『オフェリア』(クロード・シャブロル/1963)


クロード・シャブロル特集@日仏学院にて『オフェリア』のフィルム上映。この作品を今回の特集の最大の発見としたい。墓穴からの仰角ショットで始まるこの作品は、死者が下から仰ぎ見る視点と多用される俯瞰の視点の交錯をめぐる映画だと、ひとまずは言える。前年に撮られた『悪意の眼』の彷徨う魂=主人公がロングショットの逆光で水平に歩いていたのに対し、『オフェリア』の彷徨う魂はロングの俯瞰ショットで奥から/奥に歩いていく(個人的には『オフェリア』のロングショットはその不穏さにおいて『悪意の眼』を遥かに凌いでいると震撼させられる)。そして『オフェリア』の恐ろしいところは、彷徨う夢遊病者をとらえたこの仰角ショットと俯瞰ショットの意味が全く同じ意味になってしまう(共に死者の視線=『悪意の眼』の「すべて同じこと」)、というところで、たとえばそれは死体を見上げる、という、あの世にも恐ろしい風景の仰角ショットと俯瞰ショットの交錯(とても刺激的だ!)に関係する。ファーストショットのように、これまで死者は生者を墓穴からの仰角の視点でしか見つめることができなかったはずが、俯瞰の視線で生者を見つめることが可能だったことがついに明らかにされる。彷徨う魂の歩みをとらえたあの俯瞰ショットの意味が暴かれる戦慄の瞬間だ。おそらく『オフェリア』の登場人物はすべて半死者としてこの世に生きている。「オフィーリア」の絵画がまるで「永久保存された死者」に見えるように。切り返しで展開されるラストの悲劇は、この主題に沿っているが故に感動的で、恐ろしい。


アリダ・ヴァリの美しさに惹きこまれる。アリダ・ヴァリアンドレ・ジョスランが鏡の前でナポレオンやクレオパトラに扮するシーンが忘れられない。マリー・アントワネットと言って黒いベールを被るアリダ・ヴァリ。そのあと髪を寝かせ、「オフェリア」に変身するこの一連の流れの中で、アリダ・ヴァリはどんどん死に近づいているのだ。そしてサイレントフィルムの上映会。このシーンの驚くべき視線の設計と、その巧さについては、息を呑むばかりだった。特にアリダ・ヴァリの視線→ピアノを弾くアンドレ・ジョスランの背中越しスクリーンのショットに。『オフェリア』にはシャブロルの本気が炸裂している。傑作!


追記*『オフェリア』はわざわざ撮影しにくい夜に撮っている、ということはかなり重要な点だと思う。『オフェリア』の夢遊病者は、夜の森、というか枯れた冬の林の中を歩き、走り、そして跪く。

『破局』(クロード・シャブロル/1970)


続いてついさっき日仏で再見した個人的に偏愛するシャブロル作品『破局』。マネキン化する身体。やはり素晴らしかった。シャブロルの傑作というのは、きまって見てはいけないものを見てしまうシーンというのが紛れ込んでいるものなのだけど、『破局』における、ステファーヌ・オードランと夫が再会、激しく頬を寄せ合うシーンで、背景に二人を凝視する義母(感動しているにしたって怖いよ!)が映る長回し(!)における、義母のマネキン化から、現実が捩れていく後半の怒涛の展開には完全に痺れっ放しだった。あのオバチャンたちの顔といったら!たしかに最初っから意地悪そうな顔してたけど、最後にあんな顔としてスクリーンに映るのだから恐ろしい。思えば、劇中ずっーと裸で演技しているカトリーヌ・ルーヴェルは「マネキン化する身体」の伏線だったのかもしれない。ブルーフィルムにチラッと出てくる黒魔術のような映像は、たとえばフィルムの官能=魔術によって、人の心に致命傷を負わせることができるのか、もっと言えばフィルムの官能で人を殺してしまうことができるのか、ということについて考えさせられる、とても興味深い展開だった。そして時空間の捩れた世界で風船売りの男を「神」と呼び、オバチャンたちと歌まで披露するステファーヌ・オードランは、裏切り/断絶という魔術に囚われた悲劇の国のアリスなのかもしれないな、と思った。ところで怒涛の展開のラストシーンで大きな地震が起きて背筋が凍ったよ。とはいえ目の前で上映されるフィルムと同じく、こちらの現実に亀裂が入っていくようで、不謹慎なのだけど、なんとも素晴らしいタイミングの地震だなーと、むしろ感動してしまったよ。


追記*なんでもない箇所ですが、オードランが空港内を足早に歩く一連のショットが素晴らしかったです。『破局』の上映は明日最後の一回があります。


追記2*『破局』のステファーヌ・オードランも風船売りの男を神にもすがるように見上げる。『破局』のラストカットは空を見上げる仰角の視線がステファーヌ・オードランという主体を離れ「純粋視線」として空に放たれる。それが幸福な開放なのかどうかはともかく。