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2012-05-25

[]「みんな」って誰のこと?(当事者の時代 - 佐々木俊尚

キュレーションの時代に続いて、当事者の時代。憑依する(他人が言ってることにする)のではなく当事者として自分のことを語りなさいよ、と言うお話。「普通」とか「一般」とか「みんな」とか、そういう言葉の定義にずっと違和感があった自分にとって、その違和感の謎が解けたのでとても面白かったです。

マイノリティ憑依

憑依ってなんやねん、と言いますと、「他人の気持ちを勝手に代弁する」と言うことであると本の帯に書いてありました。メディアなどの言論は被害者や弱者(=マイノリティ)に「憑依」して、さも彼らが語っているように言うけど、その弱者って本当に存在するの?メディアが自分の都合いいような形に作り上げてない?と言う話。そういう極端に歪められた言論ではなく、これからの時代はみんなが「当事者」として発信して生きていくのがよいのではと言う話。(だと思う)

佐々木さんは「当事者たれ」と言うこと自体が各自の当事者性を失わせる、と書かれていましたが、最初は言われて当事者となったと人でも、やがてきっと自発的な(真の)当事者になれると思うので「当事者たれ」と言えばよいと思います。

「みんな」って誰のこと?

昔から「みんな」とか「一般人」とか、他人をを抽象的にまとめて指す言葉がどうにも違和感があって苦手なんですけど、これを読んでる方々はどうでしょうか。メディアや人の話の中に「みんなこう言ってるよ」みたいに書いてあると、「みんなって誰だよ」と突っ込みたくならないでしょうか。僕が感じていた違和感は「当事者」と言う言葉を使うと

 当事者以外が当事者をカタっているから

です。本来他人のことなど完璧に理解出来ないんだから、他人のことをどうこう言うこと自体がそもそも不可能なはずで。当事者以外は当事者のことを正確には語り得ないと思うわけです。

とは言え

とは言えね。みんながみんな全てのことを世の中の人に向かって伝えられるわけではもちろんないから、誰かが誰かを代弁すると言うのは人類全体がコミュニケーションを取っていく上では不可欠ではあるはず。じゃないと世論は形成されないし、人間同士でコンセンサスを取っていくことが出来なくなってしまうから。

これからの時代、今までよりも個が意見や情報を発信しやすくなるので「当事者性」は発揮されやすくなって、結果、憑依して代弁された他人の意見はより正しくなっていくんじゃないかな。いつの日か、究極的には世の中の全員が当事者になって考えを発信するようになり、それを全てすくい上げることが出来る仕組みが出来るのかも知れない。それで初めてマイノリティ憑依は完全に消滅し、憑依は、正しい代弁となるんじゃないだろうか。今の技術とサービスの進歩を考えると、意外と早くそんな時代は来るのかもなぁ。まる。


<マイノリティ憑依>はしょせんはガス抜きの免罪符にしかならない。エンターテイメント化された免罪符--それこそが<マイノリティ憑依>の本質である。 - P.414

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)


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キュレーションシリーズ!

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2012-05-22

[]キュレーションの未来(キュレーションの時代 - 佐々木俊尚

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今更ながら「キュレーションの時代」をちゃんと読みました。ソーシャルメディア等を通して無数のキュレーターによる視座が提供され、人々がそこから情報を得られる時代。誰もがある分野ではキュレーターであり、フォロワーであり、マスメディアや従来の広告のような画一的ではない情報流通が当たり前になる時代。そういう時代がここで述べられているキュレーションの時代だと思います。

言葉の定義ですが、いったん以下のように使います。

  • キュレーション → ある視座、ある考え方に基づいて情報を整理すること。整理する人のことを「キュレーター
  • ビオトープ → 生態系。ここでは特に、ある視座、考え方の元に集まっている人たちの集まりのこと。

とは言えキュレーションと言う行為は昔からある

もともと「キュレーション」と言う言葉が使われてきた博物館などだけではなく、「○○の話なら××さんが詳しいよね」と言うのはどこにでもあって、事実上のキュレーターと言うのは無数にいたことになります。

また「ビオトープ」についても、もちろんソーシャルメディア以前から、あるものが好きな人たちの集まりって言うのは至る所にあったわけで。それはリアルなご近所さんの集まりだったり学校のクラスだったり、会社の喫煙所だったり、週末のバレーボールサークルだったりしたと思うのですね。あるいはネットの中なら掲示板だったり、チャットだったり、ホームページ(久しぶりにこの言葉を使った)だったり。

じゃあ、なぜいまキュレーションとか言われるようになってきたのか

マスメディアによる画一的な支配(支配って言葉を使うのは、なんか陰謀論めいてますが。)が出来ない世の中では、人の行動や考え方はこれまでよりずっと多様になるので、例えばマーケティングを例に取ってもビオトープ(そういうのが好きそうな人たちの集まり)を見つけるのが大事だし、それが大変ですねと、1章にも書かれています。

そういう「○○が好きで集まってる人たち」と言うのが可視化され誰でもそこにリーチ出来るような環境が整ってきたからこそ、最近になって論じられるようになってきたんじゃないでしょうか。可視化と言っているのは、例えばソーシャルメディア上でどういうコミュニティに属してるとか、誰をフォローしてるとかそういう情報で人をある程度セグメントで来て「ビオトープ」は割と見えるようになってきたよね、と言うことです。

キュレーションの未来

冒頭に書いたような、キュレーションの時代が来ると本書では書かれていました。1年半前(2010年10月)の本なのにいま読んでも全然違和感が無い辺り、本のテーマはほんと的確だったのだなと思います。

本の予想通り、ソーシャルメディア人口は増加の一途を辿り、キュレーションによる情報流通は以前より力を増しています。じゃあ、5年後10年後はどうなっているんでしょうか。

数年前、Web2.0と言う言葉がバズワードになり、これからはCGMの時代や!みたいになってブログmixiが騒がれた時期がありました。考えてみるとブログmixi(たとえばmixi日記)でも同等のキュレーション機能は仕組みとして持っていたし、果たそうと思えば果たせたはずなのですよね。でもそれが今ほど情報源として確立(今も世の中一般の人に広まっているかと言えば、まだまだだと思うけど)しなかったのは、そういうキュレーション的な利用がキャズムを超えていなかったからだとは思う。

国によるキュレーション、マスメディアによるキュレーション、個人によるキュレーション。情報を整理する(ある視座に基づいてまとめる)主体の規模はどんどん小さくなっていき、個人と言うのはもはやこれ以上無い最小の単位になっているように思える。が、今後起きるイノベーションで、もしかすると個人は更に分解されるかもしれない。

例えば僕個人を分解すると、

  • アキバに足しげく通うオタクとしての側面
  • 週末プログラマーとしての側面
  • まじめな(!)社会人としての側面
  • 最近中国茶にハマっている側面

みたいなものがあるはずで。何かしらの仕組みで個人はそういう形で分解され、その「個人を構成するモジュール」として更にビオトープを形成するような仕組みが出来ていくのかも。

そしたら「個人」の定義は今とは代わる。「個人の中の○○と言う側面」と言うものだけが取り出され他人と共有され、他の人にとってはその一部の側面だけが「個人」として認識され繋がっていく。今の時代の「個人」の定義は「個人を構成する様々な側面の集合」になり、人の最小単位は自分な内部の更に細かな側面になっていく。そしてやがて自分と他人は同じ視座の元に考えや意識を共有していき、自分と他人の脳はネットの世界を介してつながっていく…とか言うとどんどんSFチックになっていきますが、そういう方向に行くのは結構あり得そうな気がしてます。なんかそういうの楽しい!近未来や!! まる。


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グローバルなプラットフォームの上で、コンテンツやキュレーター、それに影響を受けるフォロワーなどが無数の小規模モジュールとなって存在する。その関係はつねに組み替えられ、新鮮な情報が外部からもたらされていく。 そういう生態系の誕生。 - 著者

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

2012-04-17

[]ネット上の情報はフローでしか消費されない

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しか、は言い過ぎですけど。

例えばこの記事を読んでいる人はどこから辿り着いて下さったのでしょうか。恐らくソーシャルメディアか、RSSリーダーか、ほぼどっちかですよね。流れているタイムラインのフローの中で目に留まったから、見てもらってるのだと思います。情報の消費って結局この「流れの中で目に留まったから」と言うパターンばっかしじゃないかと思うのです。

今回はキュレーションシリーズその4。結論は特に無いです。今までの流れを三行で言うと、

と言う感じ。

新しいものしか見ない。いや、見る機会が無い。

受動的なメディアと能動的なメディアがあるけど、どちらをどの程度消費しているのだろうか。根拠はないけど8:2くらいな気がします。

今お読みになっているこの記事、4/15(日)に渋谷スタバで書いてますが投稿したのは4/17(火)です。あ、まんとるぽっとは特に読んでほしい記事については火曜日午前に毎週更新と言うことにしましたので、これから毎週火曜日に見に来て下さい!それ以外の日は多分ゲームとかマンガのレビューしか書きません!!

とにかくですね、この火曜日に新しく投稿されて、恐らく長くても数日間しか読まれなくて、以降はたまーに検索や過去ログ見る人が見るくらいなのですね。そりゃそうなんです、誰の目にも触れなくなるから。もしどこかで取り上げられたりしたらまた日の目を見るかもしれないけど、それもそういう「フロー」に乗ったからです。人が目にする、見ることにしている情報の流れ。その中の情報しか普通は見られないはず。ここにも書きましたが、有名人のツイートでも賞味期限は3日程度です。

別にネットに限った話ではないんだけど

例えば新聞と言うものがありますが、新聞は文字の通り新しいことを見聞きするためのもので、毎朝届くと言うその情報の流れが価値なわけで。昨日の新聞には基本的には古新聞紙としての価値くらいしか無いのです。既に明日には、今日のことは新しくないから。雑誌の先月号とか何かの会報とか、定期的に発行されるものは大体そうでしょう。

新しいものこそ価値があるのだ

不思議なことなんですが「新しい」と言うことはそれだけで価値になるんですよね。例えば数日前、北朝鮮がミサイル発射したニュースがありましたが、それを仮に今日流したとしても「おいおい何で今更言ってんだよどんだけ遅延してんだよ」と思われてしまうわけで、価値が無いわけです。価値が無いどころかマスメディアで古いニュースを流そうものなら信用すら失いそうです。

でもね、たまたま知らなかった人には「先週、ミサイル飛んで来たよ!」と言うのは意味のあるニュースのはずなのです。でも、多くの人は知ってるからそういうのは流さない。だから一般的に多くの人が見ているメディアが自分自身に持たせている価値は「見ている大多数の人が新しくて興味ありそうな情報を流す」と言うことになりますね。

ソーシャルメディアの価値の発生

新しければ良いかって言うともちろんそうではなくて。例えば毎分「渋谷なう!」「渋谷から200mなう!」「信号待ちなう!」とかツイートしようものなら、フォロワーの皆さんからそっとリンクを外されそうです。新しくて、意味があって、自分が欲しいと思える流れがそこに無いとメディアとしての価値は無いわけですな。

例えば上記のような僕のうっとうしいツイートが流れてればそれは無価値ですが、みんながほどよく「〇〇なう!」して、友達の大半がそこでワイワイ言っていればそこには見るべき価値が生まれてきます。ソーシャルメディアの、自分にとっての見るべき価値って言うのはそういうものじゃないでしょうか。自分の興味がある人たちから、それなりに見る価値のある情報が程よく流れてくる「友達の情報をいい感じでまとめて見れるメディア」、それがtwitterfacebookになってると思います。

最強の受動的メディアとは何であるか

twitterとかFacebookは自分の嗜好に近い人が集まっていて、その人たちがキュレーションしたものだけ見ていればある程度情報収集はこれだけでもいいかもって感じがします。でも最近はそれすら結局情報が多くなり過ぎてフィルタリングが必要になっている気がします。ありていに言いますと、フォローしている数百人の情報を全部見たいかって言うと、結局見れないし見たくないわけで。。と言うことを前回書きました。

一様に同じ情報をメディアが配信して、それをみんなが見るようなテレビや新聞の時代は既に終わっていて、一人一人が見たいものだけが見える時代になるはず。「色々見ることが出来る選択肢がある」のではなくて、「気付かないうちに選択しているものは、見たいものばっかりで構成されている」と言う感じになるんじゃないかなぁ。テクノロジーの進歩で一人一人に合わせたモノがいくらでも作この時代、色んな情報源は必ずその方向に進んでいくと思います。

個人がブログやソーシャルメディアでキュレーションしてメディア化していく流れは、個々人が自分の軸で情報をまとめて発信することを可能にして、その「個人の軸」を他人が使えるようになっているところにこそ意味があると思います。自分に合った人を探してその軸を利用して情報を集めることで、自分の受動的メディアの効率を上げていくことが出来るはずです。

でも、他人は他人だから、その軸だけでは情報収集にきっと過不足が出る。それを補うために自分で何か別のものを取り入れる必要があるのが今の世界だけど、10年後くらいには「何もしなくても」自分に必要なものがほっとけば全部揃ってる世界になるんじゃなかろうか。自分に必要な、欲しいと思っているものが勝手に揃う受動的なメディア。頭の中を知って、興味がある何かを、世の中から精度100%で取って来てくれる不思議な仕組み。「人の軸」で情報を集めることが出来るこのキュレーションの時代と、自分のWebの世界でのアクティビティを他人が(システムが)知ることが出来るこの時代の延長上に、そういうものがある気がする。

自分の中の色んなこと、自分と他者の繋がりも、いつかは電子化されて全部ネットの中に取り込まれるのだろうか。そういうマトリックス的な世界、理系の夢だなぁ。そんな世界に向けた、ものづくりがしたい。(結論なし)

マトリックス [Blu-ray]

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2012-03-15

[]能動的なメディアと受動的なメディア。TVやfacebookに無意識に期待しているもの

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キュレーションシリーズその3。タイトル長くてすみません。Web上のメディアを2つに分けて、その未来の姿を考えてみたい。特に受動的なメディアの未来について。以下の記事も併せてご覧下さいまし。

定義

明確な目的を持って見るものを能動的なメディア、目的を持たずにとりあえず見るものを受動的なメディア、と言うことにします。「○○について知りたい、買いたい」などは能動的、「とりあえず見とくか」は受動的。どのメディアも両方の側面があるものの、その時々の使い方でどちらに分類出来るかは変わってきます。例えば以下の記事に「受動的メディアとは、ユーザーが能動的にハイパーリンクをクリックしてコンテンツや情報を収集せずとも最適化して届けてくれるサービスのことである。」と書かれていますが、受動的というのはそういうイメージ。

能動的なメディア

明確な目的を持って何かしたい時に使うメディア。Web上だと「○○について知りたい」時にググるし、「明日の夜おいしいもの食べたい」時は食べログで調べたりします。以下のようなものがあると思う。

目的メディア
目的についてのサイトを探したいgoogle, yahoo, etc.
晩ご飯食べるとこ探したい。評価を知りたい。食べログ, hotpeppr, etc.
週末旅行行こうかな。と言うか夜行バス予約したい。じゃらん, 楽天トラベル, etc.
あの用語/出来事について知りたい。wikipedia, etc.
先週買ったゲームの攻略を見たい。ファミ通 (←僕です。)

そう考えるとリクルートのサイトはどれもバーティカルメディアで、基本的には顕在ニーズに対するアプローチばっかりなんだなぁ。。

受動的

明確な目的を持っているわけじゃないけど、とりあえず見るメディア。「なんとなく見たい」「なんか見ちゃう」から見るメディア。以下のような感じ。

分類メディア
SNStwitter, facebook, mixi, gree, mobage, etc.
マスメディアテレビ、ラジオ、新聞, etc.
ポータルサイトYahoo!, livedoor, etc.
動画サイトyoutube, ニコニコ動画, etc.
雑誌いろいろ。。

時間の使い方は色々ありますね。概念を「何かを読む/見る/聞く」等から広げると、例えば「本屋に行く」「東急ハンズをうろうろしてみる」と言うのもある意味、そういうメディアから受動的に情報を得ようとする行動と言えるかもしれない。

もちろんメディアの使い方次第でどちらにもなる

上の分類は目的とセットで書いているからこうなっているわけで、例えば「○○君の様子が気になるからfacebookで見てみよう。」「昨日のあの事件の続きどうなったかな。新聞見てみよう。」は能動的です。

それぞれの価値基準は?

能動的なメディアの良し悪しを判断する基準は「どれだけ探す意図に沿えるか」じゃないのかな。

  • 目的に早く辿り着けるか
  • 知りたいことが全部載っているか
  • 見やすいか
  • 正確か
  • 詳細か
  • 選択肢があるか
  • 比較軸に納得感があるか
  • 客観的評価があるか

とか?よく利用されるバーティカルメディアにはそれぞれ理由があるはずで。こういうのがちゃんと設計されてると使いやすかったりするのではと思う。(他にも軸はあると思う。)

じゃあ、受動的なメディアの場合は?今日の本題。

みんなは受動的なメディアに何を求めているの?

15年くらい前からか、僕自身はTVを見る習慣が無くなってしまいました。意識的に「明日からテレビ見るのやめる!」と思ったわけではもちろんなくて、理由は「TVが別に面白くなくなった」とか「TVより他に時間使いたいことが出来た」とかそういう感じだったと思う。思い返せば高校1年の時にプログラミングにハマって以来、TVじゃなくてPCの前に座るようになった気がする。

なぜかつてはテレビを見ていたのか、そして今はfacebooktwitterを眺めるのか。理由は「いまそれが心地良いかどうか」しかない。じゃあその心地いいのってなんでだろう。

  • 変化がある。動きがある(=見るたびに違ったものが見える。更新性。)
  • 発見、気付きがある
  • 興味がある、好きなものがそこにある(→見えたものが、好きなものである確率が高い。)
  • 友達がいる
  • 共感できる
  • タダ、お得感がある
  • かわいい、かっこいい、笑える。エロい(すみません。)
  • なんか良い、なんか面白い(言語化出来ない何か?)

他にもありそうだけど、いま思い付いたのはこんな感じ。「何かキッカケがあってそのメディアに辿り着いて」、「いいね!」と思ったら「習慣化」してそれを見ると言う流れ。習慣化するためには繰り返し触れる頻度だったり、「みんな使ってる」と言う評判とか横並び感だったり、「家にあるから」と言う必然性だったりするんじゃないだろうか。

前回の記事に書いた自分が必要とするもの、と言うのはこの受動的メディアの側で考えたものです。僕がファミ通を見るのも、はてなブックマークのホットエントリーを見るのも、佐々木俊尚氏のtwitterを見るのも、秋葉原のヨドバシカメラをたまにうろうろするのも「なんか好き」なことがそこにある「確率が高い」から。

まとめ。結局自分にとっての「いいね!」って何なの?

自分にとっての「いいね!」とは何でございましょう。Facebookで「いいね!」と押したものはもちろん、「いいね!」と思えるものは世の中にたくさんあって、当然多種多様でみんな違っていて。人生と言うのは、自分にとっての「いいね!」を探す旅なのかも知れませんね……と言うのは置いといて。

自分が選んでいる受動的なメディアと言うのは恐らく、今まで見た範囲で一番「いいね!」の確率が高いものなんじゃないだろうか。情報はこれからも増え続けるし、それを色んな軸で整理するメディアもまた増え続ける。キュレーションが進む世界と言うのは、その編集される軸が増えていくと言うことでしょう。だとするとこれから現れるのは、自分の中の「いいね!」軸みたいなものを見つけるためのものだったり、「結構いいね。。」と思えるメディアを「超いいね!」に変えていける仕組み(集める仕組み?改変する仕組み?)なのかもなぁ、と思います。facebookのタイムラインが自動的に友達や投稿内容を選別してタイムラインに表示してくれるのは、今の時代の最たるキュレーションじゃないのかな。「ユーザーを選び、コンテンツの編集軸を選ぶ自分」と「機械的な仕組みで好きな軸を選んでくれるFacebook」、この2つがあってFacebookは受動的なメディアとして成長を続けているのだと思う。


世界をそういう風に捉えた上で新しく受動的なメディアを作るとしたら、どんなものがいいんだろう。

2012-03-12

[]人間が必要とする情報は3種類くらいしか無いのかも知れない

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キュレーションシリーズその2。自分が必要とする情報の種類について。以下の記事も併せてご覧下さいまし。


必要な情報、不要な情報

自分が必要な情報(取り入れたいと思う情報)は、MECEじゃないけど以下の3つくらいしか無い気がしています。

  1. 好きなもの
  2. (好きでもないけど)関係があるもの
  3. 必要なもの

1.好きなもの

これが一番多いんだろうな。好きなものや、こと。興味があるもの。

  • 興味のある人の情報(友達や、有名人のfacebookとかtwitterとか、あとはメールしたり、手紙書いたり。)
  • 好きなジャンルのニュースとか
  • 来月ついにハンターハンターの30巻が発売されるらしい!とか

2.(好きでもないけど)関係があるもの

そんなに好きなわけでも無いけど、関係があるから知っておきたい、と言うようなもの。

  • 職場や会社に関係する情報
  • 住んでる地域に関係する情報
  • 国や自治体の制度に関係する情報
  • あんまり親しくない友達の近況、とか

3.必要なもの

必要に駆られて情報を得ようとするもの。

  • 明日の会議って何時からだっけ?
  • トイレットペーパー切れてたし買わなきゃ。。
  • あれ、なんで彼女怒ってんだろ…

逆に不要な情報って?

そのまま、上記以外全てじゃないのかな。誤解を招きそうな言い方しますが、、誰かの友達の友達の友達に何が起こっていようが、遠くの会社で何が起こっていようが、例えば地球の裏側でどんなに悲しいことが起こっていようが、多くの人には関係が無いし興味も無いから、積極的にそのことを知ろうとはしない。端的に言うと「どうでもいい」(無関心)状態になるのがフツウだと思います。

無意識に選びまくる人々

例えばソーシャルネットワーク上であっても、そこで「好きか、どうでもいいか」の判別は無意識に行っているはずです。フォロー数が増えてくると、当然のことながら全ては読めないから選別することになります。多分基準は上記と同じで、好きな人(読みたいツイートが多い人、自分と近しい人、知っておきたい人、など)を中心に読んで、それ以外はそもそも読んでない、気がします。きっと僕のツイートも、不要な人には読まれないし、そもそも表示されなくなっていくはず。

自分も含めて、人は「自分が結構好きなメディア」(ここでは情報源って意味)の中から、更に好きなものだけ取り出して消費/消化しているのだと思うし、今も昔もそれは変わらないんじゃないだろうか。

自分にとって必要なメディア

以上のことを前提とした上で、人はどういう情報源から情報を得ようとし、実際に得ているんだろう。多分、メディアを選ぶ軸は「自分がそれを好きかどうか」しかない。例えば以下の感じ。

  • 友達が何してるか知りたい → twitterとかFacebook見る
  • 政治や経済の新しい動きを知っておきたい → いわゆるニュースメディア。ニュースポータルだったり新聞だったり
  • 好きな芸能人のことが知りたい → 芸能ニュースとか写真週刊誌とか
  • なんでもいいからとりあえず適当に見たい → とりあえず家に帰ったらTVつける
  • 明日銀座で飲み会だけどいいお店ないかな → 食べログで調べてみよう
  • 新しいガンプラとかゲーム出てないか知りたい → 隔週くらいで必ずアキバのヨドバシに行く (←僕です。)
  • ○○について知りたいな → とりあえずググる

「○○したい」時にそのメディアを選んでいるのは、自分がその軸においてそのメディアを信用しているからですね。「食べログで点数高いんだから、ここなら間違いないでしょ。」「googleで上に出て来てるってことは、多分これだろうな。」みたいな。

まとめ。これから必要になるメディア

情報は、言うまでもなく増え続けているし今後もそれは加速していくのは間違いない。人間は確実に増えているし、そのための手段も増え続けるから。だったら必要になるものはきっと「自分に必要なメディアを選ぶことの出来るメディア」なんじゃないだろうか。必要な情報源、単一の情報ではなくその情報の選択軸そのものを得られるもの。究極的には自分に必要な情報だけが集まる「自分軸メディア」として成立するのかも知れない。

その未来の形は分からないけど、自分を中心とした関係性や興味をベースにして情報や人をキュレーション出来ているfacebookは、今その一番先を進んでいるのは間違いないと思う。佐々木俊尚氏の「レイヤー化するメディア」の話も、そういうことじゃないかなと思ってます。


自分軸メディアの姿を想像する前に、次は一度、受動的なメディアと能動的なメディアについて考えたい。なぜ人はテレビを見続けるのか?なぜgoogleは使い続けられるのか?

2012-03-06

[]キュレーションとはただの「まとめ」なのか?

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珍しく画像とか貼っちゃったり。いま仕事で扱っていることもあり、人の情報取得行動について興味があります。その中で今更だけど「キュレーション」について考えてみたい。

キュレーション?

定義は色々ありますが、よく日本語に直されるのは「まとめ」ですね。

世の中にある情報を整理して、まとめる。まとめることによって文脈を持たせ、個々の情報源単体では持てなかった価値を出す。それがキュレーションの持つ意義だと思う。例えば「銀座で会社の飲み会の2次会として使える駅から近い店」と言う良いまとめ記事があれば、それはホットペッパーや食べログの「銀座 2次会」と言う検索結果よりもきっと有意義なものになるはず。

キュレーションサイトの例

メジャーなものとして以下の3つを挙げておきます。

それぞれの詳細や他との違いは今度書くとして、とりあえず「世の中のどこかの情報をまとめて1ページで見せる」と言う意味では同じです。

「まとめ」と「編集」

列挙するだけなら「まとめ」と言う言葉がしっくり来るのですが、そこに考察や注釈を加えると「編集」と言う言葉の方が個人的にはしっくり来る。例えばhotpepperと言う雑誌がありましたが、あれって結局ただのお店の広告のまとめなわけで。ただ「エリア」や「合コンに使えるモテ店特集」みたいな軸があったり、同じフォーマットで横並びで比較できると言うこと自体を「価値」化出来ているから事業として成立しているし、多くのユーザーもいるのですよね。

上記のようなサイトは「まとめる」ためのプラットフォームであり、ただ便利な編集作業ツールや換金化ツール、閲覧者数を担保してくれるものです(それらが大きな意味を持ってはいますが)。情報を「まとめる」作業自体は本来別に個人のブログでも出来るしtwitterに書いたっていい。

キュレーションサイトがほんとにただ「まとめる」だけなのであればそれほど価値は無い気がする。「まとめるための軸」だったり、そこに加える個人の編集観点こそが、ただの検索エンジンや機械を越えた「価値」の源泉で、機械にはカバー出来ないニーズに対する答えやユーザへの見せ方をどれだけサポート出来るかこそがキュレーションサイトが今後持つ価値だと思う。

新聞や雑誌や、Webポータルやソーシャルメディアもキュレーションサイト

だいぶ前の記事ですが、佐々木俊尚氏の以下の記事の「キュレーション・ジャーナリズム」と言う単語がまさにそうかなと。

大雑把に言うと報道メディアには、世の中の事件や政治経済の動き・専門家への取材などをする役割(記者)と、それを伝える(編集者)の役割があると思う。新聞や雑誌、TVなんかは両者の動きを担ってますが、Webのメディアは後者の機能だけを持っていると言えますね。例えば朝日新聞を購読している人は、朝日という軸で切り取って世の中を見ること自体に価値を感じていて、フジテレビを見る人は同じくフジTVの切り口に価値を感じているのでしょう(だと思う。)同様にソーシャルメディアでURLやトピックを個人が「つぶやく」のは、それ自体が「編集」でありキュレーションで、「その人という軸」に価値を感じている人がそれを見る。と言う意味で、キュレーション自体がジャーナリズムとしての役割を既に持っている、というわけです。

人が求めるキュレーションとは

検索サイトやポータルサイト、ブログ、Webメディアなどにはみんな「キュレーション軸」とでも呼ぶべき編集方針があって、それが信頼を得て初めてメディアとしての価値を成していくのだと思う。食べログには「エリアとジャンルを入れると口コミで人気のおいしいお店が出る軸」があって、googleには「キーワードを入れると一番いいのが来る軸」がある。人がメディアを選ぶときに求めているのは、自分が信頼するに足る「軸」そのものなのだと思う。ソーシャルメディアの場合は人そのものが軸になり、「やっぱグルメならあの人が書いてる店にいくのがいいよね」とか「アキバならあいつが言ってるメイド喫茶がいい」とかそういう感じ。

そう考えるとキュレーションサイトの持つ価値は「検索エンジンやランキングサイトで上位に表示させられるコンテンツを作りやすい」と言うのが価値なのかも(=まとめやすい、個人という軸で人の信頼を得やすい)。

キュレーションのまとめの先

上にも書いたように、まとめるだけなら既存のブログにしろTwitterにしろそういうプラットフォームとさほど違いは無いように思う。今の検索で補えないニーズをどうカバー出来るか、個人の編集による価値をうまく他のユーザーのニーズと結び付けるか、それがキュレーションサイトの価値になっていく気がする。例えば検索されたロングテールのワードで全くコンバージョン出来なかったものに対して記事を書いていくことが出来て、ちゃんとその人のニーズにマッチさせる仕組みが出来たりとか、するんじゃないかなぁ。

ただ「キュレーション」でググってもさほど新しい記事が無いことを見ると、この言葉自体は意外と流行ってないというか一過性なのかも…と思ってしまう…。まぁ、それでも個人が情報を発信するWeb2.0の世界は進み続けるし、どんな呼び名であり止まりはしないだろうな。


個人の発信の究極の形と、最適なone to oneメディアの形って、どんなのだろう。そういうことを考えたい。