自分が苦しんでいるものの正体をつかむためのヒントが、サザンや桑田の歌の中に隠れているような気がする。バービーボーイズもそうだ。恋愛やセックスが好きで、でも苦しいということ、それでもそれがとてもまぶしくて求めずにはいられないことの正体が、その中のどこかに隠れている気がして、何度でも何度でも聴いてしまう。