『自分に値する顔』(ミゲル・ゴメス/2004)


いよいよ今月より始まる「ポルトガル映画祭2010」に向けて、ポルトガル映画作家の作品をいろいろ見ていこう企画。と宣言すると早々に頓挫してしまいそうなのでやめておくけど、まぁ、この1ヶ月〜2ヶ月に渡って気儘に紛れ込ませていけたらなと思う。で、今回は第1弾ということで、新鋭ミゲル・ゴメスの長編処女作について。「ポルトガル映画祭2010」では「芸術新潮」最新号でペドロ・コスタも触れていた『私たちの好きな8月』が上映されるミゲル・ゴメスについては、一部先鋭的なシネフィルの間で名前ばかりが先行していた。今回ようやく劇場で体験できる(私も未見です。楽しみにとっておきます)機会を設けてくれた映画祭スタッフに感謝。


『自分に値する顔』は、これがポルトガル映画なのか(失礼)?!と俄かには信じがたいほどポップな色彩でハジけたタイトルバックから始まる(正確には停留所でバスを降りる主人公=カウボーイ!から始まるのだけど)。アカラサマに映画の「装置」=ウソを剥き出しにした土砂降りの雨の中、唐突に女性は歌う。アストラッド・ジルベルトのように空気の流れだけを大切に、親密に語りかけるかのようなその歌いぶりが素晴らしい。この第1部の全てのショットが放つ新世紀ミュージカルのような多幸感はただごとではない。幼稚園のお遊戯会では「白雪姫」が上演されている。ウクレレを片手に「ハイホー」を演奏するカウボーイが”毒リンゴ”を食べてしまったところから、最悪の一日(30歳の誕生日)という現実が、鏡の奥の世界への冒険へ緩やかに移行する。スリープウォーカー=夢遊の旅。



ウクレレを片手に暗い森の奥へ奥へと向かうカウボーイが朝の光に目覚め、鏡の奥の世界を覗き込むところから第2部は始まる。鏡の世界では大の大人たちによる鬼ごっこのようなゲームが繰り広げられている。ここで「語り聞かせる話」を映像=舞台として具現化する入れ子構造が一気に加速する。とりわけ好きなのは「何もない世界」を語って聞かせるエピソードだ。人のいない世界。闇のない世界。光のない世界。星のない世界。色のない世界。テキサスと名乗る男が赤い目かくしをされ(画像参照)、「何もない世界」で、風や木々の声に従って歩みを進めるシーン、ここの美しいパンニング撮影。また幾層にも重ねられる「声」に導かれるように映像も多重化される。ゴダールの映画のような異化効果を映像と音声の編集に感じる。このメルヘンはときに『未来展望』のように未来的・啓示的な叙情詩でもあり、「オモチャの戦争」でもあるのだろう。やがてスリープウォーカーの闇の中で手探るような旅に光がやってくる。それは「さよなら」のイニシエーションでもある。「30歳までは神様がくれた顔を持つ。それ以降は自分に値する顔を持ちなさい」。


白雪姫と7人のドワーフたち。このとびきり美しいイントロとアウトロを持つ映画の最初に、カウボーイが女性にキスされたこと/されてしまったことを思い出す。


追記*個人的に一番好きな「ハイホー」は『PREMIUM CUTS #00 CLASSIC BLEND』に収録されたブツ。ジャズ仕様「ハイホー」。ハジケるピアノと合いの手コーラスが最高。『自分に値する顔』の「ハイホー」もウクレレ+コドモたちの口笛で最高。