雨宮まみの「弟よ!」

2010-12-25

★よくサブカル系に見られがちだけど実は全然サブカル詳しくなくて「相対性理論が好き」って目をキラキラさせて言われた時点で幻滅するので身近な男性との恋愛がまったく成立しなくて困っている私ですが、じゃあ何を聴いてるのかというともちろん宇多田ヒカルを聴いてます。


 昔からたまに、批評の世界の話で、メジャーなものや売れているものはもう十分に評価されてるんだから、まだあまり知られていないもののほうを積極的に批評すべきだ、という意見を目にすることがある。


 気持ちはわかるし、もっともだなと思うところもある。まだあまり人に知られてない、良いものやすばらしいもののことを人に伝えるのはどう考えても大事なことのように思えるし、そもそも「新しい才能の発見」は、批評の果たす重要な役割だと思う。それに批評家の人生だって有限だから、どうせなら何かためになる仕事をしたいというのももっともだろう。そのことを否定はしない。


 否定はしないけど「メジャーなものや売れているものはもう十分に評価されてる」っていう部分は、でたらめなんじゃないかと思う。宇多田ヒカルのSINGLE COLLECTION VOL.2に入ってる新曲はおそろしい。このあいだのライブもすさまじかったが、この新曲はなんなんだ。


 私には音楽的な知識がないから、音楽的にどうすごいのかはうまく説明できない。だけど歌詞だけとりあげてみても「お母さんに会いたい」とか「誰しも深い闇を抱えてりゃいい 時に病んで、もがいて、叫んで叫んで」とか、瞬間の気持ちの昂りを歌詞の流れの中でかなり唐突と言えるような言葉で捉えている。


 もともと、宇多田ヒカルの歌詞はかなり変わっている。前例もないし、何にもたとえられない。音楽的にもきっと私がわからないだけで、本当は色んなミュージシャンの影響、いろんなジャンルの音楽からの影響が有機的につながってこういう音楽ができあがっているんだろう。


 そういうことが、メジャーだから、売れてるからって本当に評価され、理解され、後世の人たちにもそのすごさがきちんとわかる形で語られ、論じられているのか? 私が知らないだけだったらごめん。だけど宇多田ヒカルは単なるひとつの例で「メジャーだから」といってそれが十分に評価され、語られてるに決まってるなんてことはないと思う。


 宇多田の例を続けると、私もそうだが、宇多田ヒカルの歌声やメロディが生理的にあまりに気持ち良くて、単なる快感装置としての部分に溺れて聴いてるだけの人が多くて、本当はこの音楽がどういうものなのか、ちゃんとわかっている人は少ないんじゃないだろうか。


 宇多田ヒカルは異形の天才だ。若くして世に出て、あまりにも売れたので誰もそのことに疑問を持たず、普通に売れてる歌手としてこの世の中に受け入れられてるけど、宇多田はすでに12年もの間、自分で音楽を作っているアーティストだ。それも海外進出のときにはR&Bのワクをあえて自分に課して、その中で自分がどれだけR&Bっぽくやれるかという実験を楽しんでいたように見える。とにかく音楽で遊ぶのが大好きな人だという印象だ。


 ライブの中継を観ているとき、私はこのすさまじい才能が、たった27歳の、生きている人間の若い女の子にのっかっているのだということにふるえた。宇多田はこの才能を、自在に使いこなし遊びこなして楽しんでいるように見えるけど、こんな巨大な才能がたった一人の、何かあればケガもするような脆い「人間」の形の上にあるって、おそろしいことだ。普通に「電気代とかも知らない痛い大人になりたくない」って言っちゃうような、そういう女の子の上にある、そのことはもちろん宇多田ヒカルの表現する歌と不可分なことだけど、こんなにも大勢の人間の心を否応なくゆさぶる力を持つ才能が、永遠ではないこと、感情があり、生活があり、当たり前に続いていくものではないこと、それを考えると、かけがえのなさに今さら気づかされてたまらなかった。この一瞬にしかこの一瞬は存在しないっていう、当然のことを私はあのとき初めて強く意識した。この怪物のような才能は、怪物ではなく人間なんだと気づいて、恐怖と貴重さに慄然とした。


 日本って、売れてる人間にある意味すごく冷たいところがあると思う。金持ちで成功してるからもういいだろ、みたいに見放すところがときどき見える。宇多田が金持ちでも、その金は私のようなファンが生活費削って、それでも宇多田の曲が大好きで買ってて、その「聴きたくて買ってる」気持ちも、金額の重さも、別にマイナーなミュージシャンが好きな人となにも変わらない。まぁ確かに全曲持ってるシングル集に新曲つけられて買わざるを得ないっていうのはどうかと思うところはあるけど、基本的にはずるして儲けてるわけでもなんでもない。金の集まらないところでは、ファンの出した金は「大事なファンの気持ち」みたいに扱われるのに、大勢のファンが出した金は、大金になればなるほど、個人の重みや気持ちがまるでないかのような言われ方をする。そのことにはいつも、強い違和感を感じる。「売れてるものが正義」ではなくても、売れてるものにも、売れてないものと同じだけの正義はあるんじゃないのか。


 思うのは、批評っていうのは応援なのか? っていうことだ。私は批評って、応援じゃないと思う。結果的に応援になることはあっても、応援を目的としたものじゃないんじゃないか。本質を理解し、それを解きほぐしてみせることが批評なんじゃないのか。そういうものだから、自分にはできないことだから、批評っていうものに、私は「わかんない、難しい」って思いつつも、なんとなく敬意を払ってるんじゃないのか。それには売れてるとか売れてないとかまったく関係がないと思う。


 自分が自力で見つけた本じゃなくて、人にすすめられて読んだ本なので、まるで自力で知ったかのように書くのは抵抗があるんだけど、私は中山康樹先生の『クワタを聴け!』という本が大好きだ。この本には、出版されたときまでの桑田佳祐の曲が、サザンもソロもKUWATA BANDも全部含めて一曲ずつレビューされている。たいそう世間に遅れて桑田ファンになった私(たしか2年前だよ)に、これほど懇切丁寧に、桑田が音楽的にどのようにすごくて、なぜこんな音楽になっているのかということを教えてくれた本はない。「すごい、かっこいい、しびれる、泣ける」ぐらいしか音楽について言える言葉のない人間に、この本は言葉を与えてくれる。私には遠すぎて大きすぎて測り得ない、桑田という人の才能の大きさを教えてくれる。偉大な本だ。ついでに言えば、変なタイミングで桑田を好きになってしまい、初めて聴く桑田の曲に対して熱く盛り上がる気持ちを誰とも共有できないでいる私に、こんなにぴたりと寄り添ってくれる本もなかった。枕元に置いて、アルバムを一枚買って聴くたびに開いて読み直した。


 本質を突いた批評が、人の救いになることはある。けどそのことと「応援」って、やっぱり少し、違うと思うんだよね。中山先生の本は、桑田をベタ褒めはしない。かなり厳しい採点をしてる。だからamazonのレビューでは桑田のファンからクソミソに叩かれた。だけど桑田だって、なにもベタ褒めばかりが欲しいわけじゃないと思うんだよ。もちろん褒められたり応援されなかったりしたらつらいだろうけど、自分のやりたいことや意図してることを誰にもわかってもらえないことのつらさっていうのもあるんじゃないのかな。