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2009-08-26

“暴力”  “人権” を改めて考える

06:35 | “暴力”  “人権” を改めて考えるを含むブックマーク “暴力”  “人権” を改めて考えるのブックマークコメント

森田ゆり氏の著作 「エンパワメント人権」を読んだ。


とってもしっくりくる中身の本だった。多分、どんな人が読んでも、心に響くところはあるのではないかと思った。優しい語り口でとても読みやすい。

CAPプログラムのことを書こうと思って読んだのだけど、全部よかった。とっても(^^)


森田ゆり氏は、CAPプログラムを日本に持ち込んだ方で、虐待DV、性暴力の専門家である。


フェミニズムとかエンパワメント、という言葉の意味が本来からはずれて、やたらと「自立」を強調することになっているのではないかという危惧(この本は1998年初版発行なのだけど)のところを読むと、自分の違和感の正体がわかった気がした。

フェミニズムは別に男性をおとしめようというものではないのに、なぜかそう捉えられがちなこと、フェミニストはとても怖い存在のように思われていること (とても優しいのに)。

エンパワメント揶揄するような雰囲気がときおり現れること。パワーすなわち力という考えなのか、どこか勢いが強いもののように受け止めている人がいること。

実際にはじわじわとかみしめながら地に足がついているような感覚で、エンパワメント、有力化されていくことを感じるのだけれどなあ、と、感覚の差を感じていたのだ。


森田氏はこう述べている。

 

 エンパワメントとは「力をつけること」ではない。ましてや女性だけが力をつけることでもない。それは人と人との関係のあり方だ。人と人との生き生きとした出会いの持ち方なのである。 (略) わたしとあなたが互いの内在する力にどう働きかけあうかということなのだ。力のあるものがないものにそのパワーのおすそ分けをするのでもない、お互いがそれぞれ内に持つ力をいかに発揮しうるかという関係性なのである。 (略)


 当時、日本では女の自立ということがさかんにいわれていた。その自立の思想にエリート意識と強者のにおいを感じとって、「自立」という言葉が好きになれなかったわたしにとって、エンパワメントとはわたしがそれまで考え求めていた生き方、人間関係のあり方、運動の哲学そのものだった。


 エンパワメントを「力をつけること」と理解してしまったら、それはあの「自立」のエリート意識と少しも変わらなくなってしまう。わたしは力をつけたのよ、あなたもがんばって力をつけなさい、私は自立してるわ、あなたも自立しなさい、というがんばれ、がんばれのメッセージ。相変わらず個人の競争意識をあおるだけで、ある者には優越感を、ある者には劣等感を抱かせるだけの掛け声にすぎず、変革思想などとはほど遠いのだ。                 

        

                                         ―p14〜15


私が好きになれない、中身を伴わない精神論の「ガンバリズム」にうんざりして、自分は「がんばれない」と諦めて、そういう声を自分の中に取り入れないようにしたとき、なんだか底つき感があったのだ。

でも、そこから私は恢復への道をあゆみはじめたと思っているので、なんだかとっても共感できた。

「がんばってね」という声より「がんばってるね」の声を必要としている人がたくさんいる。

ただ単にあるがまま、ありのまま、だめなところも弱いところも全部ひっくるめて、そのままの自分でいいんだという、とってもとってもシンプルなことから、私たちは遠ざけられてしまっている。


「自立」って、ただ闇雲にがんばって「経済的自立」を手に入れるだけじゃない。

そういう意味での「自立」は、目に見えるもので確かにわかりやすいかもしれないけれど (正直うらやましいなあとは思うけど)、ただ、そのままの自分、ありのままの自分を受け入れることから、精神的自立につながっていくのだと思う。

そもそも、自立=完全に一人で生きていく、っていうことじゃない。

自分なりの距離感や関わり方で、関わって生きていくことなのだろうと思う。ときおり間違ったりしながら。修正しながら。

そういう過程さえも、ちょっとずつ楽になりながらできるとき、なんとなく「自立」に近づいているような気がするのだ。


暴力を受けると、それがとっても難しくなるけれど。

暴力は、私は、「ぷっつりと世界から切り離されてしまうこと。何をしてもダメだ、どうしようもない、という絶望、無力感を感じ、孤独に陥れられること」だ、と思っていて。

いじめも、虐待も、DVも。モラハラも、セクハラも、パワハラも。ストーカーも。そして性暴力も。


中でも、性暴力は、一瞬にしてそれを可能にしてしまうところに怖ろしさがあるのだと思う。

そして、理解されづらいこと。

まるでこちらが悪いかのような扱いを受けてしまうこと。

ジェンダーギャップも激しいこと。

それを指摘することさえ難しいこと。口にしづらいこと。

自分の受けた苦痛が“ポルノ”として受け取られること。

暴力として認識されないこと。

ますます傷は深くなり、より混乱し当惑し、悲しみと怒り、絶望感で、よりいっそう孤立感が増すということ。


たとえば暴力に、指数や加速度、理解されにくい指数というようなものがあるのならば、突出しているのだ。

突出しているということを口にするのも、なんだか他の暴力を軽視しているようで、そのきつさを否定するようで言いづらいのだけど。

上にあげた“暴力”は、たぶんほぼ全て経験している身としては、どれひとつとして軽いとかは言えないのだ。なので、とても言葉が難しいと感じる。

ただ、やはり、性暴力は、とても簡単な(加害者にとっては、だが)手段で、人を簡単に無力化させる、とても破壊的で、あまりに衝撃が大きすぎる暴力だ。


暴力の定義を、上述したように、自分なりに考えるようになったきっかけは、外傷からの恢復へのステップに、「つながりを取り戻す」「世界との再統合」などというものが必ず書かれているからだった。

つまり逆の状態にいること、自分が他者からぷっつり切り離されてしまったということを、自分なりに咀嚼してのみこむまで、つまりとても孤独だということを認めるまで、きつかったけれど。

・・・たぶん、矛盾する感情というのが一番苦しいのだと思う。


森田ゆり氏は、暴力の定義をこう述べている。


 暴力とは安心、自信、自由の権利を奪うこと


 暴力(violence)とは、この三つの権利を奪うことにほかならない。殴る、蹴る、武器で脅すなどの物理的強制力が伴っていなくても、人を 「恐怖や不安(安心ではない)」 「無力感(自信がない)」 「行動の選択肢がない(自由でない)」 という心理に追いやる行為は暴力なのである。 

                                                 -p28 



そして、基本的人権をこう定義している。




 「権利」は大別すると二種類に分けて考えると整理しやすい。人が生きるのに最低限必要な衣、食、住の権利に代表される基本的人権と、その他もろもろの権利。基本的人権はすべての人が人として生まれたからには当然持っている権利。誕生から死に至るまで、赤ちゃんから老人まで誰でもが当然持っているもの。それは誰かが与えてくれるものでもない。獲得しなければならないものでもない。そしてこの権利には義務が伴わない。赤ちゃんの基本的人権は保障されねばならないが、だからといって赤ちゃんに義務はない。(略)


 安心、自信、自由は基本的人権


 この二種類の権利のうちここで考えたいのは、最初の基本的人権としての権利だ。わたしは「人権」を 「人が人間らしく生きるために欠かせないもの」と定義している。つまり「それがなければ生きられないもの」 のことだ。たとえば食べること、寝ることなどの衣、食、住は人が人間らしく生きるために欠かせない権利だ。(略)

 そして衣、食、住の基本的な人権とならんで、人間は尊厳をもって生きるためになくてはならない 「安心して」 「自信をもって」 「自由に」 生きるという大切な人権を持っているのである。

                                                 ―p27


安心や自信は、それ自体の概念が、人によって感覚が違うことはあまりないにしても、自由は人と人とのぶつかりあいのように捉えられていてややこしくなるのだろうけれど、自由については、こう述べられている。


 自由という言葉は人それぞれにまったく違った理解がされているが、自由を最も簡潔に定義するとするならば、それは「自分で選択できる」 ことだ。「校則が厳しくてうちの学校は自由じゃない」と生徒が言う時、髪の形から靴下の長さ、持ち物の中身にいたるまで、生徒側の選択肢が許されていないから、生徒たちは自由でないと言う。

 仮設住宅で餓死したり、自殺したりした被災者は衣、食、住の物理的権利だけでなく、この安心、自信、自由の権利を奪われていたのである。

                                                ―p28



この物理的権利と、安心、自信、自由の権利という点から考えると、たとえば性暴力、DV虐待ストーカーセクハラモラハラパワハラなどがどんなに深刻なのか、理解へのきっかけになると思う。

もちろん、どの暴力も本来あってはならないことで、許されないことだ。

ただわかりづらいからといって、ただ個別の事情、個別の事案というだけで考えることを拒否するのではなく。理解してほしい私としては。

確かにそれぞれ事案によって違うとはいえ、ではその違いや共通するところを、理解するための手段、ツールとして、「衣、食、住の物理的権利」と「安心、自信、自由の権利」は、優れていると思う。





エンパワメントと人権―こころの力のみなもとへエンパワメントと人権―こころの力のみなもとへ
(1998/04)
森田 ゆり

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1 エンパワメントの意味

 肯定の心

 権利ってなに?

 人権意識ってなに

 自分で選び続けること

2 子ども人権 

 子ども差別

 CAPプログラム

 コミュニティーの思想

 子育て不安

 子どもと暴力

3 女たちの人権

 スクール・セクシュアル・ハラスメント

 セクシュアル・ハラスメント対応の方法

 アサーティブネス・トレーニングってなに?

 内輪暴力(ドメスティック・バイオレンス)の権力構造

 内輪暴力(ドメスティック・バイオレンス)によるトラウマ

4 多文化共生

 アメリカにおける多様性社会

 多文化共生へのこころみ

 アファーマティブ・アクションの危機

5 癒し・内なる自然と外なる自然

 全体性の回復

 再評価(RC)カウンセリング

 アメリカインディアンから学んだこと








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