2010-01-29 サリンジャーのことなど
■サリンジャーのことなど
今日は終日、クミアイ活動で外出。帰宅してブログ散歩をしていて、
サリンジャーが亡くなったことを知った。91歳、とのこと。
これからいろいろな人が新聞などでコメントを出すのだろうが、
わたしはいつも見ているブログの記事に、いたく心を動かされた。
これ以上のコメントはたぶん新聞などでも出ないんじゃないか、ってくらい、感銘を受けたので、
人のブログ記事を引用する(トラックバックっていうのかな?)ことはめったにないんだけど、紹介してみる。
http://plaza.rakuten.co.jp/professor306/diary/201001290000/
大学のブンガクの先生に、こういう方がいるっていうのは、
やっぱりすごくいいことなんじゃないか。
ブンガクなどというのは、こんなふうに、ある時期ものすごくいれこんだり、ふとさめてしまって「卒業」したり、
でも、なんともいえない甘美な思いとともにずっと特別な存在だったり、と、
まるで恋愛のような付き合い方をするものだ。
ああ、なんか苦手、とか思いながらずるずるとひきずられたり、
自分だけがひそかに良さがわかってると思ってたのに、他人が「いい」と言うのを聞いたらとたんに色あせてみえたり。
まさに、恋愛そのもの。
上で紹介したブログの先生も、「他人には生半可な批判はさせない構えでございます」って、相当な惚れっぷり。
こういうブンガクとの付き合い方を、すべての人がするべきだ、とは、もちろん思わないけれど、
高校生や大学生くらいのときに、そういう世界もあるんだ、ということくらいは、
なんらかの形で知ることができたらいいなあ、と思ったりもする。
ちなみに、わたし自身について言えば、サリンジャーとは不幸な出会い方をした。
高校生のときに、『ライ麦畑でつかまえて』を野崎訳で読んだのだけれど、文体が鼻について、最後まで読めなかったのだ。
ところがイギリスに短期留学していたとき、ステイ先の家で暇つぶしにペーパーバックで読み、
うわあ、こりゃ、こんなにおもしろかったのか、と思った。と、同時に、もっと若いときに読めばよかった、とも思った。当時、24歳。
以後、『ナインストーリーズ』も『フラニーとゾーイ』も読んだし、村上訳のライ麦も、柴田訳の『ナイン・ストーリーズ』も一応、読んだけれど、
いまひとつぴんとこないまま、終わった。
でも、今も「高校生にすすめる海外文学」といわれたら、きっとサリンジャーの「ライ麦」をあげるにちがいない。
今なら、村上春樹訳か。でも、できれば英語で読んだほうがいいね。
2010-01-28 勝間和代と香山リカ
■勝間和代と香山リカ
今日はなんとなくぼんやりと、この二人のことを考えていた。
先日、ある研究会で、この二人の対立を導入に使った公開授業を見たせいかもしれない。
もし、勝間和代と香山リカ、どちらにより共感するか、と問われたら、
わたしは何と答えるのだろう。
このブログでも時々書いているけれど、
わたしは案外ハウツーものを読むのが好きなので、この二人の著書も結構、持っている。
それぞれ4、5冊は読んでいると思う。
勝間和代という人は、一緒にいたら疲れそうなので、友達になりたいとは思わないけれど、
彼女に憧れ、彼女の真似をして、カッコイイ働く女性になりたい!と思う人たち(カツマー、ですね)のことは、
理解できるような気がする。
たぶん、だれもが持っている自己肯定感とか向上心とかを、いい感じで刺激するのだろう。
わたしだっていまや企業の中でフルタイムで働いているわけだから、
この会社の中で自分がやりたい仕事を伸び伸びやるためにはどうしたらいいか、などと、時々考える。
もっと勉強しよう、とか、自分を変えよう、生活スタイルを変えよう、とか、さまざま殊勝なことを思い立ったりするわけだ。
一方で、香山リカの「そんなにがんばらなくてもいいんじゃない」というメッセージに、救われるような部分もある。
家族や友人に恵まれ、食うに困ることもなく、本にかかわる仕事ができている。
時々、理不尽だとか不公平だとか思うことはあるけれど、
まあ、波風は立てずにおこう。仕事で自分を追い詰めることはせず、趣味や家族との時間を大切にしよう。
そんなふうに思うこともある。
勝間も香山も理解できる。どちらも共感するけれど、どちらもインチキだとも思う。
それは、もしかしたらわたしが、この二人のちょうど真ん中の世代に属しているせいかもしれない。
1964年生まれのわたしの同期や先輩女性の多くは、結婚・出産の際にフルタイムの仕事を辞めている。
教員や公務員、医師や弁護士といった職業に就いた人ですら、夫の転勤や子どもの教育、家族の介護など、
それぞれの事情でフルタイムの仕事をやめて、パートタイムに切り替えたり、家族のゆるす範囲で趣味的な仕事をしたりしている。
そして、いまの若い人たちには意外かもしれないが、そういう選択をすることが、本人にとっても周囲にとっても、
ごく自然で、当たり前のことだったのではないかと思う。
そんな中で、今も働き続けている女性というのは、「特別」な人たち、という印象がある。
「女性としての幸せを犠牲にしてでも」とか、「男性と伍して働く」とか、まあ、そこまで悲壮ではないにしても、
それなりの覚悟というか、人とは違う道を選ぶのだ、という厳しさみたいなものがある。
(ちなみにわたしは、当時の「普通」をやろうとしたのに人生の荒波にのみこまれて気づいたら「特別」になってしまった、という、
「なし崩し組」なので、ちょっとテキトーなところがある…いや、だいぶ、か……。)
で、そんなふうに気を張っているこの世代の働く女たちにとっては、「がんばらなくてもいいよ」「少し肩の力を抜いたら」というメッセージが、
ものすごく心に沁みるらしい。
わたしがいろいろなことを犠牲にしてがんばってること、わかってくれてるんだ、
そのうえで、もうがんばらなくていいよ、って言ってくれるんだ、という感じだろうか。
一方、自分より下の世代、今の20代から30代の女性たちは、
最初から一生働くつもりで社会人になっている。
男性と同じように就職活動をし、スキルを身につけ、結婚退職など考えもしない。
産休・育休をしっかりと取得し、復職後もしなやかに働き続ける。
勝間和代がうまいのは、従来の男性ビジネスマン向け指南書に、女性向けのスパイスを少し効かせている、というところだ。
何も複雑なことは言ってない。本を読んだり、語学を勉強したり、食事に注意したり、お酒やタバコを控えたり。いいことばかりだ。
ブログを書くことも奨励している。ええ、ごもっとも。
日常的に文章を書くことは、仕事にプラスになるかどうかはわからないが、ストレス解消になってることは間違いないからね。
同じ1960年代生まれでも、前半と後半では、女性の生き方モデルみたいなのが、
ずいぶん違ってるんじゃないか、というのが、わたしの実感。
男の人たちや、それよりうんと離れた世代の人(いまの20代とか60代とか)にはきっとわからないと思うのだけれど、
このわずか10年ほどの間の変化は、わたしたちの精神状態に大きく影響しているような気がする。
「なし崩し組」のおまえに何がわかる、と言われそうだけれど、
つい先日、某一流企業に勤める5歳年上の女性と話していて、彼女もこの変化の中で、左右に揺れて悩んできたのだなあ、と感じた。
ちなみに、東大の女子大生の就職活動を描いたノンフィクション『クリスタルはきらいよ』でデビューした作家、岸本葉子さんは、1961年生まれ。
「特別」な働く女性を目指した岸本さんが、ガン闘病を経て、『ゆる気持ちいい暮らし術』というような本を書くようになったというのは感慨深い。
勝間和代も香山リカも岸本葉子も、みんな、手放しで「共感」はできないけれど、
「わかる、わかる」という感じがする。読むことで、励まされたり、ほっとしたりする。
ハウツー本といっても、そうばかにしたものじゃない。
周囲の男性が彼女たちのことや著書を見くだしたような発言をするのを聞くたび、
自分が見下されたような気がして、少し、胸が痛む。
2010-01-24 「張りがありますなあ」
■「張りがありますなあ」
今週末はいろいろと落ち込むようなことがあった。
出張先で電車事故にまきこまれるとか、同居人が自転車で怪我をしたりとか、
こちらには非のない不運もあったし、
自分の浅慮のために大切な先生を怒らせてしまうという大失敗もあった。
そういえば、木曜日に保険の外交さんが持ってきてくれた占いに、
しばらくは運気が悪いので、なるべくじっとしていたほうがよい、と書いてあったっけ。
そういわれてもサラリーマンとして働いている以上、
出張や会議をやめるわけにはいかないのだから、仕方がない。
ここのところちょっと、仕事が楽しいと浮かれていたから、
少し心を引き締めよ、と神様がお考えになったのかもしれない。
出張先の駅の待合室で、こんなことがあった。
特急列車が来るまで、あと20分以上あったから、駅のホームの自販機でコーンスープを買い、待合室に入った。
20席くらいある椅子はほぼ満席で、いちばん奥にぽつんと一つ、あいていた席をみつけ、そこへ座った。
となりには3歳くらいの男の子とお父さん、それにおばあちゃんの3人連れが座っていた。
この子が、めちゃくちゃかわいい。
電車はいつくるのかとか、待合室の中のものをあれこれ指差してその名前をたずねたりとか、
いかにも地方ですくすく育ったやんちゃな子って感じで、
それにてきとーに答えているお父さんも、ちょっとつかれた様子であまり「りっぱ」な感じじゃなくて、
わたしは疲れているとき近くにうるさい子どもがいたりするとかなりいらっとするんだけど、
このときはなんだかこの子を見ているだけで、心が洗われるような感じがしていた。
わたしの向かいに座っていた70歳くらいのおばあさんも、同じように感じていたらしく、
その男の子に向かって、「どこ行かはるの?」とたずねた。
おばあちゃんとお父さんに、「ほら、どこ行かはるの、て」と促されて、その子は、
なんとかシーパラダイスというところに行って、鳥羽水族館に行って、なんとかでおさかなを見て、なんとかを食べる、というようなことを、
そのおばあさんに一生懸命話した。
おばあさんはいちいち、「そうなん」と驚いた顔をしたり、「いいなあ」とあいづちをうったりして、
そのやりとりがあんまりほほえましいので、そのとき待合室にいた人はわたしを含めほぼ全員、
いっしょになって、聞き入ってしまったのだった。
ほんの5分ほどの短い時間だったけど、待合室全体がその男の子を中心にひとつになった、という感じだった。
鳥羽方面の特急が来て、その男の子たちが待合室を出ていくとき、
わたしの向かいのおばあさんは、男の子のおばあちゃんに向かって、
「張りがありますなあ、こんなかわいらしお子がいらっしゃると……」と言った。
そうか、と思った。
子どもたちに未来を託す、とか、未来を担う子どもたち、とか言うことばを聞くたび、
けっ、と思ってしまう偏屈なわたしだが、
70歳くらいのおばあさん同士の会話として、「張りがありますな」というのは、うーん、なんていうか、わかる気がしたのだ。
以前、祖母が入所している老人ホームに、赤ちゃんを連れてきた人がいて、
赤ちゃんがいるだけで、ホームがにわかに活気づいて、おじいさん、おばあさんたちがうれしそうにしていたのを思い出す。
子どもや赤ちゃん、若い人たちが近くにいるということは、年配者にとってはそれだけで「張り」になるのだ。
そういえばわたしもその前日、出張先で、地方の高校生たちを大勢見て、ことばを交わしたのだけれど、
若いっていうのはそれだけで、いいことだなあと素直に思った。
子どもたちの未来のために!とか言われちゃうと、なんにもやる気がなくなるけど、
なるほど、関西弁で「張りがありますなあ」と言われると、そうだよなあ、と思う。
いまの仕事はいろいろひっかかることもあって、時々、辟易したり、うぇっとなったりするんだけど、
そういうときは肩の力をぬいて、「張りがありますなあ」ってくらいの肯定さ加減(←変なことば、造語です)で、
つきあってもいいのかもしれないな、と思ったのだった。
ところで、このブログはもともと、「読書ブログ」のつもりだったのに、
ここのところ情けないくらい、読了本についての記述がない!!
こんなことではいかんなあ……ということで、
いったん「キンドル」をお休みし、大江健三郎の『水死』を読書中。
これまでのところ、大変おもしろい。先を読むのが楽しみだ。
2010-01-20 30パーセント仕事がらみ
■30パーセント仕事がらみ
ここで時々書いているように、最近会社の残業・休暇の制度が変わり、
休日に編集会議等で働いてしまったら、ものすごい勢いで代休を取得しなくてはいけなくなった。
うっかり代休をとりそこねたりすると、上司からチェックが入る。
最初は軽いジャブ、だんだんしつこくなるようだが、わたしは今のところ軽いジャブですんでいる。
もちろん、上司も好き好んでこんなことをしているわけではないのだろう。
なんとか超過勤務・過密労働を減らそうという努力の一環なのはよくわかるので、
言われるがままにせっせと代休をとっている。
というわけで、今日も1日、代休。
昨日、某私立高校の先生にお会いし、国語の教科書や授業について雑談した。
正直言って予想外に楽しかった。へえ、という感じでちょっと驚いている。
営業で学校まわりをするときと違って、何かを売り込まなくちゃいけないわけじゃないので、
気軽に話ができる。教科書や授業のことを核にしながらも、小説や評論の固有名詞もとびかいはじめ、
先生のホンネというか、「教師」という顔で話していることとは別種の、「本好き」の人の顔がのぞく。
おお、今の仕事は、自分自身がうまく立ち回れば、かなり楽しくこなすことができるんじゃないの〜?と、
明るい気持ちになって、初めての町の商店街を歩いたのだった。
そんな気分をひきずって、代休取得しているものだから、
自宅にいても30パーセントぐらいは仕事モードで、ネットで調べものをしたり、仕事に役立ちそうな本を漁ったりしていた。
午後、買い物に出かけ、喫茶店で小谷野先生の『文学研究という不幸』を読了。
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: ベストセラーズ
- 発売日: 2010/01/09
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 156回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
これなどはまさに仕事度30パーセントで、大学の文学部や人文学研究がどうであろうと、一見、いまのわたしには関係がなさそうなのだが、
教科書という、高校生に「強制的に」文学作品を読ませようとしている媒体の編集者にとって、
「文学研究」が世の中からどんなふうに見られてきたのか、そして今、どんな状態になって(しまって)いるのか、を、
具体的に詳細に述べてある本書は、30パーセントぐらいは仕事の役に立つ「実用書」なのである。
……そうはいっても、残り70パーセントは個人的な興味。
次々に繰り出される大学人たちの固有名詞に、眉をひそめたり、ふふっと笑ったりしながら、
喫茶店→バスの中→自宅、の約3時間ほどで一気読み。(ああ、鞄の中のキンドルは……!)
上記の本を読了した勢いで、「日本近代文学研究者」と肩書きのついた小森陽一『大人のための国語教科書』を再び手にとる。
1972年生まれの若く志の高い高校教師と小森陽一が、真剣に語らっている姿が目に浮かぶ。
この本の中身をちゃんと読めば、帯の文句「教師用指導書の嘘を暴く」「国語の授業はなぜ眠かったのか? 教師用指導書が間違っているからだ!」は、
著者が伝えようとしたこととは、ちょっと距離があるということがわかる。
安易な「指導書批判」の書ではない。小森センセイも前田センセイも、学校教育の枠の中でできることできないことを十分にわかったうえで、
なんとかしよう、と真摯に取り組んで、この本を書いたにちがいない。
……それでも。
なんとなく、けっ、と思ってしまうのは、なぜなんだろう。
たぶん、ここで「結論」めいて書かれていることが、あまりに自明のことだからだ。
ここで問い直してみなければならないのは、「単一の主題(意味)を小説から取り出す能力を身につけさせること」が「国語教育」なのか、ということです。
多層的で複数の意味を言葉に担わせようとしている小説というジャンルの言葉から、「単一の主題(意味)」を取り出そうとすることは間違いだと思います。
とりわけ作中人物の心理や感情については、なおのことだと思います。
むしろ、一つの表現からどれだけ多様で複数の意味を引き出すことができるのか。
しかも教室にいる仲間を説得できるように、自分の解釈の妥当性をその文学テクストの全体構造とのかかわりで論証できるかどうかこそ、
文学テクストの読解力だと思います。(250ページ)
これを自明のことだと思わない国語教師のほうが、少ないんじゃないかと思う。
「本書で分析したような教師用指導書の方向づけに縛られることなく、生徒たちとの本気の対話を通じて授業実践を行っている多くの「国語」教師が
全国にいることもわかっていただきたいと思います。」(15ページ)とあるけれど、
そういう「国語」教師たちは、「生徒たちのとの本気の対話」なんていうことばに頬を赤らめながら、
今日も生徒と向き合っているんじゃないのかなー。
小谷野先生の先ほどの本にも名前が登場する東京大学の阿部公彦先生が、今月、紀伊國屋の「書評空間」でとりあげているのは、
橋本治『小林秀雄の恵み』。小林秀雄も、高校国語教科書の常連さんなので、この本は仕事度30パーセントくらいか。
いつものことながら阿部先生の引用はみごとで、「ほお、んじゃ、読んでみるか」という気にさせられる。
本を買ってもらいたい書店のウェブ書評ということを考えると、なかなかの商売上手ってことだ。
(もっとも、紀伊國屋書店の会員になっていないので、結局、ほかの書店で買っちゃうんだけど……)
……という具合に、どんどん読みたい本、読まなくちゃいけない本が出てくると、「キンドル」がますます重くなってくる。
先日、翻訳学校の校長先生に久しぶりに会いに行って、いまは編集の仕事が楽しい、という話をしたら、
「会社辞めたくなったら、また翻訳をやればいい」と言ってくれた。
「いや、もう、英語力が地に落ちてます……」と言ったら、「その分、日本語力を磨いているんだから」というやさしいおコトバ。
自分で翻訳をするのはもう無理かもしれないけれど、やさしい小説を英語で読むくらいの英語力はキープしたい。
そのためには「キンドル読書」、あきらめたくないんだけどなあ。
2010-01-17 ぐったり週末
■ぐったり週末
前回、「どんとこい」なんて「トリック」に出てくる超常現象の本みたいなことを書いたのだけれど、
いやはや、わたくしも年をとったもので、
2日目も3時間の会議+飲み会を終えて(しかも通常どおりの7時間勤務を終えた後に)、0時過ぎに帰宅したときには、
さすがに「毎日更新」のためにパソコンを開けるパワーすらなく、
倒れ込むようにしてふとんへ直行。
3日目はさらなるハイテンションで午前中から休日出勤し、めくるめく3時間+飲み会をこなし、
翌日は休みということもあってつい飲み過ぎたようで、
先生方や同僚と別れて井の頭線に乗るころにはすでに頭は働かなくなり、
久我山から自宅までの道を、ゆーらゆーらといつもの倍ぐらいかけて帰ってきた。
というわけで、今日はぐったり週末、のんびり休息の日曜日。
自転車で吉祥寺に出かけ、食事・買い物をしたあと、もっともくつろげる場所、本屋へ。
久しぶりなので、心惹かれる本はたくさんあったのだけれど、
ことあるごとに鞄の中のキンドルや、机の上に積んだままになっている「水死」が思い出されて、
プラプラみてまわるだけで、結局めずらしくも一冊も買わずに店を出た。
パルコの地下の本屋は、レジ横の目立つところに、書評でとりあげられた本をまとめたコーナーがある。
一番上の棚は、やはり「朝日新聞」。
誇らしげに並べられた本の中に、知人の翻訳している本があった。
今朝、いつもの日曜日のように新聞の書評欄を読んでいて、あ、と思った。
翻訳学校時代の仲間が訳した本が、かなり大きくとりあげられている。
しかも、書評の最後に、この本の訳者が手がけた本にはハズレがない、「もはや信頼のブランドだ」という褒められよう。
これは、すごい。
いつか小川洋子がどこかで、柴田元幸が訳している本だと、安心して読める、というようなことを書いていたけど、
いわゆる「訳者読み」されるようになるなんて、翻訳者冥利につきるではないか。
誤解している人もいるようだからあらためて書くけれども、
翻訳というのは、決して儲かる商売ではない。
また、英語力があれば、すぐに仕事ができるようになる、というものでもない。
だから、翻訳学校には高学歴の方、英語力に自信のあるすぐれた方が大勢、
意気揚々と入学してくるけれども、なかなか息が続かない。
「何年もデビューできずに勉強を続けている人は力がない人で、
自分だけは1、2年もやればデビューできるのではないか」と内心思っている人も多いのか、
仕事の話がないまま、3年、4年たつうちに、学校の仕事の斡旋の仕方や先生の評価基準に疑問を持つようになり、
やがて、「この人たちには見る目がない」と学校や業界に見切りをつけて、離れていってしまう。
そんな中で、彼女はものすごい努力家であり、粘り腰だった。
今となっては僭越至極だが、当時、翻訳学校の中では一応、わたしが先輩格だったので、
訳文を見たことがある。几帳面に、一生懸命訳しているけれど、文章が生硬な感じがした。
少し迷ったけれど、彼女のまじめさに敬意を表して、その感想を率直に、具体的に伝えた。
編集の仕事をするようになってますます感じるけれども、
だれでも自分の書いた文章に意見されるのは、嫌なものだ。わたしだって、もちろんそう。
でも彼女は、とても真剣に受け止めてくれた。
この人はきっとこの先、翻訳家として一本立ちするだろうなあ、と思った記憶がある。
一本立ちどころか、いまや「信頼のブランド」だ。拍手喝采、である。
先日も朝日の書評で、知人の翻訳がとりあげられていたし、
書店で開かれたトークショーに出た友人もいる。
地味に翻訳を続けているのに、意外にも訳書が版を重ねて、びっくりしている友人もいる。
最近やっと、彼らの活躍を素直に喜べるようになった。
「わたしだって、続けていれば……」という気持ちが、まったくないか、と言われると自信はないけれど、
でも今は、彼女たちだからこそ、ここまでこれたのだ、と思う。
彼女たちにはいくつか共通点がある。
まず、勤勉。それから、自信と謙虚さのバランスがいい。そして、この仕事に対する愛がある。
そして編集者となった今、わたしが翻訳の仕事を頼むとしたら(いや、残念ながらそういう機会はなさそうなのだが)、
やっぱり、勤勉で、自信と謙虚さをあわせもち、翻訳の仕事に対する愛情をもった人にお願いしようと思うだろう。
そういえば、今朝の朝刊には、センター試験の国語の入試問題も出ていた。
まだちゃんと問題まで目を通していないが(これは仕事モードなので、月曜日以降にと思って……)、
現代文の出典が、岩井克人に中沢けいかあ、というところに、いろいろと思いをめぐらせている。
これからしばらく、いろいろなところでセンター試験の問題評が出るだろうけれど、
いわゆる教育関係者ではなく、一般の本読み人たちは、どんな感想を持つのだろう。
聞いてみたいものだ。