ちくしょうめ、ちくしょうめ

"本の話"というカテゴリーを作ってみました。

日本登山界に不滅の足跡を遺した文太郎の生涯を通じ"なぜ山に登るのか"の問いに鋭く迫った山岳小説屈指の力作である

第一弾は『孤高の人』。

(なんだってこんな苦しい目に合わねばならないのだ)
先へ行ってしまった宮村のことを考えると腹が立った。
なにも宮村なんかのいうことを聞かないでもよかったのに、そんなことをふと思ったあとで、彼はここでほんとうに動けなくなったら、それこそ間違いなく凍死という結果になり、宮村の腹いっぱいの嘲笑をうけることになるだろうと思った。
市川はときどき畜生めということばを吐いた。宮村に対していっているつもりだった。市川が畜生めといい出すと、水野もまた小さい声でそれを言った。畜生めが偶然のようにかち合ったりすると、疲労の中に急に力を感ずることがあった。(下巻383頁)

孤高の人』は山登りの小説です。
加藤文太郎という実在した登山家をモデルにした作品です。もっとも、引用した箇所では加藤文太郎は出てきませんが、この箇所は4人で山を登っている部分で、加藤文太郎も一緒に登っているのです。

舞台は冬の北鎌尾根。一般の人にはとても難易度の高いコースです。とはいえ、4人のうち加藤以外の3人は神戸山岳会のメンバーです。
おまけに市川は神戸山岳会の幹部級(下巻401頁参照)ときています。
その山岳会のメンバーでも難しいコースが冬の北鎌尾根なのです。

この4人の中でも、すごいのが主人公の加藤と、そのペアーの宮村です。
もともとは二人の登山だったのですが、道中でたまたま同じ山岳会に所属する市川・水野の二人と会ってしまいます。

「槍ですか」
宮村が訊くと、市川は、
「冬の槍ヶ岳などとがらにもないことをいうようですが、行けるところまで行ってみようと思いましてね」
市川と水野と顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、ちょうどいい。御一緒に願いしましょうか」
宮村は、彼が所属している山岳会のメンバーと槍見温泉で会ったことで、かなりはしゃいでいた。


宮村がはしゃぐのは他でもない登山界のビックネーム・加藤文太郎とペアーを組んでいるからです。
加藤は、"単独行の加藤"と呼ばれ、一人で山に登るのです。
その加藤がペアを組んでいる――。
昂ぶる宮村の気持ちがわからないでもありません。
誰でも有名人と一緒にいるところを誰かに見せびらかしたいものなのです。
ところが、宮村の昂ぶりが悲劇を生みます。
加藤と宮村のペースに、市川と水野がついていけないのです。
次第に、二人は宮村の傲慢さに苛立ちを感じはじめます。
しかし、疲労はもうピークに達しようとしています。
もはや彼らを支えるのは、宮村への憎しみだけなのです。


「ちくしょうめ、ちくしょうめ」
世の中はおもしろくないことばかりです。
そんなときに、誰かの「ちくしょうめ」とハモったら幾らか元気になるというものです。

ちくしょうめ!



孤高の人(上) (新潮文庫)

孤高の人(上) (新潮文庫)

孤高の人(下) (新潮文庫)

孤高の人(下) (新潮文庫)


苦しそうに、うめく声が交互にした。市川と水野は、布団の中でまだ苦悩の登山を続けていた(下巻393頁)