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2010-05-30

哲学の話と自分はなぜ NAIST を受験することにしたか

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土曜日の「日本酒を愛でる会」で yasuhiro-r くんと yuta-h くんと哲学の話をしたのだが、自分にとってはだいぶ昔の話のようで、確かにこういう問題をいつも考えていたころもあったな、と思ったり。

自分は中学生のころから哲学書を読むのは好きだったし、そういうのをまとめて解説したりするのは自分でも得意かなと思っていたのだけど、哲学するってのは哲学の本を読むことではなく、自分の頭で自分にとって重要な問題を徹底的に考えることなんだな、と気がついてから、そもそもそういう重要な問題があるわけでもないのに哲学青年を気取って哲学書を読むことを恥じ、それからしばらく遠のいたのであった。

そういう意味では自分のターニングポイントになった本は

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

である(本当はこれの前に出た単行本版のほうだが)。同書にも

私の考えでは、哲学とはもう少し病気に近いもの、凶暴性・危険性・反社会性を濃厚に含みもつものです。人を殺してなぜ悪いか、人類が宇宙に存在することに何らかの意味があるのか、どんなに一生懸命生きていても私は結局死んでしまう……という呟きをまっこうから受けとめるものです。

とあるのだが、確かに哲学書を嬉々として自分は読んでいたのだが、そこで繰り返されている問題に自分はほとんど共感できなかった。単にロジックとしてそういうものを突き詰めて行く、論駁していく楽しさは自分にあったのだが、はっきりいって「反論のための反論」のような、血の通っていないゲームのような議論を高校生のころはしていたと思うし、いま考えても若気の至りだった。逆に言うと、この本を読んで(自分でも考えたが)思った一つの結論としては、「自分そこまで病気ではない」というものであり、本当に哲学をする人が、気が狂いながら哲学するのを見ていると、これは自分には無理だ、と思ったのである。

そういうわけで、自分の頭で考えて哲学するのは自分には向いていないし、そもそもやりたいことでもない、と思い、哲学書を読むだけなら仕事じゃなくて趣味でいいや、と思って情報系に来たのであった。論文も、別に哲学なら大学で哲学の研究者でなくても書けるし、自然言語処理は大学や企業で研究者として所属していないと書けない、といった違いがある。

一応補足すると、哲学書を読んだ経験が無駄だったかというと、遥か昔から現在の社会で議論されているようなことが問題になっていたり、どのような問題が人間に取って重要な問題なのかといったことが分かったり、いまの自分の血肉にはなっているし、そういう背景を知った上で自然言語処理の研究をするのは重要なことだとも思う。

自分は7年間学部生をやっていたのだが、最初の数年は哲学をやりたくて大学に入ったけど哲学は自分のやるべきことではなかった、と思ってふらふらしていて、じゃあ今後どうしよう、と思ったとき、自分にとって死ぬまでに明らかにしたいものはなんだったか、とぐるぐる考えてみると、昔から自分の関心の中心にあったのは言語だったので、それならことばの研究をしよう、と考えたのである。

そして、最近では実際のデータ(テキスト)から浮かび上がる意味というものにコンピュータの側から迫ってみよう、という動機で研究をしている。人間が一生のうちに目にするテキストからすると不可能なくらい大規模なデータを計算機は処理することができるのだが、そこで生まれてくる意味というのはなんなのか、それは人間が認識しているものと同じなのか違うのか、そのあたりが死ぬまでに明らかになってくればいいなぁ、と思うのだ。

文系の話に戻ると、最近出た「文学研究という不幸」

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

は東大の文系学部の暴露話をいろいろ書いていて、最初おもしろいかなと思ったのだが、読んでいると他人の悪口ばかりでいろいろ気分が悪くなってきて、こんなこと書いている暇あったらもっと誰かをしあわせにすることすればいいのに、と心底思った。

とはいえ、自分があのまま哲学青年していたら、自分もこういう人になっていたことは想像に難くない(し、容易に想像できる)ので、あまり人のことは言えない。そもそも酒の席で話すような内容をこうやって文章にして恨みつらみを書くというのも趣味がよくないが、こういう文章でも読みたい人もいるのだろう。

よくも悪くもこの本は典型的な(文3の)東大生が書いているな、という感じなので、そういうワールドを知りたい人は読んでみては。なんで自分が東大に進学するのを止めて NAIST に来ることにしたのか、この本を読んでもらえれば分かると思う。(と、今日受験生の小論文を添削していて感じた)

jun-jun1965jun-jun1965 2010/06/01 23:34 誰かをしあわせにすること、とか書く時点で十分気持ち悪い。

mamorukmamoruk 2010/06/02 18:09 id:jun-jun1965さん
まあ、自分は批判するならちゃんとお金出して買わないと、と思うのでお金出して買いましたが、
この日記は読んでもらうのにお金を取っているわけではないので、気持ち悪いのは我慢してください (^^;
感覚が合わない人はいると思いますし、自分は東大のそういう雰囲気が嫌で出てきたので、
たぶんあまり自分と jun-jun1965 さんたちのいらっしゃるコミュニティは交わらないのでしょう。
(東大の人文系はは自分みたいな人を「気持ち悪い」と思う人たちが他と比べてたくさんいた気がします)
東大が嫌だったのか、それとも人文系が嫌だったのかはいまとなっては分かりませんが……。
(東大も情報系の人とは楽しく遊べるので、ずっと教育用計算機センターで相談員していました)

jun-jun1965jun-jun1965 2010/06/02 23:14 君は「東大に進学するのをやめて」と書いているけど教養学部卒でしょ。私は東大生は性格が悪いと思っているが、なんで東大を批判している本を読んでいかにも東大だと思うのか。また、東大出身でほかにこういう本を書いている人はいるか。谷沢永一は関西大だよ。それに「暇があるなら」って私は一所懸命働いているので暇じゃないのだが。

mamorukmamoruk 2010/06/03 13:25 id:jun-jun1965さん
そうですね、自分は駒場にかれこれ7年いました(うち1年は留学していましたが)。文3入学で科学史科学哲学にいましたよ。

なにがいかにも東大かというと、東大を「批判」するところがいかにも東大的なのです(^^; 安全地帯から声だけ上げるみたいな。評論家気質と言ったらいいでしょうか。自分の得意な土俵でしか戦わないというか、文句は言うけど自分で責任を取らないというか。嫌なら辞めればいいのに辞めないで文句を言う、と。自分もかつてそうだったので、自分への反省も含めてですが、そのエネルギーはコトバという形で他者に暴力的に投げつけるのではなく、自分の中で折り合いを付けて(昇華するって言うんでしょうか? そんなきれいごとでもないですが)、他の誰も気分悪くしないようななにかをすればいいのになぁ、と思うのです。もっとも、すごく切れ味の鋭いナイフのようにスパッと切れるような批判は、切られた方も「あれ、いつの間に?」と思うくらい鮮やかに切れますし、そういう批判はどんどんするべきですね。棍棒で延々殴り続けるような(愚痴のような)批判はなにも解決しない(新たな黒いなにかを産む)と思うのです。

そういえば、東大の人は東大以外に行くことにものすごく抵抗があるみたいですね。自分も奈良に来るとき「そんなところに行ったら研究者になれない」とか「誰も知らないところに行くなんて」とかいろいろ「アドバイス」をいただきましたが、奈良は少なくとも周りを見下す人はまずいないので、そう言う意味ではとても自分には合っていました。自分はそんなに「東大が嫌だ」と言いたいわけではありません。自分に合っていなかっただけだと思います。そして、それは言っても仕方ないので、行動で示すしかないなと。東大生はあまり行動で示さないなぁと感じます(いろいろ考えてはいるのですけど)。最近、これは東大の問題というわけではなく、旧帝大のような一連の大学の学生(学部生)にはそういう人が一定数いるのだ、とだんだん分かってきました。いい人のほうが多いんですけどね。

そうそう、こういう本をお書きになっている、という意味では確かに独自路線を行ってらしてすばらしい、と思いますが、出版してくださる方がいらしたのでちょうどよかったですね。意見の表出の仕方が「いかにも」と言いたいわけではなく、こういうふうな思考回路がいかにも東大的だなぁ、と思うのです。この本ももし余暇の時間で書かれているのであれば、確かに気分を害されるのはごもっともな話で、プライベート(=暇)な時間になにをなさるのかは自分が口を出すことではありません。どうも失礼しました。でも仕事の時間にこういう本を書かれているのであれば、やっぱり「他のことしたほうがいいのでは」と思います。

ご自身に常勤のポストがないことについて嘆かれていましたが、「この人と一緒に仕事をしよう」とか「この人にぜひいてほしい」と思うのは、なにがしかの形で誰かが喜ぶなにかをしているからではないかと考えています。本を書いて生計を得られるということは、お金を払って読みたい、話を聞きたい、という人がいてくれることでしょうし、素敵なことだと思います。でもやっぱりそれをする過程で他の人を傷つけたり気分悪くしたりしていては、せっかくのお仕事にケチがついてしまうのではないかと。(と書きつつ、自分のこういう考え方も「気持ち悪い」と感じる人いるのかもなぁ、と思ったりしましたが) 

学部のころの恩師の小松美彦先生が「自分ひとりでしあわせになることはありえない。しあわせを感じるのは誰か他人がしあわせなのを見るときであって、自分がしあわせになりたかったら他人をしあわせにしないといけない」という趣旨のことをおっしゃっていて、自分も別経路で全く同様のことを考えていて、そうだよな、と思いました。人間誰かをしあわせにしようがしまいが、どうせ100年もすれば自分は死んでしまっているわけですし、それなら周りの知っている人をしあわせにして気分よく毎日暮らす方がいいんじゃないか、というポリシーで自分は生きています。

KK 2010/06/08 19:32 小谷野敦というのは「論壇の宅八郎」と呼ばれている人なので、つまりそうやって人に絡みついてねちねち嫌がらせをしたり、「復讐宣言」をしたりするのが芸風なのです。自分はもてないもてないと言いながら21歳下の美人と結婚したり、清貧だと言いながら1000万前後の年収があったり、大学教授になれないと嘆きながら平川先生から常勤のポゥストを紹介されると口実をつけて辞退したり、そういう不幸ごっこが好きな人なのです。中島義道のことを「変人を演じているが実はけっこう世渡り上手だ」と言って非難していますが、変人を演じつつ実は世渡り上手というのは小谷野自身にも当てはまることで、いうなれば近親憎悪ですね。

mamorukmamoruk 2010/06/08 20:32 ははは。「不幸ごっこが好き」というのも極めて東大的です(笑) 一般の人からすると不幸とも言えないようなことをたいそう不幸であると思うわけですね。「変人を演じているが実はけっこう世渡り上手だ」というのはあまり非難に聞こえないですし、まあ、こういう芸風が楽しいと思ってらっしゃる方もいらっしゃるのでしょうし、それは「蓼食う虫も好きずき」ということなんじゃないでしょうか。自分はもっと絡まれるのかと思いきや、そうでもないですし、きっとこういう芸風がよしとされる(というか問題なしとされる)コミュニティで生きて行かれるのであれば、それはそれですばらしいことなんではないかと思いますよ。(自分からわざわざ出かけていって「あなたのやっていることは云々」と言うような野暮なことはいたしません(笑))