見当外れな死刑廃止論をぶつ勝間和代さんを過去の呉智英さんに諭していただく。

勝間和代さんの意見。

 死刑廃止論者は「自分の家族が殺されても言えるのか」という反論にさらされるが、勝間は「それでもわたしは(死刑廃止と)言います。死刑が犯罪の抑止力に何の役にも立たないからです。死刑の問題が感情的なところで議論されていることに、きちんと向き合わないと」と決意を語った。

「冤罪」の問題など、確かに「死刑」を巡る事柄には問題点もあるのですが、「冤罪」に関しては、むしろ「捜査の段階」における「運用」という側面から語られるべきことかもしれません。例えば、「取り調べの可視化」「自白偏重の捜査の改善」などですね。

そういったところが、議論の論点になるのは間違いないのですが、今回の勝間和代さんの意見には呆れました。「またどっかで聞いた風なことを言って」「気の利いたことを言ったつもりなんだろうなあ」「まだそんなところで議論してるの?」といった印象です。

1996年5月に放送された「朝まで生テレビ」で、死刑制度の是非が議論されたことがありました。
当然、死刑廃止論者は、「死刑に犯罪抑止力はない」と言い募りました。

そのとき、呉智英さんが語ったこと(大意)です。

よく、こういう議論になると、我々は、勝手に「近代・国家」という枠組みの中で語りがちだけれども、もっと本質的な議論をすべきだ。

アフリカのある国で、象の密猟が絶えなかった。そこで、「象の密猟をした者は死刑」という法律を作ったところ、象の密猟は、ほぼ無くなった。

日本で考えたってそうです。例えば「万引き」です。

「万引きをしたら死刑」という法律を作ったらどうなるか? 誰が想像してもわかる通り、万引きは皆無になるでしょう。

死刑に犯罪抑止力はあるんです。


そして、実は、呉智英さんは、「死刑を廃止して、仇討ち復活を」という論者なのですが、勝間和代さんが笑わせてくれるのは、「死刑存続問題では感情論を排せ」という主旨の発言をしていることです。

呉智英さんが言うまでもなく、そもそも「死刑」というのは、被害者家族の「復讐権」を国家が奪って行われていることです。

被害者家族の仇討ちという復讐の手段を国家が奪っているのが現状なのですから、そこに「感情論」が入り込むのは当たり前のことではありませんか。

いや、「感情論」を抜きにした「死刑廃止論」など笑止千万だ、と言ってもいいです。
かねてから、中身のない言論活動をしている人だなあ、という目で見ていた勝間和代さんに対して、更なるがっかり感が加わったことは言うまでもありません