今日の夕食はスパゲティです。材料はコンビーフとホールトマト、アンチョビ、玉ねぎ、にんじんです。ミートソースをつくるのです。とってもおいしく頂きました。でもでも、困ったことがあるのです。
スパゲッティの束が半分余ってしまうのです。コンビーフもホールトマトも一缶だと多すぎます。玉ねぎもにんじんも、四分の一も使っていないのです。いろいろ余ってしまうのです。
食べ物は一人で食べるようにはできていないのです。材料である段階から、一人で消費するように設計されていないのです。だから、人は一人で生きるようにはできていない。いくらココロが「ひとり」であることを主張しようにも、世界が、世間が、身体構造が、衣食住のシステムが「個」としてのみ存在することを許してくれない。認めていない。人は「ひとり」ではありえないのです。

ここ50年。ようやくレーションやカップラーメンが開発されて、一人で食事を食べるという行為に対する矛盾を感じなくなってきました。肉も、野菜も一人分としてパッケージングされ、余らせずに消費することができる。人は「ひとり」で食べることに違和感があった「食」を、個人のものとすることに物質的にも、精神的にも成功しつつあります。これは有史以来の人間の変革の中でも凄まじいことなのかもしれませんね。

そう、人はようやくにして「ひとり」であることに違和感を感じない社会を手にしつつあります。分業化、貿易による世界の一体化、パッケージングの賜物です。そんな新しく手に入れた特権を振りかざして「人間は一人だ」「人間は孤独だ」などとほざいても、しょうがない。どんなにパッケージングされてごまかされても、人は「みんなの中の一人」なのです。どうしようもないくらい。
私の食卓に材料が余り続ける限り、群体(レギオン)であり続けるのです。