これからの「セックス」の話をしよう

11月のある日、とある西友横を歩いていたら入口を通りかけたところで「セ ッ ク ス し て く だ さ い ! 」と、本当にこれくらいのテンポで叫ぶ女の人の声が聞こえて何?え、何!?と周囲を見渡したら中国の農村にいそうな女子が大家族の次男あたりにいそうな男性をすがるように睨みつけてて、男の方はそれに対して今にも暴発寸前みたいなことになってて、なぜか女の子が叫ぶ瞬間に私がその男女の間を通り過ぎていたという、で、なんだか色々もらってしまってこっちが暴漢にあったようなひどい疲れ方をしたので、なんでこんなに疲れるんだろうか、と台風で壊れた目隠し用のすだれを探すのに右往左往、いや、東奔西走して四苦八苦だったはずが、本屋に行ってセックスについて考えるための本を何冊も買い占めてました。

性犯罪被害とたたかうということ

性犯罪被害とたたかうということ

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

美しいアナベル・リイ (新潮文庫)

私という小説家の作り方 (新潮文庫)

私という小説家の作り方 (新潮文庫)

不滅 (集英社文庫)

不滅 (集英社文庫)

通りすがりで「セックスしてください!」と叫ばれる・叫ぶ男女を見てこっちがしんどくなったのは、あのようなテンパり方をしている、負のオーラ撒き散らして怒りと嫉妬と自分の欲望のみを押し付けるような「セックスしてください!」に応えるのは難しいし、あんな人に手は出せないなあ、ということと、その二人の組み合わせのみすぼらしい様子がダイソーに並んでいる商品より安くて悲しくなったのと、自分が誰かにあんなせまり方をしていたらどうしよう、と恐ろしくなったのと、何より自分を粗末に扱っている人ともらい事故のように出くわしてしまった衝撃が強かったということかなあ、と、とりあえず今のところは漠然と整理しておきます。あれが何らかのプレイだったらいいなあ、とは思うんだけど、そういう風流を楽しめるような雰囲気を持っていなかったことがつらかった。何らかのプレイを傍観することによっての共犯者になるくらいの粋は持っていると思ってたんだけど、モブとしていい仕事はできると思うんだけど、あれは事件の第一発見者になるような面倒くささしかなかったよ…

声で殴られた衝撃を和らげるために買った本って、今初めて冷静に振り返ってみたんだけど、けっこうなひどいラインナップですね。こういう本にすがらなきゃならないくらい打ちのめされてました。いや、みんなもっとセックス大事にしなよ、なんかもう望まないセックスが減れば減るだけ世の中は幸せになるんだろうよ、望まないセックスしたら犯罪だよ、そもそもセックスがなぜあれだけ「悪」と教育されるのか、そのシステムが一番の問題なんだろうと、それはどう構築され強化されたのか、ものすごく気になってます。「悪」と見なすのに「少子化」も問題にするとかそこまず矛盾すぎて、それを更に「産む性」に責任を押し付けるシステムっていうのもどのあたりから生まれてきたのか、「母性本能」は声高に叫ばれるのに「母性」が「本能」なのだとしたら当然対になるはずの「父性本能」という概念は存在しないかのように扱われる欺瞞はどこからやってきたのか、ということや、母から娘への抑圧の物語というのはある程度時間が経つと力の逆転が起こるので、母が弱った時に復讐しようとしても虚しいだけだ、おおもとは実行犯ではなく母を実行犯にしたてあげたシステムだと気付ける娘はいいのだけど、被害者が加害者に単純に転化するケースが多すぎる、そもそも母からの抑圧を更に増幅させ姉が妹に向けるというパターンも「リア王」や「シンデレラ」を引き合いに出すまでもなくそこらへんに転がっていることに私は自分が長女で妹がいない、という立場なため永らく気付いてなかったのだけど、妹である人と姉である人の関係では母の経年劣化による娘との力関係の逆転の恩恵は受けられないのでより大変なんだろうな、とか、そもそもフラッシュバックを押さえ込むために本読んでるようなところもあったのだけど、大江健三郎のエッセイって読み進めてると脳味噌に直接精液かけられるような感覚になる時があって、「脳味噌に直接精液ぶっかけ」といえば宮崎駿作品で、あの人はほんとこれひどくて、あんなもん子供に見せていいものではないと常々思っているし、世界の大多数が奴に洗脳されようとも私は宮崎駿を拒絶する最後の一人でありたいと心に定めているのですが、宮崎駿はそういうことをやる人だとわかっているのでそれに対処する心づもりはあるんです。でも、大江のエッセイでそんな心づもりはしてなかったので、弱り目に祟り目というか、もう日々のルーティンをこなしてるのかどうかすらわからなくなっていました。

「セックスしてください!」事件の数日後、先週の土曜日13日か、モーリス・ベジャール・バレエ団の来日公演観に行ったんです。外に出るパワーもギリギリだったけど、ベジャールだから大丈夫だろうって。そしたら返り討ちにあった。ベジャール振り付け作品はいいんだ、よかったんだ、とってもよかった。安心できた。でも、私が今回の来日公演で選んだのはジル・ロマン振り付けの演目もあるプログラムで、それはそれで見ておきたかったのと、サルトル「出口なし」モチーフの「三人のソナタ」が見たかったからハルサイも「80分間世界一周」も我慢して即決したさ。そしたらジル振り付けの演目で「脳味噌に直接精液ぶっかけ」追加されて、マジで涙目になりました。私にとってベジャールがゲイだということがこれほど大きな意味を持つとは全く思ってなかったんだけど、私がベジャール好きなのは、彼が美しいと思う男性の肉体をいかに魅力的に演出するか、という部分が相当大事だったみたいで、ここで私は「性」に対して傍観者でいられることがとても嬉しかったみたいなんだ。彼は男性の肉体を愛する人だから、女性の肉体に対しては特に思い入れなくフラットな状態でその形をただ自分の表現の機能としてどこをどう使うか、としか見ていないのが新鮮で自由になれて嬉しかったみたいなんだ。私達は「女」に生まれた瞬間、その外見から自由になれない世界に生きることを定められて、ヒエラルキーのどこにいようと常に外見を値踏みするしされるのが当たり前だとそんなこと口に出すまでもなく当然のこととして育ってきたわけだけど、ベジャールの前だと、そういう値踏みの視線から自由になれた、そのことが何よりも私にとっては重要だったんだと、だからベジャールを観に行ってヘテロ男性から女性への視線に絡めとられるとは予想だにしていなかったので、ジル振り付けの云々以前に、ベジャールが死んじゃった事実がいきなり浮かび上がって直撃してきて、どうしていいかわからなくなり、外で崩壊しないで家に着いたことが奇跡にすら思えました。

女性は男性に値踏みされるし女性同士でも値踏みする、それはもう空気のように存在する常識で、私は男性も女性に値踏みされるし男性同士でも値踏みしていることも空気のように存在して感じているんだろうとずっと思ってたんですけど、「メガネ男子」というムーヴメントが起こった時、自分の外見が値踏みされることに戸惑ったり恐怖や不快感を表す男性が少なからずいたことに大変驚いたんです。驚いた後、猛烈に腹が立ったんです。こいつらは「あの視線」から今までずっと自由に生きてきたのか、と思って。女性に対する抑圧装置がほつれた場所から漏れ出たほんの小さなムーヴメントでこれだけ消耗してるこの人達は自分達が今までやってきたことを私達がやってないと思ってきたんだろうか、いや、そんなこと想像さえしなくても平気で生きてこれたんだ、と思ったら腹が立って腹が立って泣きたくなりました。だから、ベジャールのダンサー達の値踏みされることに慣れきってる姿はとても強くて美しく見えた。もっとこういう世界が普遍的なものになればいい。男も値踏みされるし女も値踏みされる、それは男が欲望の対象として男を見るのも、女が欲望の対象として男を見るのも、男が欲望の対象として女を見るのも、女が欲望の対象として女を見るのも、もしくはそれ以外の形を自分の欲望の対象とする人々も平等に扱われてそれが当然の世界。「男が欲望の対象として女を見る」これだけが特権的に世間に認められてる世界はひどくいびつだ。性別も性行為も多様な形があって当たり前じゃないかよ。

こう憤りながらスケートアメリカ見ていてはっとして、あ、フィギュアスケートってもしかしてすごく自由なんじゃないか、と、ここにいる女子選手は当然として男子選手も値踏みされることを受け入れてるんじゃないか、と気付いた時にふわっと救われた気分になって、戸惑いつつ安心した。何が自由かって、女性の振り付けを男性が当たり前に受け入れてるところですよね。バレエって女性の有名振付家少ないですよね、意外と。ズエワ振り付けなんか「70年代少女漫画の男の子」そのまんまなところあるのにあんまりそれに抵抗してるそぶりないもの。私、バンクーバーでスコット・モイアーが(リフトを裏側から見ると緊張からなのかそのハードな姿勢からきてるのかはよくわからなかったんだけど、とにかくものすごく腕震えててテッサ落とさないかヒヤヒヤしてたのと同じくらい)アダージェット演じきった直後、素のカナディアン男子に戻った瞬間のことすっごく覚えてて、こんなガッツポーズ連発で雄叫びあげながらかけずり回ってるような子があんな少女漫画の主人公の相手役みたいな世界観押し付けられても演じきれるんだって、そのことに感動してたのも覚えてるんです。普段生きている世の中はモロゾフ振り付けみたいなものしかほとんど流通してないのに、フィギュアスケート見てる人達は「またモロゾフかよ」と、その振り付けにあきてしまっていることって実はとてつもないことなんじゃないか、と、私はまだフィギュアスケートの可能性掘り下げてないんじゃないか、と、ジャンプがどうこうとかそんな小さなことじゃなくてね、*1この私が見ていたスケアメでいうと、デニス・テンカロリーナ・コストナーとあと特にうちの国のエースの人*2見てるとなんだかすごく楽しくてね、そのおかげで脳味噌の中が少し綺麗になってきて、私は頭を使って自由になろうともがくから、自分の肉体の限界を知ってそれでも肉体を動かすことで自由になろうとしている人を見ることがとても癒しになるんだと思います。頭を使う人と対峙する時と違って、ジャンルが違うからとても楽なんだと思う。
「お前の分も考えるから、私の分も踊ってくれ。」
私の欲望、私の「セックスしてください!」は、この言葉に尽きるみたいなので、あんな風にみすぼらしく暴力的に押し付けるのではなく、あんなのよりもっと優雅に軽やかに突きつけられるように努力したい。

*1:むしろジャンプ失敗してるのに魅力的な選手というのが何人もいて、とかそういうことをずっと書き忘れてたけどそれはそれで長くなるから別の機会に

*2:SPでタムタムに合わせてトントンってブレードをリズムよく刻む中華包丁みたいに下ろす所大好き。どうでもいいけどタムタムって単語と概念が自分の中に眠っていたことに驚いた、多分15年ぶりくらいに出てきた言葉