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北烏山だより このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-10-22 それを個性とはよばない

それを個性とはよばない

中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。

「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」

そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。

いうまでもなく、ここで言っている「先生の読み」とは、

この作品はここで感動しなくちゃいけない、とか、

ここからこういう道徳的な価値を見出さなくちゃいけない、という話では断じてない。

この作品は、当然、こう読めなくてはいけない、ということは、

たとえ本文にハッキリ書いていなくても、厳然としてある、とわたしは思っている。

そこのところが読み取れていない、ということは、

国語力、読解力が不足している、ということなので、

そこでとんちんかんなことを言うのは、「個性」でもなんでもない。

そういう部分に対して、

「なるほど、おもしろい見方だね」と言って肯定していくことは、教育ではない。

それが教育ではないのは、

「君の読み方は間違っているよ」とだけ即答することが教育でないのと同じくらい、

教育ではない。


同様に、たとえばある本の書評が、

その本がどういう本なのか、その本の魅力はどこにあるのか、が、

読む側にまったく伝わらない、意味がわからないとしたら、

それは、「個性的な文章」でもなんでもなく、単にひとりよがりなだけだ。


「みんなちがって、みんないい。」

まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。

けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。

子どもは教育によってその「お約束」を身につけていくのだけれど、

その「お約束」の身につけ方はさまざまだ。

なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する答えはもしかしたら一生でないかもしれないけれど、

「人を殺してはいけないのです」というお約束をたたきこむことはできる。

「『舞姫』の太田豊太郎はなぜエリスを捨てたのか」という問いに対して、

唯一無二の答えなどないと思うけれど、

「他に好きな女ができたから」という答えは誤答だ。

でも、「太田豊太郎の行動をきみはどう思うか」という問いに対しては、

それこそ「みんなちがって、みんないい。」

ただ、「最初いいと思ったくせに飽きたからって女をすてるなんて最低だ」という意見があったとしたら、

「豊太郎はエリスに飽きたからすてたのかな?」と、お約束をクリアしていないと思われる部分に対して、

示唆を与える必要があると思う。


文学における「お約束」の厄介なのは、

はっきりとした線引きがない、ということだ。

以前、若島正さんの講演に行ったとき、

「この作品は、こうとしか読めない、という線がある」という話をして、

その線があまりに高いのに驚いた。

「ええ〜っ」と思ったけれど、若島さんがそう考える根拠の説明を聞くうちに、

なるほど、そうとしか読めない、と考えるようになった。

若島さんは「読み巧者」として、読み手として発展途上にある私という読者に、

新たな「お約束」を教えてくれた、ということだ。

こんなふうに、文学の「お約束」の線引きは常に、

個々の作品と読者によって決まる。

たとえば「ごんぎつね」について、「4年生だったらこれくらいまで読めれば十分で、

ここまでの読みを要求するのは酷だろう」というような言い方がある。

これはあきらかに、教える側の「大人」と教わる側の「子ども」との間に、

「お約束」理解度、浸透度、という点で差がある、という前提のうえの言説だ。

こういう言い方に対して、

「教える側、教わる側、という考え方じたいがおかしい」

「お約束理解度、浸透度に差がある(子どものほうが劣っている)とは、何たる傲慢」

という批判も、当然あるだろう。

でも、ここの部分については、わたしはやっぱりどうしても譲れない。

「お約束」の部分を押さえずして、何が「教育」だ。

自らの思想や道徳観を押し付けることとの違いをふまえずして、何が「教育者」だ。


ふう。なんか、くたびれちゃた。

明日会社行きたくないなあ。

tsstss 2008/10/23 12:20 そのお約束を説明できず、ここはこう決まっているんだ、としか答えられない先生が(かなり)いるのが問題なんですよ。

高橋源之助高橋源之助 2008/10/23 14:07 礼儀や作法なども含め、社会には理屈のあやふやな「お約束」が沢山存在して、しかもそれを前提に成り立っていることが多いわけですから、何でもかんでも「説明」が必要というわけでもないですよね。説明不能なものは約束やルールとして成り立たない、なんてことはないわけです。

そういうのを「常識」といいます。
常識は、理屈ではないですから「ふさわしい教え方」があるわけです。
いわく「そう決まっている」です。

otsuneotsune 2008/10/23 15:11 いや説明不能なものは約束やルールとして成り立たないんですよ。
常識は「理屈」ですから、発祥や歴史がほぼ存在する訳で。

もちろんそう思わない人がこの世にいたって良いんですけど、個人的には「僕はこう思う。なぜなら○○だからだ」という説得力のある具体的根拠を出して自説を展開して欲しいよなぁとは思います。

jo_30jo_30 2008/10/23 16:54 一つだけ。
国語の授業というのは、たとえば「ごんぎつね」なら
(A)「ごんぎつね」というテクストの読みを教える
ことにあるのでなく
(B)「ごんぎつね」のようなテクストを読める力を育てる
ことにあるのではありませんか?
そして(B)の目的を達成するために教師が選びとる方法はまた様々であり得るので、単純にある方法やその一過程を見て「それは教育ではない」というのは往々にして速断になると思います。「きみの読みはおもしろいなあ」と教師がある生徒を評価するときその背後には当該生徒だけでなく周囲の生徒にも見えないような様々な狙いがあるわけで、かかる教師を単純に「みんな違ってみんないい教信者お花畑教師」だと切って捨てたのでは教師が浮かばれません。
「できる子・できない子」を一つの物差しで単純選別することが教師の役割なら世の中にそんな楽な商売は無いと思われるでしょうが「できる子もできない子もひっくるめて一つのクラスを作り運営する」というのはそう簡単な事ではありません。できる子にできる子の役割を与えて伸ばし、できない子にできない子の役割を与えて生かす、といった視点がそこには必要になります。複数の物差しが必要になるゆえんです。

ちなみに余談の方にも突っ込んでおきますが、個人的には、豊太郎がエリスに『飽きていない』というのも少し速断だと思います。そもそも一人称独白体の小説で語り手の話を100%信じる読み方というのは余り適切ではありません。「舞姫」のテクストをよく読めば、鴎外が豊太郎の語りに「確信的に」様々な破綻点を仕掛けているのが分かると思いますし、その観点からすれば豊太郎は「実は」エリスに飽きていた、というのは充分成立する範疇内の読みだと思いますよ。

徳保隆夫徳保隆夫 2008/10/24 01:27 はじめまして。「ごんぎつね」の場合、ごんに「かけよってき」た兵十の気持ち、の読み取りが有名ですよね。兵十はまず家の中を見て、ごんにいたずらされていないかどうかを調べる。すると栗の実に気付く。そして、足元で死にかけているごんに目を落とす。兵十にとって、その生死も含めてごんは重要でなかったことが、行動からわかる。作者の描く物語はごんを中心に回っているけれど、作中人物たちは必ずしもごんに最大の関心を払わない。「兵十はかけよってきました。」という文章から早とちりしちゃいけないよ、という小説読解の授業に最適な課題のひとつだと思います。

 2008/10/24 08:07 jo_30氏のような教育側の視点というのは一般には持ち合わせていないので、学生だった経験で教育に関する論を展開してしまうのはままあること。

trshugutrshugu 2008/10/24 11:38 バカは個性じゃない、ってことかしら?

burebure 2008/12/06 01:06 中学レベルで回答に異論がはさめるような問題を出すなばか!
ということではないのか、その保護者の真意は。
もし回答に自分も気づかなかったハイレベルの解釈がされてたら
どうすんだろう?100点オーバー点けるの?

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