vermilion::text 187階 シャドウ・レイン 2

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連載です。
1.シャドウ・レイン1 http://d.hatena.ne.jp/marcus-k/20040520#p1

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目を覚ますと、スウィフトはいなかった。たぶん、どこかへ出かけたのだろう。だが、俺には
またもどってくることがわかっている。
「HOTEL」の内装は端的な言い方をすると、アール・ヌーボー調だと言うことができる。
濃い茶に塗られた家具には植物や幻想をかたどった装飾がなされ、黄色く光る
卓上ランプには不気味な金属の蝶が貼りついていた。ベッドの傍に置かれたギデオンの
聖書には、たっぷりと埃が、それも、かび臭い埃が堆積している。その匂いで俺は何か
子供の頃のことを思い出したような気がしたが、それも一瞬だった。
俺はベッドから起き上がってベランダに出てみた(ここは「HOTEL」の2階だ)。つるつるした
黄色とオレンジのタイルが裸足に冷たい。見上げると、空は昨日と同じ、深い夜の色
だった。眠るのも夜、起きるのも夜だ。店々のネオンと夜風は絶えることが無い。
不思議だった。
俺は、シャワーを浴びて一応身なりを整えると、階下に下りた。共同スペースでは、
シルクハットを被った面長の紳士が、ソファに座って新聞を読んでいる。
…俺の記憶が正しければの話だが、この男は俺たちがチェックインしたときにも同じ格好
でそこにいた。
俺は入り口の近くのカウンターで、なにやら帳簿とにらめっこをしているマスター(細長くて
内側にカーブした鼻筋と灰色のあごひげで、やぎみたいにみえる)に、スウィフトのことを
訊いてみると、やはりかれは大分まえに出て行ったという。
夜の湿っぽい空気が淀む中、俺はコーヒーとトーストをもらい、シルクハットの紳士の横
に座って食べながら、かれに話しかけた。この場所、「バーミリオン」について、スウィフトの
曖昧な回答以上に知っておく必要があるからだった。
「わたしも、よくは知らないのです。」
と、紳士は答えた。「どの階に何があるかは人によって変わる、という人もいれば、そもそも
階という概念などない、という人もいます。」
俺は、他の階に行ったことがあるかと尋ねた。
「いいえ、ありません…。わたしはある日突然このホテルの前にスーツケースを持って立って
いたのです、その前に何をしていたかは憶えていません。何か長い間眠っていたような
気がするのですが…。とにかく、それからわたしはずっとここにいるのです。」
俺はますます分からなくなった、だが分からなくてもいいのではないかと思い始めていた。
つまり、俺はここにしばらく留まるのも悪くないと思っているし、それに、ここを出る方法は
スウィフトが知っているのだろう。