江戸城無血開城

少し前に、NHK「その時歴史は動いた・戦国のゲルニカ」という番組があった。ネットを見ると、ショックを受けた、という話が、多くみられた。「大坂夏の陣屏風」の左側には、町人が逃げまどい、強奪、斬首など女性や子どもも犠牲になっている姿が描かれている。この屏風と、ピカソの「ゲルニカ」を比較させることで、その象徴的な意味を強調する。
さて、なぜ番組をみた人たちは、衝撃を受けたのか。まず、屏風絵があまりに、リアルだったことがある。あまり、こういう題材を描いたものがないからですね。
ちなみにですが、屏風絵というのは、実に膨大に多くあるんですね。写真のなかった時代に、実にリアルに描かれていて、当時の日本をイメージさせる。日本の漫画文化といいますか、これは、伝統あるなと思わせますよね。画集とかで、眺めてると、ほんと一つ一つ興味深い。
あとは、今までの歴史の授業でも、大坂の陣で、こういう状況になっていたというイメージがもてなかったからでしょうか。
たとえば、NHK大河ドラマ風林火山」で、武田軍が、小規模のお国を、町民一人残らず殺す場面がありましたね。しかし、そこも、遠景で、真っ赤に燃える城中でイメージさせているくらいでした。逆に、屏風絵の方こそ、リアルなのでしょう。
ですから、戦国時代、おそらく、いろいろな残虐な所業もあっただろうというのは、多くの人が別に疑っているわけではないでしょう。秀吉の朝鮮出兵も、そうですね。大変な、被害を残しました。
だから、いろいろ残虐な所業があらわれた戦争はいろいろあるんだけど、ここでひとつこだわりたいのは、内戦、市街戦、特に、首都決戦ですね。首都というのは、とても、特徴的なんですよね。
首都というのは、政治の中心地であり政治家、官僚が住む場所ですね。また、その周りに、彼らから仕事をもらう民衆がいる。また、地方で土地をもたない中流階級貧困層が、首都に流入してくる。金持ちは、ひとたび、混乱が起きれば、さっさと地方に逃げるが、貧困層は、そもそも行くところなどないので、逃げる速度が遅くなる。また、その国のストック資産のかなりのものが集中しているので、首都に攻め込む軍隊は、どうしても、風紀がみだれがちになる。とくに、首都決戦なので、侵略する側は、ここで勝てば、今までの苦しいバトルが終わって、楽になれると勝手に思い込んで、ムチャクチャやりがちになる。
また、その国を象徴する意味をおびる面もあるでしょう。アメリカは、イラクのバグダットを一気に陥落させましたが、その後も、執拗な自爆テロに悩まされ続けていますよね。正統性を疑われる支配は、常にこうなる、ということで。
大坂の陣と同じく、最悪のケースとなったのが、なんといっても、南京事件
また、同じ問題が、明治維新でもあったのではないか、というのが、江戸城無血開城ですね。ですから、こちらは逆です。最終的に、維新軍は、徳川家を滅ぼさずに残すという判断をすることで、無血革命が実現した。NHK「その時歴史は動いた」では、篤姫西郷隆盛への手紙こそ決定的な意味があったと紹介されていたが、実際は、イギリスが貿易にさしさわりがあるので、嫌がったという方が、正しいようだ。しかし、篤姫が西郷に手紙を出していることは事実ですし、西郷が篤姫の結婚道具の調達などはやってたみたいですし(NHK大河ドラマみてると、西郷さん、なにをしているんでしょうね。ほんと、忍者、工作員、スパイ、じゃないですか)。
また脇道それますが、西郷隆盛こそ、明治維新の数ある登場人物の中でも、まっさきに気になる存在ですよね。よく、征韓論の代表のように言われますけど、違いますよね。朝鮮への、武力による侵略を否定しているわけでしょう。対等の政治的要人同志のトップ会談を主張してるんですよね。もし、西郷の言うように進んでいたら、なんて考えてしまいますよね。
まあ、人によったら、篤姫憲法9条、なんて言いだしそうですが、ここは、ちょっとあって、『大日本史』を読んでいるような人が、それは違うだろう、と(ちなみに、『大日本史』というのは、なぜか、南北朝統一までで、終わっているんですよね。南朝正統論だからなんでしょうが、やはり、ここで、王朝交代があったんだという認識なんでしょうか)。
実際、手紙の内容は、自分の生まれた薩摩の島津のお家と、嫁いできた徳川のお家が、こうやって戦うことになっているが、今、自分は、徳川家の人間なんだ、と。当家の安全・存続を祈ることこそ、自分の願いであり、やることなんだ、ということですよね。その嘆願。だから、しごくまっとうな、イエ制度における、家族の一員としてのWAY・OF・LIFE(徳川政治といっても、ひとつの「イエ」なんですよね。ここがわからないと、江戸時代の政治は理解できない)。
でも、NHK大河ドラマの方は、今までの話の流れから、篤姫を、けっこう、国際感覚のある人物って描いてるから、けっこう、憲法9条的な、非戦のシンボルみたいに描くかもしれませんね。先進的な、より進んだ視点をもった人物ということで。
よく、考えてみてください。もし、「江戸城無血開城」、のような形にならなかったとしたら。江戸の城中で、幕府軍と維新軍の市街戦が始まっていたら。白虎隊なんてものでは、すまないですよ。アメリカの南北戦争のように泥沼の状況になっていただろうし、南北朝鮮は今だに、統一さえできていないわけですよ。文明開化など、実現できたでしょうか(もしかしたら、徳川家が絶滅してそれだけかもしれませんが、政治の正統性は、常にデリケートなわけでね。一つ間違えれば、日本の戦後だって、今のイラクのようになっていたでしょう)。
NHKが、あえて、ドラマの開始する直前にこういう篤姫の宣伝をしているわけですね。今NHKは、韓流ドラマを、大河ドラマに平行するように放送していますが、日本の女性の中で、チャングムのような、国を象徴する存在として、描こうとするかもしれませんね。まあ、比べれば、ずいぶんひかえめな存在ですが、政治は結果ですからね、実現したことは、そういう先進的世界性さえもった理念だった、ということですかね。

性暴力について

ここ最近、南京事件の本を読んでるんですが、100人斬りの話とかもあるんですけど、でも、恐らく、一番、世界に衝撃となっているのは、この日本軍の、ちょっと世界的にも、類をみないくらいの、性暴力が、目立ちすぎる、ことなんですね。
とにかく、度を越しているんじゃないか、と。
これについて、どれくらい研究されているのかは、知らないんですけど、私は読んでて、赤松啓介さんの「夜這い風俗」研究との関係が気になるんですね。
つまり、以下の3つが、どうも、いろいろ深くからまって、思われるわけです。

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

南京事件 (岩波新書)

南京事件 (岩波新書)

性犯罪被害にあうということ

性犯罪被害にあうということ

こういった暴力の特徴は、かなりの割合の多くの人は、一生、この種類の暴力と関係することなく、終る、ということですね。じゃあ、こういう暴力が世の中にない、かというと、まったくそんなことはない。でも、そういうわけで、まったく無縁なまま生きている人たちにとって、想像すらできないんですね。特に、性暴力は、被害を受けた側が、その事実を公表することを、躊躇する傾向があるので、どんどん裏に隠れてしまう。
日本軍の性暴力について、読んでると、言えることは、ちゃんとそういう悪業をやらない、ちゃんと、国際法を守って振る舞っていた、日本軍の部隊もあったというんですね。むしろ、そっちの方が、特に、最初の頃は多かった、と。不幸なのは、それだけに、けっこうちゃんとした日本軍に紳士的に扱われた人たちの噂を耳にしていて、こうやれば救われると思ってしまった庶民が、たまたま、そういう鬼畜部隊に遭遇して、悲劇となるんですね。
赤松啓介さんの「夜這い風俗」研究というのは、当時、少し地方に行くと、村社会では、夜、大人の体になってきた女性の寝床に、男がしのびこみ、性交渉を迫る、そういう慣習がかなり浸透していた、という研究なんですね。どこまでのものだったのかは分かりませんが。この前、民放テレビで、横溝正史八つ墓村のモデルとなった?といわれる津山事件の特集をやっていたが、犯人と夜這いの関係が言われていましたね。また、地方の祭の後に、ハレとケとか、無礼講で、話題になることはありますね。そして、戦後になって、少しずつ、なくなっていった、と。ともかく、こういった感性をもった、地方の、教養のない農民が、なんの訓練もなく、戦場に連れてこられて、なにを始めるかって、わかるでしょう。
前に、

という映画を紹介しましたが、共同体が、ある種、外の世界と隔絶されるような状態になったときに、暴力が外部から隠される形で行われる状況になりがちなんですね。
これは、家族というもっとも自明的なものでさえそうです。ほんとに外の人が、隠れた暴力を発見することは難しい。
エリック・ホッファー『大衆運動』は、彼がドイツ系移民の子孫として、ナチスのような集団的な暴力がなぜ発生したのか、といった視点から、大衆運動、集団としての人の群集的な心理、特徴を研究する方向で書かれた本です。つまり、人が二人以上で群れたとき、どういった心性があらわれるのか。
宮台さんは、一時期、さかんに、少し古い少女漫画がほとんどそうだった、純愛幻想を、批判してましたよね。逆に、こういったものが、現実とのギャップとなっていて、少女たちの生きにくさを助長してきたんだと。でも、その口ぶりのニュアンスは、明らかに、こういった、性暴力の風習を示唆していましたね。いつもそうですけど、確信犯的なんですね。むしろ、そういう、「性的おぼこ」の感性をもっていることの方が「悪い」んだ。「性暴力に慣れろ」でしょ。これじゃあ、いつまでも、性暴力をふるわれた方は、救われないでしょ。
でも、これがシステム論的な診断だっていうわけですね。いろいろ社会風習から、そういった慣習的な現象をみつけてきて、「これが、社会的な現実であり、真理だ」、と。現実的であるとは、真理的であるってって、まるで、ヘーゲルみたいですが。現実は、奥が深い。現実は、変えられない。現実は、......。もういいですかね。こんな学問、いらないと思うんですが。
たとえば、早稲田大学の、スーフリ事件がありましたね。この事件の衝撃は、あの早稲田でおきた、ということですね。かなり、早稲田ブランドを傷つけた。下世話に言ったら、早稲田=夜這い、ですからね。早稲田入ったら、こうなるよ、と(この頃から、宮台さんも、発言に注意するようになったんじゃないですかね)。
なかなか、大学のイメージというのは、難しいですね。関東学院大学ラグビー部で、大麻を育てていた奴がいて、部員の10人くらいが、実際、吸ってた。でも、その事実を、ラグビー部の監督に言わなかったわけですよね。それで、監督が協会に謝りに行ったら、そんな甘い処分じゃみませんよ、と。そこまで監督にさせておいて、後から、嘘だったとわかって、監督辞めましたね。会見やってましたが、あれだけの名将にこういう最後にさせて(部員が多かったのは確かみたいですね)。おそらく、かなりの量の、ドラッグが、子どもたちに、蔓延しているんだと思います。でも、そんなこととは別に、ああ、山梨学院大学は、ドラッグまみれ、なんだ、と。そういうイメージでみられるわけだ。今でも、学生確保に苦労しているかどうかまでは知りませんが。
話がずれましたが、もちろん、少しずつ国民の民度もあがってきて、こういった暴力の問題は、少なくなってきていくことも大切でしょう。しかし、それだけでなく、この問題は、人間が群れる、そして、その集団が、社会から隠れてあるとき、蛮行が外に出てこない形で偏在しがちだ、という、その構造的な傾向の方にあるんですね。むしろ、人間の知的な向上が、常にこういった構造への配慮をシステム的に担保していく、そういう民主的な選択を意識的に選んでいく、そういう方向で民度が上がること、ということで(難しいですね。また、啓蒙の話くらいしかなってしまう)。

ぽにょ

崖の上のポニョ」を映画館でみてきた。
ストーリーとしては、どうでしょうか、人魚姫、ですか、ちょっとじみですね。もりあがらん。子ども向けと言ってましたけど、やっぱり、大人がつくったものであり、そんな、子どものためとか言って、子どもが喜ぶなんてないんでね、喜んでるのはいつも大人。
日本は、網野善彦をもちだすまでもなく、海洋民族だったわけですね。ほんとに、海と関係した、習俗が多くある。しかしその反面、海というのは、漁師にとっても、非常に危険な所ですね。常に「海をなめるな」、それが染み付いている。そういう意味でも、ああいう描き方は、どうもさめてしまう。子どもは逆に、恐いんじゃないですかね。
ただ、最初のたたみかける部分は、おもしろかった。最初の大量のクラゲ。ポニョが、陸近くのゴミと一緒にポニョが網にすくわれる場面。ポニョをバケツに入れて、ペットのようにもちはこぶ。
どうでもいいけど、海から拾った魚を、水道水のバケツに入れるって、やっちゃいけないでしょ。