マントラプリの生涯原液35度 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-01-19 スリップストリームアタック このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ガールズ&パンツァー劇場版終盤で結成された、レオポンさんチームのツチヤ、黒森峰のエリカ、プラウダのカチューシャによるスリップストリームアタックの図。

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しかし、ツチヤ(キュアベリー)、エリカ(キュアハート)、カチューシャ(キュアピース)と、プリキュア3人によるアタックでありながら、大学選抜の3人の一角しか崩せなかったところに、相手の強さを感じますね。同時に西住流の姉妹は大学選抜2人+愛里寿無双を跳ね返したことを見ると、高校生の中でも別格の強さなんだろうなあ…と。

(下書)

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(人物だけの色つけ)

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2016-01-14

常陸国大洗社にて神仏奇瑞を顕すの語 常陸国大洗社にて神仏奇瑞を顕すの語を含むブックマーク 常陸国大洗社にて神仏奇瑞を顕すの語のブックマークコメント

今は昔、常陸国*1大洗磯前宮と云ふ社あり。村人、社頭に市を成し、よろずの海のものを商ふ。懇ろに神に仕え朝夕社に詣でける。

或時、尋常の風体に非ざる者等、数多具して来たり。街区に満ち、辻辻、郷舎を指して相哄笑す。霊地に非ざる処を頻に拝み騒ぐ故、村人怪しみて之に問はば、「がるぱん善きぞ」とのみ答ふ。又社に参りては傍に木版を頻りに打ち付け、五色の彩にて異境の兵具を備えし端正美麗の女衆を描けり。

常人とは異なる様なれども、海の産物を供すれば巨多の銭貨にて報いる故、村人之をがるぱんさんと号し、来る毎に饗応す。

其後、村人、国厨*2へと魚酒を貢ずることあり。然るに国司「当郡*3の贄既に到れり、重ねて持ち来るに及ばず」と云ひてえ取らじ。村人奇しく思ひて、府蔵の内を伺えば、果たして贄の魚は嘗てがるぱんさんに捧げしものにやあらん。

旧紀に曰く磯前宮は田邑帝*4の御代に少彦名神本地仏、薬師大菩薩*5が顕現せし地なり。神仏を厚く憑み奉るによりて霊験再び現れたるやと近郷の者は語りき。更に大洗社の別宮・酒列宮*6の名は海龍王さから*7の音転じたるもの*8なれば、端正美麗の女衆の画は竜女を描きしものか。此の如き話は唐土の外典*9にも見えたり。

また或人云はく、常陸は慈覚大師*10東巡の地なれば、女衆は竜女には非ず、法華経外護の十羅刹女*11なりと。受持読誦の徳に応じて眷属を遣す。鬼女なれば、併せて弓箭砲雷を描き出すこともあらんとぞ。がるぱんさんは神仏何れの顕現やと聖俗交々語れども、終に分明ならず。

常陸国主、稀有の事にて之を国解*12申上す。上又此を賞し、更に三年の税を免ず。村人辻々及び岬の大塔に女衆の尊像を祀り食堂を設け、市の傍らにはがるぱん堂を建て、弥々懇ろに供養しける。

末法以後の本朝に於て神仏交々瑞応を顕す、まこと奇しきことなりとなむ語り伝えたるとや。


〈現代語訳〉

茨城県大洗磯前神社に神仏の奇跡が起こる話

昔、常陸国茨城県)に大洗磯崎神社という社があった。村人は社の前に市を出して、海産物を商って暮らしていた。神への崇敬厚く、朝夕お参りを欠かさなかった。

ある時、ただならぬ姿形のもの共が大勢でやって来た。彼らは街に満ち、何もない道端や家を指差して互いに笑あっている。(聖地巡礼)村人は怪しんで声をかけるが「ガルパンはいいぞ」としか答えない。彼らは神社に参ると板絵を奉納する、そこには五色の彩(コピックマーカー)による兵器を持った異国の風体の女たちが描かれていた。(痛絵馬

ここら辺にはいない人々だが、海産物を与えれば多く銭を出して買ってくれるので、村人は彼らをガルパンさんと呼んで、大洗に来るたびに迎え入れた。

その後、村人は常陸国府の御厨に税の魚を納めに行った。しかし役人が言うには「大洗からの税はすでに貰っている。度々持ってくる必要はない」とのこと。不思議に思って蔵の中を見せてもらうと、納められた海産物ガルパンさんたちに与えのと全く同じものであった。(ふるさと納税1億円)

九世紀の国史文徳天皇実録には文徳天皇の御代に大洗少彦名神本地仏である薬師菩薩が現れたと記されている。村人が神を厚く尊ぶので霊験が再び現れたのだろうと近隣住民は語りあった。

さらに磯崎神社の別宮・酒列磯崎神社はサカラ竜王の名から採られたものなので、絵馬の女性の姿は竜宮の女官を描いたものか。このような話は唐代の伝奇小説にも見られる。

ある人が言うには常陸国は慈覚大師・円仁が巡礼した土地なので、絵馬の女は竜女ではなく天台宗の根本教典・法華経を護る十羅刹女で、法華経信仰する功徳によって眷属を遣わされたのだ。

羅刹という鬼の女であるから、弓矢や砲雷を共に描いているのだろうと。このようにガルパンさんは神仏いずれの遣いであろうかと僧侶や俗人は様々に語り合ったが、最期まで分からなかった。

当時の常陸介(県知事)は世にも珍しいこととこれを中央に申し上げた。帝はこれにいたく感じ、三年の税を免じた。(観光庁による奨励賞受賞) 

村人は町中や岬の大塔(マリンタワー)に女の似姿を飾り、ガルパンさんのための食堂(ガルパンカフェ)を設け、市(プレミアムアウトレット)の傍にがるぱん堂(ガルパンギャラリー)を建てて、彼らを歓迎した。

末法以後千年近い日本において、神仏が混ざり合って顕現する。本当に有難いことだと語り伝えたとのことだ。

*1:律令国家の行政単位。神亀年間に信太・河内・筑波・白壁・新治・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂等の諸郡となる。本説話の舞台である大洗茨城郡に属す

*2国府に関連する食糧施設。大洗からの税は京進の贄としてもよかったが、史料がなかったため、ここでは国府経営のための食料を上進する税とした

*3茨城郡。前出

*4文徳天皇。八五〇―五八在位。仁明天皇の第一皇子

*5:9世紀を中心に信仰された菩薩形をとる薬師如来神仏習合象徴的な仏とされ、太秦広隆寺にもこの姿をかたどった像が残っている。延喜式に載る磯前神社の正式名は大洗礒前薬師菩薩神社

*6酒列磯前神社。斉衡三年(八五六)に同じく顕現した

*7:娑竭羅竜王八大竜王や、観音二十八部衆の一人。護法の竜神で請雨法の本尊。娑竭竜王とも。

*8:たしか五来重が言ってた

*9:中唐の伝奇小説である柳毅伝などに見える人龍交流の説話を指すか

*10天台宗山門派の祖・円仁のこと。茨城県内には承和寺など円仁創建と伝わる寺院が残る

*11法華経陀羅尼品に説く法華経読誦するものを守護する鬼神。

*12平安時代から中世初頭にかけて下級の者が上申する際に用いた文書様式・解文の一種。国情や奇瑞などの報告として、諸国から太政官へと送られる

2015-01-25

彼と我の落差について 彼と我の落差についてを含むブックマーク 彼と我の落差についてのブックマークコメント

彼と我の落差は埋める必要がない。

そのために家族がいて、同心円状の身内や友人がいる。

彼らに救いを求められないときに、人は「越境」する。

そして越境者として、外側からものを語る。

そうして、内と外の境界がなくなっていき、外の言説のために、内を圧迫するようになる。

忠孝が並び立たないという、中国四千年の課題は実はこの齟齬にあり、公と私の乖離もそこにある。

現代の乖離とは、私の最も奥の部分が、そのまま、公へとアクセスできるとの「勘違い」にある。

しかし、彼らが繋がる公は公ではない。

その都度消費される私でも公でもない、さりとて見かけは公に見える空間によって我々は消費されている。自分が消費の主体であるという錯覚のまま、この公と私の曖昧模糊とした怪物の餌となっている。

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2015-01-24

ああ杜牧 ああ杜牧を含むブックマーク ああ杜牧のブックマークコメント

ああ、杜牧。

君、嘗て得たり薄幸の浮名。

浮名、ふわと揚州を出でて、

天明、何処へ去り行かん。

ああ、杜牧。

君、唐朝に引く手数多。

牛李共に君を愛し、

影ながら守り、要路へ導く。

ああ、杜牧。

君、歴史を語る。

いつか還る、いつか繰り返すその日を、

ああ、君よ、

ああ、杜牧。

君がもし、

君が言うよな歴史なら。

君は立つのか、

今も立つのか、

四百八十寺、

煙雨の内に、朦々と。

華厳経 華厳経を含むブックマーク 華厳経のブックマークコメント

いちの中にひゃくせんまんおくがあり、

ひゃくせんまんおくの中に、一がある。

ならば知れ。

この小刀のきっさきの、

その先端の、さきのさき。

ひゃくせんまんおくのなかのいちの、

そのなかのひゃくせんまんおくの、

さらにそのなかの、

中の、

なかの、

中のなか。

そこまでいけば、

そこから見れば、

きっとこの世は

きりとりほうだい。

どうも蓋 どうも蓋を含むブックマーク どうも蓋のブックマークコメント

心は掛かるこの蓋よりぞ、

溢れ出もすれ、締まりもすれ。

なら常在の心は何処?

滔滔垂れ溢る情なりや、

きりりと締める我なりや。

有情非情も共に情、

ここにありてやここになし、

ああ、蓋。ああ蓋よ。

君のみが常に隣り合う、

君のみが情の可触民。

どうも、蓋。

しかり、蓋。

君こそが、あに、心ならんや。

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2014-08-25 「咲-Saki-」の先進性について ―フレームバトルという概念― このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

どうもです。

実は私、mantrapriは漢詩を少々やっておりましてですね、そんな時、ふと思ったのです。

漢詩麻雀って共通点多いな、と。

2、3区切りであること、平仄、通韻など、役を作る為の縛りがあること、牌をそろえるように詞を集めていくことなどなど。

なので、麻雀に近い楽しみ方で漢詩のルールを覚えられる「漢詩麻雀」なるものが作れれば、漢詩がもっと身近なものになるかもと思い、まったく不案内なのですが、麻雀を勉強することにしました。

――「咲-Saki-」を、使って。*1

で、全巻を読んで、この漫画がまったく新しいバトル形式で描かれていることに気づいたのですね。そう、この漫画には、「フレームバトル」とでもいうべきシステムによって貫かれているのです。今回はこの先進性について、話してみたいと思います。

まず、フレームバトルとは何か、ということを説明します。咲-Saki-というマンガは基本、先鋒から大将の五人試合で展開します。点数は持ち越され、大将戦後の点数で勝敗が決定します。それだけなら、よくあるトーナメント戦マンガと同じですが、咲の独創的な部分は、以下の三点。

  1. 先鋒〜大将のオーダーは変更なしで固定
  2. それぞれのキャラのファイトスタイルを固定
  3. ファイトスタイルに対する相手の反応で敵キャラの個性を描く

この漫画、主人公チームのオーダは固定されています。これによって、次の試合、その次の試合で、前回のバトルとの比較がしやすくなります。

さらに主人公チームの五人にはそれぞれ。特殊技能というか、戦闘スタイルがあり、卓を囲む残り三チームの三人も、その能力と対比、反応するような能力をもつキャラとして描かれます。

こういう構造は既存の少年漫画にも共通します。しかし咲の面白いところは、主人公チームの特殊技能が「場」に対して作用するということです。

そう、咲というマンガは主人公たちのファイトスタイル(フレーム)を通して、残り三人の個性を、翻っては主人公たちを浮かび上がらせるのです。

先鋒・片岡優希・・・前半戦でのスパート、後半戦での減速

次鋒・染谷まこ・・・場全体の形、流れ、雰囲気を読む。

中堅・竹井久・・・悪手、行儀の悪い打ち方、オカルト肯定(奇)

副将・原村和・・・コンピューター麻雀オカルト否定、空気が読めない(正)

大将・宮永咲・・・場を囲む全員が底上げされる、オカルト「越え」

この戦闘スタイルに対比するようにそれぞれの敵チームが描かれ、それも1対1のバトルではなく、四人バトルなので、戦闘スタイルへの対応や複線の張り方、発動の仕方は千差万別になるわけです。

これは既存の麻雀マンガでもそうなのでしょうが、咲-saki-の場合はオーダーを固定して、同じ順番でそれぞれのファイトスタイルを一貫して見せ続ける「フレーム」があるので、その効果とキャラの個性、役割付けの効果は倍増しされます。

さらに、敵チーム、味方チームとも試合選手以外は、モニターで全部の手牌が見れるので、それに対するコメントが、試合していない人間にもでき、そこで各キャラが敵味方問わず解説役となり、キャラの個性と、フレームを強化していく。

さらにこの「フレーム」が面白いのは、大将へと場が進むにしたがって、「勘」や「流れ」がどんどんオカルト濃度が高いものへ、つまり「魔」が場を支配するようになっていく。

先鋒、次鋒、中堅までは比較的大人しい魔が、副将、大将戦で牙をむいてくるのです。

副将の和はコンピューター麻雀によって魔を無視することはできますが、「魔がある」ということを認識して、それと戦うことはできません。だから全国大会二回戦では魔を認識できる三人の蚊帳の外に置かれてしまいます。

そして大将の咲は自身が最大の「魔」でありながら、魔をうち倒し、場を通常の世界へと戻す役割を持ちます。

たとえば天江衣戦では、咲含む三人で協力し、魔の空間を打ち消して皆で打つ麻雀空間へと、回帰させる。

全国大会二回戦では、北と南の魔に囲まれながら、それを打ち倒し、あまつさえ凡人代表の姫松高校の末原を「もっとも強い人が残ってしまった、次は勝てません」と一番評価する。

この作品における「魔」とは、己でない「慮外の力」によって麻雀を打つこと、打たされること。咲は自身がその力の持ち主でありながら、結果その力に支配された場を「否定」し、「皆で楽しむ」戦いを、する。

それが点差0で進む力、場をイーブンにするという咲の、「魔」にして「和」(わ)の力、なのだと、思います。

咲という物語において主人公たちはフレーム。オーダーの変更がなく、順列に物語が進むことで、同キャラの次回戦が、前回のパターンを踏まえているか、外すか、正か奇かという「読み」の楽しみにもつながってきます。

主人公たちが各々別のフレームを持つことによって、同じ麻雀漫画でありながら、試合ごとに全く違う景色が広がる。

正攻法のバトルか、オカルトバトルか、ノンオカルトバトルか、オカルトバトルの中に独りだけ正攻法か、オカルトバトルをみんなで「越えて」いくバトルか?

試合が繰り出され、何重にもそれぞれのバトルが重なるにつれて、フレームの中で、裏を見せ、新しい展開を呼び、さまざまなテクニックが駆使され、蓄積されていく。

この「フレームバトル」の概念の創出、まったく見事としか言いようがありません。

テニプリやこの作品のように、勝敗による順列ではなく、「場」によってキャラクターを深化させることに注力する漫画こそ、まったく新しい、これからのスタイル。こんな新しいシステムの漫画が、もっともっと、増えてほしい。

*1:何故、咲か。まあ、ぶっちゃけると、かんむりとかげさんの同人誌があんまりにも素晴らしかったの原作が読みたくなった

2014-08-08

思い出のマーニーを見て2 〜約束を作るための道〜 思い出のマーニーを見て2 〜約束を作るための道〜を含むブックマーク 思い出のマーニーを見て2 〜約束を作るための道〜のブックマークコメント

さて、1の続きです。

昨日の記事では、杏奈が「約束を作れない子」であることを、述べました。今日は、彼女の本編における道のりと、「約束を作れる子」になるまでをお話しします。

2.精緻なシナリオと、「約束を作る」までの道

本作は、とても精緻なシナリオで作られていると、私は思います。

こう言うと、「えー、原作があるんだから。シナリオが精緻というより、原作が精緻なんでしょう?」という疑問を抱かれる方もいるかもしれません。

半分はその通り、素晴らしい原作があってこその映画版「思い出のマーニー」です。

しかし、もう半分。ヒロイン杏奈という「約束を作れない子」をどう救うか?人と分かり合えない子を、殻を作る子に対して、どのような方法をとるか?という「救いのアプローチ」については…

…映画の方が、原作よりも、上です。

そしてこの点、杏奈を救うという一点にこそ、シナリオの命題は絞られていて、精緻にその過程が、織り成されているのです。

さて、杏奈が「約束を作れる子」になっていく過程、その話を追うにあたって、

プラクティス:杏奈自身による実践

アシスト:周囲による保護、手助け

この二つの用語を使いますので、記憶におとどめ置きください。

1.第一のアシスト・大岩夫妻

約束を作れない少女・杏奈は、医師の勧めもあって住まいの札幌から、道内の田舎へ療養に向かいます。そこで彼女のステイ先になるのが、養母の親類の大岩夫妻なのですが、彼らの存在こそが杏奈にとっての第一のアシストなのです。

この二人は物事を気にしない性格で、車も汚れっぱなし、部屋も行動も好き勝手です。でも、彼、彼女たちは杏奈や養母にはない、あるものをもっていました。

それは相手を放任できる「心の容量」です。

例えば杏奈が地元の子ノブ子と喧嘩をし、親が怒鳴り込んで来た時も、夫妻は杏奈を問いただしたりしませんでした。これだけなら主人公を守る、「よくいる身内」ですが、その後も杏奈が街中で眠っていたり、夜中に抜け出したり、いろいろな不審な行動をしますが、彼らは問いたださない。いつも上機嫌。

決して鈍感なわけではありません。その証拠に、物語終盤、養母が杏奈を迎えに来た時「今度は電話をかけるのを我慢できたね」と、労いの言葉をかけているのです。

そう、大岩夫妻は、上機嫌で、何も考えていないように見えながら、巧みに杏奈が「干渉を感じない距離」を保っているのです。

これ、口で言うのは簡単です。しかし、連日不審な行動を取る杏奈を何も言わず、何も干渉せず、ただ上機嫌であり続けるのは相当難しい。

でも夫婦は杏奈のために、「約束を作れない子」のために、快適な家を、善意でも、悪意でも、無意識においても「約束を強要されない空間」を、維持し続けていたのです。この第1のアシストがあってこそ、杏奈は次のフェイズへ向かうことができるのです。

2.第二のアシスト、第一のプラクティス・十一との出会い

大岩夫妻のおかげで、新しい環境に定着できた杏奈。しかし彼女はまだ自分から他者にアプローチしようなんて考えもしない。そこに第二のアシストである十一(といち)が現れます。

彼は無口な漁師で、杏奈を船に乗せてくれます。普段他人との約束を作れない、干渉を拒絶する杏奈も十一にはその拒否反応を示しません。何故なら、彼はこちらに語りかけてこない。無言でいるから。

会釈でなんとなく通じ、無言でなんとなくその場に居られる。お互いに会話なしで過ごせることで、杏奈の約束を恐る心も反応せず、共にいることができる。

この「言語を介さない交流」によって、杏奈の人間全般に対する不審はすこし、和らぎます。

そう、杏奈はここで、無言でありながら相手にアプローチして、船に乗せてもらっている。十一との交流は杏奈へのアシストであり、かつ、杏奈自身のプラクティスでもあるのです。

3.七夕の事件

順調だった杏奈の新しい生活にも、ヒビが入ります、そう、「約束を作られてしまった」せいで…。

ノブ子とその友達たちと七夕祭に行くことになる杏奈。彼らから繰り出される会話のパス、そのいずれもが「不安の種」であり、危険な「約束」の数々なのです。

そして、うかつにも短冊に願いを書いてしまったことで、杏奈はノブ子に会話を持ちかけられてしまいます。そこで「ふとっちょブタ」と罵って、逃げ出す。約束への恐怖から、恐れ予兆から、自らがその恐れを振りまく存在になってしまう。

「あんたは、見かけ通りの顔をしている」ノブ子のその言葉は正しい。

杏奈は、養母を避けたように、ノブ子を突き飛ばしたように「約束」の果てにある「裏切り」を恐れるあまりに、自分から先に相手を「裏切り」続けていく。

せっかく好転しかけていた環境が、また暗いものへ、元の約束を作れない杏奈、いやそれよりももっと恐ろしいものになろうとする時に―

――マーニーが、現れるのです。

4.第三のアシスト、第二のプラクティス・マーニーとの出会い

屋敷に向かって船を漕ぎ出す杏奈の前に、マーニーが現れます。彼女は矢継ぎ早に杏奈と心を通わせてしまいます。

他者とのコミュニケーションを嫌がっていた杏奈が、マーニーに心を溶かされ、彼女と三つの質問を交わすまでになります。

そう、あれほど約束を恐れていた杏奈が、約束にもっとも近い「質問」まで踏み込めてしまう。

ここでミソなのが、質問が「三つ」と、数字で示されたことです。数字という限界を切られることで、三回の質問という結末が示されていることで、杏奈は落ち着いて言葉を交わすことができる。有限を示されることで、無限から不安を持ってくる必要がないから。

こうして、杏奈はまた一つ階段を上ることができました。会話を交わして、「応酬」する。

その相手がたとえ、自分の約束の根源を司る存在・マーニーだったとしても、杏奈は、自分の手で、知らないうちに一歩先にいくことができました。

5.第三のプラクティス・喪失の予感

マーニーと知り合ううちに、杏奈は彼女が現実の存在ではないかもという思いを強くしていきます。

マーニーはそんな杏奈に言い続けます。「私を探して」と。

これは三つの質問とは違う。明日も、明後日も、場合によってはずっと続くかもしれない「約束」。

しかし、杏奈はマーニーのことが大好きになっていたので、約束に躊躇せず、踏み込みます。そう、いつのまにか、マーニーとの日々で、杏奈は「約束が作れる人間」になっていたのです。

でも、これで完成ではありません。彼女はあくまでかりそめの存在、杏奈がほんとうに約束を作れる人間になるためには、今を生きる人たちと、正面から向き合う必要があるのです。

6.第四のアシスト、第四のプラクティス・彩香

約束を残してマーニーは消えてしまい。湿っ地屋敷にも新しい住人がやってきます。それが杏奈よりも年下の少女・彩香です。

彼女は当初、杏奈をマーニーと勘違いしています。しかしその誤解が解けた後は二人でマーニーの謎に迫ろうとするのです。

ここで驚くべきことに杏奈は積極的に彩香との関係を築こうとします。それもそのはず、彼女はマーニーに繋がる手がかりを持っているから。そう、マーニーという存在を媒介にして、杏奈はまたひとつ約束を結び、先に踏み出すことができたのです。そう、今度は現実の人間と、自分から。

自分より年下の女の子、しかも相手はとても良い子で、会話も積極的に振ってくれる。そういう条件のもとでですが、約束を忌避していた杏奈は、ここまで来れました。

実は、原作のストーリーはここからすこし違います。マーニーが完全に退場した後で、彩香(と同じ役割をする少女)が現れるのです。映画の脚本では、あえてマーニーと少女を並列に存在させることで、さらに深く「約束ができない」杏奈の問題と、その解決を描いていきます。

そしてここで、アシストの段階は終わり。杏奈は今までいろいろな人から、本人は知らずにもらってきたアシストを使い、現実と、人々との「約束」のプラクティスを積み重ねていくのです。

ーーそう、ここからが杏奈の、折り返し。

7.第五のプラクティス・相手との約束を守りつづける

杏奈はマーニーを探し続けます。約束を守るために。そう、前の三つだけの質問とは違い、杏奈はマーニーを探し続ける。そういう「長い約束」もできるようになっているのです。

そして、再び現れるマーニー。彼女たちは森の中でお互いの苦しかったこと、嫌なことを打ち明けあいます。約束だけじゃない。今まで人と約束ができなかった「弱さ」の根源まで打ち明けられるようになった。

そう、それまでマーニーに先導される側だった杏奈も、もうすっかりマーニーと同じ立場になっています。そこで二人は、思わず言います。

「私たち、入れ替わったみたい」

入れ替わったようで、実はちがう。

彼女たちは入れ替わったのではなく、「統合されつつ」あるのです。

8.第六のプラクティス・相手の弱いところを触る、相手との約束を断る

そして、すっかり同じ立場になった杏奈はマーニーに言います。あなたが恐れているサイロに行ってみよう、と。

自分のトラウマどころか、身の回りに関することにすら触れて欲しくなかった杏奈が、マーニーのそういうところに触れる。それも、相手のことを思って、あえて、背中を押す。

そして二人がサイロに向かって歩いていく中、彩香はマーニーの手がかりをつかんだと、杏奈を誘います。でも、彼女はそれを断る。

そう、約束をしないのは拒絶がいやだから、拒絶されないため武装していた彼女が、相手に断りの言葉を、何気なくかけることに成功している。本人はマーニーを追うことに夢中で、そのことに気づいていませんでしたが。

…そこまでして、追い求めたマーニーに、杏奈は裏切られてしまいます。杏奈は一人、サイロに置き去りにされてしまったのです。そして、これが、最期のプラクティス

9.第七のプラクティス・他者の約束破りを赦す

杏奈は、怒っていました。

あれだけ信じて、背中を押して、助けにすらいったマーニーに裏切られた、許せない。相手がなんと言おうとも。

…でも、もう無理です。杏奈がどんなに殻を作った気になろうが、自分はやはり一人なのだと思おうが、彼女はすでに、階段を上ってしまった。

大切な人を信じないでは、いられなくなってしまった。

だから、マーニーに「許してあげるって、言って」と問われた時、ためらいなく言う。

「もちろん許してあげる!大好きよマーニー」と。

そう、もう杏奈はマーニーを全身で受け入れてしまった。約束を作れない、前の自分には戻れない。好きな相手のためなら、自分が愛そうと思った相手のためなら、何度でも約束をする。それがたとえ裏切られても、何度も、何度でも。

そうやって、杏奈とマーニーは別れていくのです。別れることが、できたのです。

約束をすること、約束を打ち消すこと、約束を打ち消されること、それを許すこと。その繰り返しによって、人は強くなれるし、人を信じられるようになる。

原作は杏奈、マーニーのコミュニケーションの後に、周囲とのコミュニケーションの広がりを書きましたが、映画はこれらの進行をパラレルに描くことで、より杏奈が成長し、自分を、他人を許していく段階を鮮明にしているのです。

エピローグ・湿っ地屋敷という箱庭

マーニーとの出会いと別れによって、杏奈から「約束を作る」ことへの恐れが消えました。

だから彼女は約束をします。養母がお金を受け取ったことも、気にしてないと言い、彩香にもまた会おうと言い、そして、マーニーの真実を知ります。

そう、すべては自分の記憶が、祖母との思い出が作ったものでした。そして、それは生まれた時からの「約束」だったのです。

彼女は祖母との思い出という「約束」に守られ、愛されていた。そう、湿っ地屋敷は箱庭。彼女が自分との、自分の中のマーニーと対話し、約束をして、承認しあい、自分を許すための、箱庭だったのです。

だから、マーニーを許して、愛した杏奈は、無条件に自分を許し、愛することができる。約束ができる。

…だから、彼女は最期に「外側」に行きます。

ふとっちょブタと言って逃げた、ノブ子へと頭を下げます。そしてノブ子から「来年の約束」を、受けとるのです。

…彼女と仲良くなれるかは分からない、…ここで来年もうまく過ごせるかはわからない、

でも、杏奈は長い長い殻を抜けて、ここに到達した。ここまで来れた。だから、大丈夫。これからも、きっと。


すべての「約束が作れない」多くの子供たちに、私に、希望を与えてくれた。

…そういう希望の物語に、ただ、ただ、感謝を。

2014-08-07

思い出のマーニーを見て1 〜約束を「作れない」子供たちに〜 思い出のマーニーを見て1  〜約束を「作れない」子供たちに〜を含むブックマーク 思い出のマーニーを見て1  〜約束を「作れない」子供たちに〜のブックマークコメント

ジブリ映画「思い出のマーニー」、見てきました。とても、とてもよかった。

D

主人公・杏奈のキャラクター造型が、そして彼女のために与えられシナリオが、とても精緻で、大満足でした。

でも、ある部分を見逃してしまうと、この作品の真に汲み取って欲しいメッセージが伝わらずに、「ワガママな女の子が改心する話」とだけ受け取られてしまうかもしれない。

そこで、これだけは伝えたいなと思い、一年ぶりにブログの筆を執った次第。

私が一番伝えたいこと、それは…

…この世界には、約束を「作れない」子供がいる、ということ。


※ここからはネタバレ上等になります。また、語りも見た方前提のものが多いので、未見の方は、そっとブラウザをお閉じください…。


1.約束を「守れない」、ではなく「作れない」娘・杏奈

まず、最初に質問。この作品の主人公、杏奈を見て、皆さんはどう思いました?

無表情、周囲に壁を作る、精神が苦しくなると喘息の発作がでる、そのくせ、人を貶す言葉は出てくるし、愛のある養母に壁を作る、…なんだか、自分勝手な子。

そんな感想が出てくるかもしれません。事実、彼女は世界を「円の内側と外側」に分けて、自分と他者を線引きしています。

…でも、私は思いました。

彼女は内向的で、時に攻撃的で、傍若無人で、行動も意味不明、…でも、実は「ひとつの線」で、それらはつながる。

そう、彼女・杏奈は「約束が作れない子」なのではないか、と。

それが端的に見られるのが、彼女がおばに連れられて行くシーン。おばと相手の女性の会話の中で、「七夕祭りに娘と一緒にいったら」という意見が出た途端、彼女はそれを嫌がるそぶりを見せます。

さらに義母から書くように言われた手紙も、具体的な描写を少なめに、相手がそこから言葉を発展させない、足がかりにならなそうな言葉を綴って、送ります。

これらのシーンを見て浮かんだのが「約束を作れない子」なのではないか、ということでした。

このタイプの子は、約束を「守れない」子とは違います。

約束が守れない子は、人と約束をすること自体は躊躇しません。

その場しのぎのため、もしくはその時は本気で約束をします。しかし、その約束を自分の都合や、勝手な書き換えによって破ってしまいます。さらに、破ったことを誤魔化したり、自己正当化することを、繰り返す。

一方、約束が「作れない」子は、そもそも約束をしようとしません。何故か?「それが破られる予感があることにすら、耐えられないから」、「約束のもたらす、破綻のイメージが怖いから」なのです。

普通、約束をした段階ではそれが守られるか、破られるかは未定です。しかし、約束が作れない子は、約束を交わす段階で、破られるシーンを幻視してしまいます。そしてそのイメージに縛られ、約束そのものを忌避してしまう。

杏奈はそういう子として冒頭から描かれています。この映画のオープニング、彼女は美術の屋外写生で黙々と絵を描く。それを「見せてみろ」と言う教師。彼女はおずおずとスケッチブックを渡そうとするも、突然滑り台で子供が泣き出したので、そちらに気を取られる教師。そして、彼女はその中断にすら、拒絶を感じ、喘息の発作が出る。

…このシーンです。ここで教師は杏奈を無視したわけじゃない。ただ、子供が泣いた方に気を取られただけです。しかし彼女はそれすら「相手からの拒絶」として受け取ってしまう。そこからもう一度「絵を見てください」とは言えない。彼女の門は、そこで閉じる。

そう、彼女が約束を作れないのは、相手のそぶりに拒絶を感じてしまうから。たとえ、いや、たいていは、それは何気ない素振り。でも、彼女はそこに拒絶を感じる。少しの間、意思の中断、悪気のないイイエのサイン。それら全てに、「拒絶の予感」を見てしまうのです。

「そんな些細なことで」と思うかもしれません。でも、私には彼女の思いがよくわかります。私もまた、そうだったから、無意味に約束を恐れる人間だったから。

だから、彼女が義母を避ける理由もよくわかる。義母は、彼女を誰よりも愛しているが故に、彼女にかまってしまいます。愛を押し付けているわけではないけど、かまって、思わず泣いてしまう。

その「かまう」ことにも、杏奈は「約束」を感じる。だから、義母が構えば構うほど、そこに約束を感じて、裏切られる予兆を感じて、それが抑圧になって、彼女は引いてしまう。

義母では杏奈は救えなかった。それは愛がないからでも、押し付けているからでもなく、約束を作れない子、作りたくない杏奈の心性を知らなかったから。そして杏奈がなによりもそのことを、知られたくなかったから。

だから杏奈は理由を作ります。

義母は自分の養育費用を自治体から受け取っている、自分はお金に換算される存在なんだ、と。

物語中盤で出てくる「杏奈の思い」を言葉通りに受け取っては、彼女が「思春期独特の潔癖がこじれた子」としか、見えないかもしれません。事実はもう少し複雑だと私は思います。

杏奈は、理由を作りたがっているのです。「約束が作れないこと」をさらにこじらせて、「作られた約束は裏切られるべき」という、妄念へとシフトしかけていたのです。

お金を受け取っているのが許せないのではなく、本当はお金を受け取っていることを理由に「やっぱり義母もそういう人間なんだ」と思いたいのです。約束が作れない彼女、つまり、約束したら裏切られるから。ちょっとの拒絶も心が勝手に裏切りに感じてしまうから。

だから義母の約束も、長く長く自分に行われた約束も嘘に違いない。あのお金がその証拠だ、と。

…幸せな義母との関係が、お金の発見で破られたのではない。約束がいつまでも破られないことへの居心地の悪さを、逆にお金で説明しようとしているのです。

杏奈は約束が作れない子、すべての約束に破られる未来を見てしまう子、ついにはそれを恐れるあまり、自分を救おうとしてくれる人も「いつかきっと約束は破られる」という予兆と偏見で見てしまう子。

…この子を、「こじらせている、救われない子」というのは簡単です。でも、私はこの子の、杏奈の気持ちが分かる、痛いほどに。そう、私もまたそういう人間だったから、ずっと約束が怖かったから。

だから、彼女が他人には見えない。彼女が救われない限り、私だって救われない。

ーーでも、彼女は救われた。

奇跡でも、偶然でも、ご都合主義でもなく、一歩一歩、丁寧に丁寧に、彼女を、彼女と同じ境遇の子を救うすべを、過程を、この作品は描いてくれた。

だから、私はこの作品が、大好きになりました。

次回は「約束を作れない」杏奈をこの作品はどうやって救っていったかについて述べていきたいと思います。

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2014-08-05

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2013-11-19 さやかちゃん描いたので・・・ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

さやかちゃん描いたので置いておきますね。

f:id:mantrapri:20131119005625j:image:w360

いや〜、本当によかったわ〜、映画。

特にさやかちゃんの「復権」が、イチオシ。

いやはや、前章の物語ラストで彼岸の劇場で涙を流しながら消えて行った甲斐があったというものです。よもや劇場で大復活を遂げるとは。

まどかアバター的な存在でありながら、ほむらとも渡り合うことが可能というおいしいポジションで、美樹さやか奉賛会の私としましては言う事なしですね。

でも完璧超人ではなく、最期にほむらにちょろまかされて、やっぱりへにゃっとなってしまうのが、もう欠点でもなんでもなく、

―それこそが、美樹さやか、ですねっ!!

2013-11-06

阿弥陀教から、ゾロアスター教へ。さらに、先へ  〜まどか☆マギカ劇場版を見て〜 阿弥陀教から、ゾロアスター教へ。さらに、先へ  〜まどか☆マギカ劇場版を見て〜を含むブックマーク 阿弥陀教から、ゾロアスター教へ。さらに、先へ  〜まどか☆マギカ劇場版を見て〜のブックマークコメント

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語、見てきました。

うん、感想は。よくぞ「こうしてくれた」と。

D

テレビをリアルタイムで追っていたとき、私は「結末はこうなったらいいな」という予想を何通りか、立てていました。

その一つにテレビ版の結末もありました。まどかが全ての魔法少女の思いを己を対価に救うという、結末も。

私はそれを仮面ライダーブレイド型」と名付けていました。仮面ライダーブレイドの主人公・剣崎は生物が相争うバトルファイトの連鎖を止めるため、その連鎖の中心で苦しむジョーカーを救うため、自らがジョーカーとなり、戦いの連鎖止揚します。

まどか神の存在がありながら、魔女の連鎖止揚されただけという点では、ブレイドと類似性があります。

テレビ版で描かれたまどかによる救済。その荘厳さに心を打たれた一方で、「ブレイドのその先を見せて欲しかった」という、私の中の一抹の思いも残り続けていたのです。

…しかし、今回は見事に「やって」くれた。

その先を、見せていただいた。

前回のまどかによる救済を「書き換え」、ブレイド型のさらにその先へと行ってくれた。

そう、今回の「叛逆の物語」の構図を何に例えればいいのだろうか。何と言えばいいのだろうか。ああ、アレだ。ああ言おう。

…叛逆の物語は、二神教で、二元論と化したゾロアスター教型」なのだ。


  • 阿弥陀三尊 まど神さまと眷属と

前回の宇宙神となったまどか神さまは、放送後、阿弥陀如来に例えられました。

宇宙の果て、西方極楽浄土で光を発し、あらゆる煩悩にまみれた人々をその死とともにただちに来迎し、救う。絶対の救世主。

今回の劇場版でもそのイメージは強化され、さらなる追加要素によって、より強調されています。

それが、まどか神に付き従う二人の眷属の存在です。

観音菩薩勢至菩薩は、阿弥陀如来の眷属です。この三尊をして、あらゆる宇宙のあまねく衆生を極楽へと導きます。

観音菩薩水の女神・アナーヒタを源流としている菩薩です。どこにでも自由自在に現れて人々を救います。手には水の神であったときの名残の水瓶を持っています。というか、本作ではさやかちゃんです。属性、水やし。

勢至菩薩は人々が餓鬼道や地獄道に落ちないように見守り、助ける存在です。チーズを貪る餓鬼道を逃れ、人々を救う百恵なぎさはまさにこれです。

この二人の眷属を遣わすことで、魔法少女の救いを求める声を察し、来迎するまどか神。阿弥陀如来のイメージに本作ではより近づけてきたと言えましょう。

さて、この阿弥陀如来。別名に無量光如来という名前があります。無限の光をその身に宿した「ひかりふる」存在。その源流には中央アジアで発生したゾロアスター教の最高神・アフラマズダがあります。はい、ここでゾロアスター教と繋がってきますねえ。

実は、前作まで阿弥陀如来だったまどか神さまは、本作でアフラ・マズダーへと先祖返りするのです。


ゾロアスター教は世界最古の善悪二元論の宗教と言われています。善神アフラ・マズダーに対応する形で、悪神アンラマンユが存在し、あらゆる存在は善と悪の二つのカテゴリーに区分されるのです。

本作では暁美ほむらの「叛逆」によって、唯一神だったまどか神は、善悪二元論の一方の神へと堕とされます。阿弥陀からアフラマズダへの先祖返り。

そして悪神アンラマンユとなることによって、ほむらまどか神とこの世界を二分する。あまつさえ、神だったことを忘れさせてしまうのです。ここらへんも人々が善なる存在による被造物であったことを忘れて生きているという、ゾロアスター教の思想が透けて見えます。

しかし、ゾロアスター教との違いもあります。

ゾロアスター教は善悪の二勢力がいるとはいえ、最終的には善の勢力が勝利し、世界は統一されます。

したがって二神教ではなく、一神教です。ですが、叛逆の物語。悪神アンラ・マンユと化したほむらまどかと拮抗し、あまつさえその記憶を制御下に置くなど、拮抗の中にも優位を保っています。

つまりゾロアスター教よりも、より二元論であり、一神教ではなく、二神教なのです。

実はゾロアスター教の神々はオリジナルではなく、アーリア人の古宗教の神々を下敷きにしています。日本では天と阿修羅と呼ばれるのがその神々で、アフラマズダは阿修羅アフラに、アンラマンユはダエーワ(デーヴァ)の王に属します。この古宗教では二つの存在は拮抗しているのです。


さてさて、ここで唐突に天にも阿修羅にも属さない存在の話をしましょう。

それがミトラ神。日本には弥勒菩薩として伝わった神格です。

この神は仲裁の存在として、天秤として、阿修羅にも天に、アフラマズダにもアンラマンユにも組みしません。善でも悪でもない、世界の調和を司る存在。

実は叛逆の物語の驚嘆した点として、この物語はキュゥべえをミスラに比する存在として復権させているということが挙げられるのです。

「えー、だって、今回のインキュベーターは小悪党じゃんか。まど神様連合にも、悪魔ほむらにもボコボコにされて、世界の片隅でほそぼそとしてるじゃんか」と、みなさんは言うかもしれません。

…が、違います。前作でも、今作でも。善神まどかも、悪神ほむらも、インキュベーターを世界に残して行きました。それは彼らを排除しきれなかったからか、前作ではそうでした。インキュベーターはまど神様の一神教の下でただの救いの道具と化してしまいました。しかし今作ではほむら「世界を攪拌する存在として、インキュベーターを据え置いている」のです。

そこでインキュベーターまどかほむら二つの意思の中間に存在する特別な「第三の点」としての位置を獲得したのです。

ほむらは、まど神さまが支配する世界も、自分が支配する世界も「調和そのもの」とは捉えず、いわば善悪転換を繰り返す世界そのものを「調和」として位置付けているのです。

その世界を、回転させる道具。カゴを回すハムスター。そしてある意味かけがえのない道具として、外部の存在としてインキュベーターを復権させているのです。

これによってトリニティが成立し、インキュベーターはさながらミスラに近い、仲介者のポジションを得ることになったのです。

本人はむちゃくちゃ嫌そうだったけど・・・。


-まとめ 尾を喰らう蛇について

今回、かくまでの世界を確立し、仮面ライダーブレイドでも、はたまた神への反逆を描いたデビルマンでもない、「阿弥陀から古宗教へと先祖返りしつつ、新しくなりゆく世界」を確立した虚淵玄というライターに、私は賞賛を禁じ得ません。

そしてその善悪のたゆまない運動こそ、まさにウロボロスの輪、尾っぽを食らう蛇であり、ウロブチにも繋がるであろうと思うと、うう、よくぞここまでと。

ただ、ただ、頷くしか、ないのです。

tommytommy 2013/12/07 19:17 はじめまして、御解釈参考になりました。
まどかやQBが欠けてバランスが崩れたようで、保ってもいるんですね。
別所でさやかはシルバーサーファー、まど神はギャラクタスで
アメコミの如く世界改変の説は何だか合点がいきました。