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martingale & Brownian motion このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-08-14

なにが比喩なのか?

文系の学問が、理系に比べたとき、議論のどこかに「だまし」があることは、ようするに人文系の学問が、そもそも理系の

  • 比喩

で理論が形成されていることをよく示している。

例えば、「形容詞」というものがある。私たちは日常言語において、当たり前のように形容詞を使っているが、そもそも形容詞には内実的な意味がない。形容詞はあくまでも、

  • 他のもの

との「程度」を指示するものに過ぎず、本質的には形容詞は何も語っていない。ではなぜ私たちは日常的に形容詞を使用して、その効果をだれも疑っていないかといえば、それが

  • 話している相手

との文脈の中で、今まで使ってきたその形容詞の効果を疑っていないから、ということになる。つまり、この形容詞を過去に使って得られた効果が、次に使ったときに得られないと考える理由がない。そうである限り、この効果を懐疑しなければならない、その文脈での理由がないからだ。

こういった問題がおそらく最も露出する場面こそ、この人文系と理系の

  • 境界

に関係した分野が議論の争点になるところだろう、と考えられ、このことの、最も大きな係争となったのが、いわゆる

だと言えるだろう...。

2018-08-12

小島毅『志士から英霊へ』

私は第二次ベビーブーマー世代になるのだと思うのだが、この世代にとって、この日本とはなんだったのか、なんていうことを考えてみたりする。そうしたとき、例えば

がある。日本は、象徴天皇制を採用している。ところが、ここでいろいろとひっかかってくるわけである。今回の天皇生前退位の問題では、なんか、よく分からない

なるものが現れて、この交代は恒久立法ではなく、時限立法で行おうとか、元号の発表はギリギリまで引き伸ばそう、とか。そこで

  • あれ?

っと思うわけである。こいつら「何者?」って。そもそも、この国は民主主義国家であり、あらゆる決定は民主的に行われるはずなのに、なに、この連中はなにかが最初から決まっているかのように、諫言しているのだろう、って。

そして、そう考えてみると、ようするに日本の「天皇制」を今もって

  • 決めて

いるのは、戦前から悪名高い「水戸学」の連中だ、ということに気付くわけである。

もちろん、こう言ったとき、水戸学とは「靖国史観」と言ってもいい。靖国神社の「思想」が、完全に水戸学によって成立していることを考えれば。大事なポイントは、この「水戸学」は戦後のGHQでは、さまざまに言論統制の下に管理されていたわけであり、その流れから、今の靖国神社の「宗教法人」化もなされているわけだが、こうやってGHQもいなくなると、しれっとこの連中が

  • 復活

している、というところにあるわけで、そしてそのことに日本の多くの国民がなにも疑問に思っていない、というところにある。

ということで、以下で「水戸学」について考察していくわけだが、その際、まずもって考えなければならない人物が、今の安倍総理が最も「尊敬」する人物として挙げている「吉田松陰」であることは間違いないわけであろう:

吉田松陰の場合、安政の大獄で牢にあり、それこそいつ最期を迎えるかも知れない境遇にあって、明末の陽明学李贄(りし)(卓吾)の書物に出会い、彼に共感してそのことを熱く語ったことは有名である。松陰陽明学者に分類する根拠もそこにある。

言うまでもなく、吉田松陰は「水戸学」の影響を受けた人物である。そして、水戸学とは、簡単に言ってしまえば「朱子学の日本版」を目指した、江戸時代水戸藩で脈々と続けられてきた、「大日本史」などの、歴史書の編纂活動に伴って発達してきた

のことであり、ようするにそのベースは完全に「朱子学」である。では、ここで吉田松陰に関係して取り上げられる「陽明学」とは何か、となるわけだが:

王守仁の体験は通常、地名にちなんで「龍場の大悟」と呼ばれる。王守仁は名家出身で高名な父親を持ち、自身も科挙で好成績で合格したエリート官僚として、昇進街道を突き進んでいた。そんな彼が、権力者に逆らったために辺境の地に左遷され、死をも覚悟するにいたる状況のなかでたどりついた結論が、「心の外に理を探し求める(朱子学流の)やりかたの誤り」であった。この「心即理」説が「知行合一」説と表裏一体をなすものであることは言うまでもない。つまり、王守仁は死を見据えることで陽明学を樹立できたのである。

大事なポイントは、陽明学はあくまでも朱子学の「分派」であり、それは正統と異端といった関係があるに過ぎなく、本質的なところでは朱子学の基本的なベースを共有するものに過ぎない、という関係にある、ということである。

では、なぜ多くの有識者が「朱子学」ではなく、あえて「陽明学」を言挙げするのかということになるわけだが、それが王守仁の

に関係している。この境遇を、吉田松陰は「共有」するからこそ、あえて陽明学に言及する。朱子学は厳密な「ルール」の世界である。このルールの範囲で逸脱すれば、どんなに体制順応の心性を深くしている「右翼」でも、体制から外される。しかしそれに

  • 納得できない

と、どこまでも我を主張するのが「陽明学」である。自分の体制順応の「恭順」の深さは、どこのだれにも負けない「優秀さ」があるにも関わらず、なぜ自分が、体制から「ハブら」れなければならないのか? こんなことがあってはならない。少なくとも「思想」において、自分のこの心の「正しさ」がねじ曲げられるようなことがあってはならない。

ようするに何が言いたいのか?

  • 理屈じゃない

というわけである。あらゆる理屈を「飛び越え」て、なにかの「行動」が

  • 絶対的

正当化される。それは「テロ」かもしれないし、「切腹」かもしれないし、いずれにしろこの「行動」が

  • 体制順応主義者でありながら、体制から「ハブら」れた連中にとっての「正しい」なにか

として肯定される、その「危険」さに、この問題の本質がある。

例えば、「死」の問題がある。儒教はこの「死」について、何も語っていないように思われるかもしれない。しかし、それは違う。少なくとも「朱子学」は、かなり

  • 重要

なことを語ってきたし、それらが「水戸学」においても重要視されている:

同じ『論語』には、行為主体がみずからの生命をかけて何かをなすべきことについての訓話もある。衛霊公篇の孔子のことば。「志士・仁人は生を求めて以て仁を害なうことなく、身を殺して以て仁を成すことあり(志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁)」。

いたずらに生きながらえればよいというものではない。古今東西、多くの思想家が説いたであろう人生訓を、孔子は「仁」という価値規準によって表現する。言うまでもなく、仁は彼の思想教説の中心概念であった。

この章について、朱注はこう述べる。「理として死ぬべきときに生きながらえることを求めたりすると、その人の心には落ちつかない不安が生じる。これは心の徳をそこなっているからである。死ぬべきときに死ぬならば、心は安らかであり徳は保全される」。

要するに、ここで言われているのは、人間としてなすべき事柄----それが何かはいかなる道徳的規準を当事者が有するかによることであり、もちろん朱子学には朱子学なりの規準があるわけだが、今そのことは問題ではない----が眼前にある時、それがどのような効果をもたらすかを思案熟考するのではなく、ただなすべきこととしてなせという訓えである。他の条によれば、朱熹孔子の言う「仁」を「自分の心に宿る正しき道理(吾心之正理)」と解してその内在性を強調しているし、残りもう一つの条では、定常時の心がけがこうした死生にかかわる重大事にあたってものを言うという趣旨のことをが説かれている。はたから言われてするのではない。みずからの良心に基づき、普段どおりになすべきことをする(行所当行)には、当人の日頃の覚悟が肝心というわけだ。

ここで「死ぬべき」ということを「テロを行うべき」と解釈しよう。テロを行えば、多くの場合、体制に逆らうわけだから自分が

  • 処刑

をされてしまう。つまり、「テロを行う」ということが、ほぼ「死ぬ」と同値に考えられる。しかし、その場合に、上記朱子学の解釈は少し「危険」なにおいがしている。それは、その「テロを行う=自殺をする」ということが、果してどこまで

  • 理屈に合っているのか?

について、そこまで重要視していない、ということなのだ。

それは本当に普遍的な正義なのか? そういったことが、どこか疑わしいものであったとしても、ただただ朱子学は「普段どおり」になすべきことをする、としか言わない。ようするに「テロを行う=自殺をする」ことは

  • 普段どおり

の延長に「ある」としか言っておらず、その「合理性」を本質的に問うていない、というわけである。自分が今、「テロを行うべき=自殺を行うべき」と思わずにいられないことには、なんらかの天の「合理性」がある。しかしそれは、あくまでも「自分の実感」でしかない。しかし、

  • それでいい

というわけで、その自らの中の「確実に思える」間違えなささえ、大きければ大きいほど、その客観的な妥当性は問われなくなる。

このことは何を示唆しているのか?

ようするに、

  • 主人(=皇帝)への徹底した「従順」

である。

なぜ高徳は笠置に行こうとしたのか。そしてまたなぜ「志士仁人」たらんとして後醍醐帝奪還計画を練ったのか。『太平記』では、それが臣下として当然のこととして語られ、あえて説明されていない。事は楠木正成出馬についても同様である。彼らはまさに滅私奉公の権化として後醍醐帝の理想実現のために奮闘邁進している。しかしながら、これが歴史的事実でないことはいうまでもない。彼らがそう行動した本当の理由は別にあったのだろうが、『太平記』はそれを語らない。代わりにその動機として持ち出すのが「志士仁人」性なのである。

上記の引用は「太平記」についての掲題の著者の分析であるが、これは非常に重要である。太平記は「物語」であって「歴史」ではない。しかし、その意味は、そもそも「歴史」なるものは、「物語」の形をもってしか書かれえない、ということなのだ。歴史が物語としてあるということは、その歴史は必ずなんらかの「イデオロギー」によって、統一的に

  • 整理

されるということであって、すべての物語は

ということを意味する。

世の中の「科学的」な意味での「エビデンス」は、いろいろ論争もあり、今もって確実な「真実」はないかもしれない。しかし

はある。つまり、

  • 主人(=皇帝)への徹底した「従順」

を「なすべき」こととして要請する命題は間違いなく存在する。ここで体制から「ハブら」れた体制順応主義者は、

  • なんのために生きるのか

の問題を前にして。

  • 理屈を超えて

自らのこの

  • 主人(=皇帝)への徹底した「従順」

の強力さを、ただただ「示す」ことにこそ、全ての「生きる意味」を見出す。それは、その行為が本当のところ「科学的」に

にとって「役に立つ」のかどうかを「超え」て、どうしても、そいつの「納得感」の中で、どうしてもやらずに済ませられない、といった「溢れる感情」という形でそれが

になる。

呂大圭と同じく、元に投降するのを潔しとせずに死を選んだ人物として、文天祥がいる。彼は状元(科挙主席合格者)として宮界のエリートだったが、権臣賈似道(かじどう)に楯突いて地方に出されていた。臨安(抗州)に危機が迫ると呼び戻されて宰相となり、元との交渉にあたる。宋政府無血開城天無条件降伏の道を選んだが、彼自身はレジスタンス運動に身を投じ、捕えられて大都(北京)に護送される。元世宗(クビライ)から臣従するように説得されたが応ぜず、刑死した。

彼の「正気歌」は朱子学の世界観にもとづいて、天地の正気が艱難時の英雄たちの行為として現れることを、いくつもの事例を列記して述べ、三網・道義の前には生死は論ずるに足りないとして、自分が宋への忠節を貫いて死ぬ覚悟を詠った詩である。尊皇攘夷という文言が登場するわけではないのだが、後世、宋の皇帝の忠節を尊皇、元に屈服しなかったことを攘夷として解釈されるようになる。

東湖の詩は文天祥模倣して書かれているのだから当然であるが、二つの詩は同じ構成を採る。、すなわち、冒頭で理気論による世界像を展開し、人間もその一部であることが示される。そして、正気がはたらいた事例として古今の人物の事績が語られ、自分をその系譜に位置づける。終盤では自分の置かれている不遇な状況を描写し、しかしなお正気をはたらかすことであるべき生を遂げる決意が表明される。人生は倫理的価値を実現するため、すなわち天地の道理に適うことのためにあった。正気は個々人の生命を超えてつながっており、それゆえ尊重されねばならない。

私たちは何のために生きるのか。この古今東西つねに問われてきた倫理的設問に対して、「正気歌」は明快な回答を与えている。生命それ自体よりも高次の価値として尊皇攘夷という理念があり、しかもそれは人為的な約束事ではなく天地自然の道理だとする見解である。私たちの生命は天地から(父母を通して)賦与されたのだから、道理のためにはみずから進んで提供しなければならない。これが彼らの実践倫理であり、そのようにして生命を捧げた場合、「英霊」として天地の正気に溶け込むことができると思念された。作者の文天祥藤田東湖がこうした生を実践したこともあって、この生き方が規範として敬仰され、多くの「英霊」を生み出すことになった。

そもそも朱子学とは中国の元の時代の思想運動であり、元とはモンゴルチンギスハンに、つまり、「夷狄」に中国が占領された時代に作られた思想運動であり、ようするに文天祥がどんなに強がっても、この磐石な体制変化を覆すことはできない。しかし、これが朱子学であり「水戸学」なのだ。例えば、日本の時代区分に、南北朝時代というのがあるが、戦前の日本では、南朝

  • 正統

とされていた。しかし、これはよく考えると「おかしい」わけである。なぜなら、今の天皇北朝の系統なのだから。じゃあなぜ、そうであるのに、水戸学はそう主張するのか? それは、彼らがそれが

  • 正しい

と考えたから、というに過ぎない。それは、「元が間違っていて、漢民族王朝こそが正しい」という主張とまったく同型の発想である。それは今の「事実」を

  • 超える

わけで、そしてそのことになんの「矛盾」も感じない。

よく考えてみれば、ここで文天祥がやっていることは、どこか滑稽な印象を免れない。なぜなら、すでに元という国家ができていて、もう前の体制に戻ることがないことがはっきりしているのだから。しかし、だから、だからこそ、朱子学

彼の態度こそを礼賛するし、この状況を、幕末の志士は自らの「日本」の「西欧列強」に今にも侵略されそうな時代状況に読み取ろうとする。日本は今、西欧列強に侵略されそうであり、風前の灯である。しかしこれは、

  • 中国における元の時代

にまさに、文天祥が遭遇した事態なのであって、「それでも」

  • 正しい

生き方をすることが、ただただ「賞賛」されるべき理想なのだ、と言祝がれる。

例えば、最近、次のような事件があったそうである:

寺澤有@Yu_TERASAWAさんが

こんな連続ツイート

    • 【第1報】7日21時ごろ、山岡俊介さん @yama03024 が新宿スタジオアルタの地下階段を降りようとしたところ、体が飛ぶようにして転落。救急車で病院へ運ばれ、右肩骨折、頭部7針を縫う重傷。「誰かに押された記憶はないが、どうしてあんなところで飛ぶのか」と話している。某事件との関係は不明。

〔19:51 - 2018年8月9日〕--

安倍首相と暴力団関係者との関係を暴いたジャーナリスト、山岡俊介さんが重症 - のんきに介護

例えば、以下のようなツイートがよくその本質を現しているように思える:

3割ある安倍ちゃんの固い支持は安倍ちゃんが何をやるかで支持してるってより、安倍ちゃんのやることへ批判をなんでも嘲笑うことによる支持って感じで、そら本人と取り巻きは何ヤッてもいいってなるだろうな。

@synfunk 2018/08/10 23:24

彼らは「ネトウヨ」と言うように「右翼」なのではない。彼らは、ただただ「主人=皇帝」の

に対して、なにかを行わずにいられない「(なんちゃって)志士」なわけである。彼はあらゆる「安倍首相批判」に

  • (感情的)反発

をする。彼らは、その主張の「内容」にこだわっているのではない。そもそも自らが考えている

に「そのような(不遜な)態度」をとる

  • ふとどき者

が「いる」こと自体に腹が立っている。これこそ彼らにとっての「義を見てせざるは勇なきなり」なのだ。

彼らにとって、安倍首相がとにかく「馬鹿にされる」ことが我慢ならない。どんなにその主張が、「合理的」なように思われようが、そんなことは関係ない。ただただ、

が馬鹿にされた、というこのことだけを唯一の「理由」として、これへの「対抗」を動機づける。よってこれは、そもそも、「理屈」の問題ではない。しかしそれは「感情」でもない。もっと違った筋道から行われる「秩序」に関係した、対抗運動として組織されている。

上記の階段からの突き落としは、安倍総理という、現代の

の「危機」に対して、どのような対抗「テロ」も、たとえそれが理屈によって「合理化」できなくても、ただただ自らの中に湧き上がってくる

  • 「正しさ」への確信

に基いて、その行為を貫徹することをためらわない。

例えば思い出してもらいたい、森友問題とは、ただただ以下のこと「だけ」のことであった:

「よく昭恵に聞いてみたら関わっていたみたいだ。申し訳なかった」たったこの一行が言えれば、文書改竄自殺者も国会空転も、何もなく終わった話です。日本ではウソツキのコストは怖ろしく巨大に膨れ上がります。

@pair_glasses 2018/08/07 04:26

この「ごめんなさい」が言えないだけで、地方官僚自殺者まで出すような、国会を何年も空転させるような異常事態に至ったわけであって、しかし、そもそも考えてみてほしい。どれだけ、こういった「(ちょっと考えてみると)狂っている」としか思えないような

が、この日本には多いか、ということを:

  1. 福島原発の「過酷事故」は起きないと発言した3・11前の安倍首相国会答弁
  2. イスラエルでの安倍首相の安易なアラブ地域の人々への敵対視を思わせる発言
  3. 森友問題での、関わっていたら政治家総理も止める発言
  4. 植松による相模原事件の前の自民党および安倍首相への「手紙」への一切の発言拒否

まあ、これ以外にも、いくらでも書きもらしていることはあるでしょうが、この一番目なんて、安倍が3・11前にこういったことを「発言」していたがために、安倍の「名誉」が傷ついてしまうがために、今だに自民党は、脱原発を掲げられないわけで、どれだけの国家の損失を安倍がもたらしているかがわかるわけであろう。

二番目は、現在に至るまで、安田さんの救出作業がまったく行われないのは、これで安倍自身がイスラム国の「標的」になったし、日本を、イスラム国を始めとした、アラブテロリストの恰好の「標的」にすることの「言い訳」を与えてしまったわけで、そのため、

もう一体の彼らと「関係」することをもたらしてしまうような、どんな行為も行えなくなってしまったわけで、ものすごい「損失」だと思うんですよね。

植松にしても、ようするにこういった連中は

  • みんな

すっごい耳をすませて、「安倍首相が何を言っているのか」を聞いているんだよね。じっと聞いて、安倍首相の「意」になんとかして従いたいと考えて、行動している。だから、植松も、まさか自分が安倍首相自民党から「ハブら」れるとは一度も疑ったことがない。それは、安倍首相の「お友達」たちが、ネトウヨ雑誌で何度も繰り返し発言してきた「差別」であって、だから、それは差別なんだけれど、

なのだ、と昇華されていて、どんなに世界中から「差別」だと騒がれても、ただただひたすら、自らの内面から湧き上がってくる

という「体制順応」の感情に、それ以外の一切の理屈を無視して従うわけで、彼らはそういう意味で最初から、理屈なんてどうでもいいわけである。

報道特集安倍晋三が山口で、総裁選出馬は「気力、体力が果たして十分か自ら問いながら最終的に判断」と。「体力」の問題はやはりあるんですかねー。 #空白の66時間に安倍晋三が何をしていたのか、あるいは安倍晋三に何が起きていたのかをそろそろ知りたいんですけど。 #空白の66時間を忘れるな YAFさんのツイート: "報道特集。安倍晋三が山口で、総裁選出馬は「気力、体力が果たして十分か自ら問いながら最終的に判断」と。「体力」の問題はやはりあるんですかねー。 #空白の66時間 に安倍晋三が何をしていたのか、あるいは安倍晋三に何が起きていたのか

@yagainstfascism 2018/08/11 02:06

この時期にまだ、こういう発言を行って、出馬表明をできていないということは、かなり体調の面で、安倍首相自身はもう限界に来ていることは間違いないのだろうが、どっちにしろ、上記のような

の人たちにとって、そんなの関係ないですからね。なんてったって、安倍首相は彼らにとっての

なんですから...。

人文系学問への根本的な疑念

こういう言い方をすると、いろいろと誤解をされそうであるが、私は今だに、人文系の学問に対して疑念をもっている。それはようするに、

なのだと、生産する側も消費する側も思っていて、つまりは、最終的には

  • なにかの「目的」を達成するための学問

なのではないか、つまり、すべてがポジション・トークなのではないか、と思うわけである。

自然科学の特徴は、基本的には最初から最期まで、

に依存している。物が落下するのを見ているときも、氷が水に溶けるときのを見ているときも、その「感覚」が最終的な判断として使われている、ということが

されている。対して人文系では、例えば、「信用する」にしても、「権力に服従する」にしても、この

  • 会話

をしている人同士で、なんらかの「会話の継続」が実現していれば、それでこの

  • 定義問題

は疑問に付せられることなく、

  • 会話が続く

わけで、ようするに人文系の学問とは、この「会話が続く」という現象のことを言っているにすぎない。大事なことは、人文系はあくまでも「記号」のやりとりが「成立し続ける」というゲームのことを言っているにすぎなく、最終的なところで、エビデンスがないのだ。

もちろん、このように言うと誤解を与えかねない。例えば、脳神経学を考えてみよう。言うまでもなく、脳神経学は実質的に「心理学」の一分野のように扱われている。その意味は、なんらかの心理学「実験」のエビデンスとして

  • 脳のどの領域が「その時」に発火したか?

を使うからというわけだが、よく考えてみるとこれが何を意味しているのかは少しも自明ではない。人文系はここで、

  • 「マルマルが起きる」とき、脳のある領域「バツバツ」が発火する

という形で整理されるわけだが、一見するとこれは十分にエビデンシャルな議論のように思われるかもしれない。しかし、そもそもこれは「因果関係」ではない。あくまで「相関関係」にすぎないし、もっと問題なのは、たとえこのような関係が一見成り立っているように「思え」たとしても、そもそもそこにおける「マルマル」が実際のところなんなのかがはっきりとされているわけではない。この関係が成立しているように思われるのは、あくまでもここで議論をしている

において、この会話者と自分との間に、「理解の相違がない」ということを意味しているに過ぎなく、それ以上の含意がないからなのだ。

このように、常に人文系の学問は、ある「ゼロ記号」によって、その全体が支えられているような

  • 構造

になっているわけで、果してこの学問は遥か未来の「極限」において、窮極の「真実」に近づいていると言えるような性格のものなのだろうか...。