びーの独り言

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理性の限界

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

 大学友人Sに勧められた。この本の続編も2冊出ており、3冊まとめて読んだ。とても面白かったので、内容を覚えてしまうつもりで4回読んだ。
 理性には限界があり、理屈だけでは計れないものがあることを、3つの証明を中心に解説している。3つの証明とはアロウの不可能性定理、ハイゼンベルク不確定性原理ゲーデル不完全性定理である。解説の進め方は、架空のシンポジウムでさまざまな分野の専門家が討論をする形式となっている。対話形式なので、理論の概要、批判、歴史的背景などがとてもわかりやすい。滋賀時代に散々考えていたことに対する答え合わせのよう。ずっとこういう一冊を待ち望んでいた。
 第一章は選択の限界がテーマである。ここではアロウの不可能性定理を扱っている。以前、選挙のプロセスは民意を反映していないことが数学的に証明されている、と聞いたことがあった。今回これが不可能性定理であると知った。不可能性定理とは、集団で意思決定しようとしたとき、選択方法によって最終結果が左右されてしまうことである。例えば、小選挙区では落ちるが、比例代表では当選するケースがある。私は民主主義はずっと民意を反映したものであると信じていたが、実は為政者側がそのように思わせてるだけで、独裁と変わらないのではないかと思えてきた。為政者側は常に自分たちの都合のいいようにシステムをいじるものだ。独裁者が民主化すると言って、不正を働いて結果を操作したりもする。大体、感覚的に政治が民意を反映してると思えない。そして、その民意で何かがチェンジしたと感じたことがない。アロウの不可能性定理がほとんど取り上げられないのは、取り上げられると困る人たちがいるからじゃないか?
 この章では集団における囚人のジレンマについても扱っていた。囚人のジレンマとは、2人のプレイヤーがお互いに独立に「協力」「裏切り」のカードから1枚を出し合うゲームである。2人が「裏切り」を出すと、1点ずつ獲得。2人が「協力」を出すと、3点ずつ獲得。1人が「協力」でもう1人が「裏切り」の場合、「協力」の方が5点で「裏切り」の方が0点である。2人が個人的な利益を追及すると利益が少なくなり、2人が協力すれば利益が多くなる仕組みである。この囚人のジレンマのゲームを何度も繰り返すとき一番有効な戦略は、相手がひとつ前に出したカードを出すことである。これはしっぺ返し戦略と呼ばれ、日常の集団生活の中でも非常に有効な戦略である。うちの会社で試してみようかと思ったら、毎回裏切りのカードばかり提示されるから、裏切りしか出しようがなく。
 またゼロサムゲームについても触れられていた。ゼロサムゲームとは、得点の総和は常に一定で、プレイヤーどうしが得点を奪いあうゲームである。ゼロサムゲームでもっとも有効な戦略はミニマックス戦略である。これは損失を最小限に抑えることである。今度麻雀で堅く絞ってみるか。
 第二章は科学の限界について書かれている。この章ではアインシュタイン一般相対性理論とボーアの量子論に触れられている。このくだりはこの本で解説されるまでもなくとても有名だ。
 ハイゼンベルク不確定性原理は、電子などの微粒子の位置および運動量を決定しようとするとき、微粒子が観察の影響を強く受けてしまい、位置および運動量を同時に決定できないことを示している。これには2つの解釈がある。アインシュタインが支持する実在的解釈では、微粒子は正しく観察できないだけで、位置と運動量は一つに決まっている。一方量子論による相補的解釈では、微粒子はある範囲にある確率で広がっており、特定の位置と運動量を持たない。観察しようとすることで、収縮して位置と運動量が決定される。このような相補的解釈に対してアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と批判した。
 量子論を裏づける実験としては二重スリット実験がある。二重スリットに電子を一つだけ打ち込んだとき、実在的解釈によればスリットを通った電子は決まった位置にしか着弾しないはずである。しかし、実際の着弾した結果は見事な干渉縞を描く。これは一つの電子が両方のスリットを通り、自らに干渉していることを示している。
 量子論が気に入らないアインシュタインEPRパラドックスを提示した。EPRパラドックスとは1対の相補的関係にある絡み合った2つの粒子があるとする。片方の粒子を観察したときにもう片方が収縮する。このとき1つの粒子が観察されたという情報がもう一つの粒子に伝わる必要がある。2つの粒子がものすごく離れていたとき光の速度よりも早く情報が伝わるだろうか?一般相対性理論では光速を越えるものはないという大前提がある。驚くべきことにこのパラドックスも実験的に証明されている。情報は光速を越えるのだ。
 一般相対性理論量子論はそれぞれが現象をうまく説明できるのに、お互いに相容れない。2つの理論を統一する検討が今もなされている。情報が光速を越える点も謎である。また本文にはないが、宇宙のはしっこにあるクエーサーが光速を越えて遠ざかるという現象もある。現在の科学ではまだ解決できてない問題はたくさんある。
 第二章では科学哲学についても触れられていた。普段あまり注目される部分ではないので、逆にとても興味深かった。ポパーは、反証できないものは科学ではないとした。また進化論と同じように科学理論も自然淘汰されて常に新しいものにアップデートされるとした。クーンは科学を社会学的に考えた。科学とは政治革命のように科学者たちが合意を変えていくことであるとのこと。ファイヤアーベントは、科学も非科学もどれも価値があって、非科学だからって否定することはできないとした。つまり、なんでもかまわない!ファイヤアーベントのことは全然知らなかったが、かなり私の感覚に近くて驚いた。ファイヤアーベントが有名にならないのは思想が危険だからだろう。この思想はあらゆる権威にとって都合が悪いはず。これではルールや秩序もなくなってしまう。実際ものすごく批判を受けたようだ。けれど、個人があらゆる束縛から解放され、自分らしく自由に活動するためには、ファイヤアーベントの考えは不可欠だ、と私は信じている。
 第三章では知識の限界について触れられている。ここではゲーデル不完全性定理が取り上げられている。証明のイメージが解説されているが、何度読んでもわかったようなわからないような。著者はゲーデルの解説本も書いているので、後日その本で理解したいと思う。不完全性定理の結論だけ書いておくと、数学の世界では数学をいくら駆使しても解けない問題が存在するということである。これはとてつもなく重要な証明である。いくら頑張っても絶対にわからないことがあるというのである。感覚的には容易にわかる。有限のものさしで無限を測るようなものだから。この証明もあまり有名でないように思う。理屈で説明できないことがあるというのは、世の中の秩序を乱すからだろう。
 不完全性定理からは神がいるのかいないのかを考えることができる。この世が測り知れないものなら、全知全能はウソになるから神はいないという証明になる。または我々が測り知れないものを神は知っているとも解釈できる。神がいるとかいないとか私にとってはどうでもいい。西洋人は実に面倒だ。勝手に神を発明し、なんでも神基準で考えるから。それを信じるなら勝手に信じればいいが、他の宗教を異教徒扱いして対立するのだけは止めよう。そこからは悲劇以外生まれない。
 最後に簡単に感想を書いておく。これだけ知的好奇心を刺激してうまくまとめてる本があるとは驚きでしかなかった。もうすべての答えを書かれてしまったのじゃないかすら思えるのだ。ずっと覚えておきたい内容。この本に出会えたことは私の中で大事件。完璧にやられた。