病者の光学

戦前の作家、堀辰雄の小説に「風立ちぬ

風立ちぬ・美しい村 (岩波文庫 緑 89-1)

風立ちぬ・美しい村 (岩波文庫 緑 89-1)

というのがあります。この小説を、あれ、っと思ったのは、

ささめきこと 1 (MFコミックス アライブシリーズ)

ささめきこと 1 (MFコミックス アライブシリーズ)

という少年誌のマンガを見ていたら、純夏(すみか)という主人公が、この本を読んでいたからなんですが。
このマンガでは、汐(うしお)という、準主人公の、兄が、小説家で、戦前の少女雑誌のコレクターとして、紹介されていて、実際、そういう雰囲気の小説を書いている、こういった伏線があったりする(こういったことが、このマンガが、どういった主旋律の物語かを、明示している、と言える)。
このマンガは、いわゆる、ゆり系と言われる、女の子同士の恋愛、の話とある。
といっても、5巻までいって、お互い、告白(こく)ってすらいない、汐(うしお)の方に至っては、やっと、最新刊で、自分の気持ちに気付いた、という、なんとも、気の長いマンガだ(今どきの高校生のことなんてなにも知りませんが)。
いわゆる、プラトニック・ラヴというやつだ。
ようするに、なんというか、精神的、なんですね。汐(うしお)という女の子は、両親を早くに亡くして、売れない小説家の兄に扶養されていて、生きてきた。かわいい女の子にしか興味がなく、男に興味がない。純夏(すみか)も、早くに母親を亡くしているのだが、そんなかわいい女にしか興味のない汐(うしお)がクラスメートに変態扱いされ友達もいなく、けむたがられているのを、いつも相手をしてやっていた。そういう、お互いを助け合ってきた、お互いにとっての特別な存在、唯一感が、その基底にあって、こういう感情を愛と呼べるなら、どうして、男女の関係だけが「正当」とされるのか、というような構造、感じ、になっている。
つまり、(あくまで)重点としては、いわゆる、倒錯的な性欲とか、性同一性障害のような「症候群」とか、そういった方向の話という感じではない。
そういう意味では、

カリフォルニア物語 (1) (小学館文庫)

カリフォルニア物語 (1) (小学館文庫)

や、少女マンガの傑作とされる、

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

などは、刹那的な主人公のあやうさと、それに徹底的によりそうように、つき合っていく、準主人公との、ホモソーシャルな関係を中心に、人間的に成長していく、というようなストーリーは、上記のような意味で、あまり、性的な欲望がメインになってくるというより、精神的、つまり、プラトニックなものだったということでは、同型のものとしていいのであろう。
もともと、こういった、少女マンガ的な、ストーリーの原型として、(多くのフランス文学的なものを考えてもいいんですけど、)日本の場合は、上記の、堀辰雄の小説をその一つとしてもいいでしょう。
この小説は、胸の病気をもつ、女性、節子、を婚約者とする、純文学的主人公が、一緒に、田舎のサナトリウムで、治療を行う、というストーリーですね。
ここで、忘れてはならないのは、戦前における、病気というものの、位置ですね。戦前においては、まだ、結核の治療方法(抗生物質)が確立しておらず、多くの人がこの病気で亡くなった、ということですね。長期間をかけて、症状が悪化していき、最後は、口から、血を吐くようになっていく病気で、老若男女を問わず発症し、この病気を発症した「ほとんど」の人が死んでいった、そういう病気であった。
こういう病気にかかった、人は、この少しずつ症状が悪化していくわけで、やはり、死と隣り合わせ、となる。どうしても、いつか、近いうちに、自分は死ぬ、それを前提に今を生きるしかない。
そうすると、パラドックス、のようになる。恋愛をしない人間を考えられないとするなら、こういった人にとっての、恋愛とは、どういう形態となっていくか。それは、どうしても、精神的になっていかざるをえないであろう。
しかし、こういった、薄幸の美少女もの、というのは、まるでブームのように、各時代を代表して、流行してきた。
最近でいえば、もちろん、

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

や、映画でいえば(見てないですが)、

世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション [DVD]

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ですか。私は、別に、病人を神聖視すべきだとか、そういうことが言いたいわけではない。
ニーチェに、病者の光学、という言葉がある。健常者は、なんとなく、やりすごして、気付かないことに、彼らは気付いていたりする。
岩波文庫の、解説で、河上徹太郎、という人が、戦争末期の予備学生の九分九厘が、堀辰雄の愛読者だった、と書いてある(戦争にこれからかり出されていく自分に重ねて、この「風立ちぬ」を、読んでいたのかもしれない、という解説であったが)。
結核のような伝染病が、同じように今後、流行する時代も近いのでは、という話もある。私が気になったことは、そういった、病気が、その人々の傾向を決定していた、その日本全体にあったはずの「集団的な感受性」が、こうやって、病気の撲滅とともに、「健康」になることで、忘れられてしまっているようだ、ということの、なんとも言えない、非連続性についてなのだが...。

城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』

(12/29、12/30、と、これを原作としたドラマ「遥かなる絆」が、再放送されるそうですね。以下は、そーとー、ネタばれ、だと思いますんで、気をつけて下さい。)
私は、この 500 ページ近くもある、ノンフィクションを読んで、ずいぶんと考えさせられた。
もちろん、基本的にはこれは、娘が父親の過去を調査していく、いわば、自らの「ルーツ」を探していく、よくある形のノンフィクションと言えるのかもしれない。
自分は、どこから来たのか。
そうではあるのだが...。
この、父親の半生をたどることになった、彼女のアイデンティティをたどる、ルーツをさがす、ノンフィクション。
たしかに、いくつかのポイントがあるし、それぞれの関係が気になるのだが、そういう諸関係を問いながらも、なんと言えばいいのだろう、この本が本当の意味で書かれるべきであった、唯一点のポイントというものがあるとすれば、それはなんだったのだろう、というような問いかけで始めてみたい。
彼女は、父親が、昔中国に住んでいたことを知っていたことは間違いなかった。また、一度だけであるが、小学三年生のとき、その「中国のおばあちゃん」に会いに行っていた。しかし、父親が中国のことをほとんど話さなかったことや、学校で、それを理由に、いじめられるのが恐かったこともあったのだろう、彼女は中国について、ほとんど考えることはなかった。彼女が、中国のことを考えるようになったのは、中国の吉林省にホームステイをしてからであった。
その後、彼女が父親に、中国への長期留学の決意を打ち明けたとき、父親は、ダンボールをとりだし、彼女に、彼の半生の記録を見せる。
そこから、この物語は始まる。
父親の前半生におけるキーポイントは、いくつもあるであろう。
一つはもちろん、彼女にとっての、「中国のおばあちゃん」が、4歳の彼をひきとり、育てることを、決意したときであっただろう。当時の状況を考えても、日本人の子供を育てるというのは、リスクが大きかった(ましてや、軍人の子供ということがばれたら、ただではすまないことは分かっていただけに、その事実は、何人かだけに伏せてあったという)。しかし、その「おばあちゃん」は、そのことを深刻には考えなかった。
(ここのところ、何度も書いていますが、私はこういう、「みんなの意見」というものを重要視している。つまり、中国の多くの人たちの中に、「たまたま」こういう人もいた、ということなんですね。)
しかし、その彼の母は、貧しかったことは、確かだった。しかし、著者のお父さんは、勉強は、がんばったし、よくできた。家にお金がないことは分かっていたので、受験をするつもりはなかったのだが、友達に勧められ試験だけは受けた中学受験に、合格する(合格者は、村で、三人だけだったそうだ)。
彼の母は、喜んでいる彼にお金がなく進学は無理だとどうしても言えず、彼のために、村の一件一件を、金の工面をしてくれと、土下座までして頼んで回ったそうである(そこまでしても、お金を貸してくれる人はいなかったのだが、後で、国の奨学金制度を利用できることがわかり、その心配は免れた、ということだそうだ)。
勉強のできた著者のお父さんは、高校に進学するのですが、そこで、文化大革命、である。彼は、そこで、自分が、日本人であることを隠していると、つるしあげられるのではないかと懸念して、自らの戸籍の国籍の欄を、中国でなく、日本、とあまり深く考えることなく、変えてしまう。
しかし、この変更があまりにも大きいことは言うまでもないであろう。
そのことにより、大学受験は、すべて、失敗、となる。彼は、文化大革命で、密告され、つるしあげられるかもしれなかったにしろ、いずれにしろ、よく考えてみれば、「完全」な証拠など、まだなかったわけであるし、もちろん、生みの親の名前も、住所も、分かっているはずがないのだから、あせってやることではなかったであろう。しかし、彼は、それを自分の意志でやった。そこからの彼の人生は、もう、方向は決まったようなものだったのかもしれない。日本の赤十字に何度も手紙を書き、日本にいる、生みの父母、を探し、日本に行くことこそ、彼の目標となっていく。
しかし、よく考えてみてほしい。当時は、日本と中国はまだ、国交もない。しかも、中国国内は、文化大革命の、まっただ中である。こんな時期に、よくも、日本へ行こう、生み親を探そうなどと思ったものである。しかし、彼の行動力はすごいですね。何度も何度も、赤十字に手紙を、あきらめずに出す。
彼は、行動力がありますね。実際、その高校のあった、都会に、彼の母を、田舎から、呼びよせるエピソードが書いてある。

玉福は、淑琴たちの戸籍を移動するためには、公安局外事課、頭道河子村政府、そいて七星派出所の三ヶ所に直訴する必要があると考えた。そこで玉福は淑琴が体調を崩すたびに、外琴課、村政府、派出所へ足を運び、「私の母がまた倒れてしまいました。私はすぐに村へ帰れる状況ではありません。だからなんとか早く母たちを呼び寄せたいのです」と訴えた。淑琴が農作業で疲れて寝込んだときには「体の弱い母には農作業はきつすぎます」と訴え、淑琴が王叔父と喧嘩をして王叔父が出ていきそうになったと聞いても、ほかのどこよりも先にこの三ヶ所を訪れ「このまま母を村に一人で置いてはおけません」と訴えた。とにかく淑琴を牡丹江に呼び寄せるために必死だった。玉福のこの行動は五ヶ月間続いた。
そしてついに五ヶ月後、公安局外事課の担当者が玉福のもとを訪ね、二通の紹介状が手渡された。そこには玉福が両親を呼び寄せるのは適当だと判断すると書かれていた。

当時の中国は今と比べものにならないくらい、田舎から、都会に移住するというのは、難しかった。そういう時代に、こういった「親孝行」を達成した彼に、田舎の村の人たちは、尊敬の思いを強くしたそうですね。
私たちは、簡単に自由という言葉を使いますけど、彼は、その自由のない世界においても、ないから無理、じゃなくて、あきらめないで、何度もチャレンジをするんですね。それは、なんなんだろう。絶対的な信念なのかもしれませんね。そこにはやっぱり、自分のやっていることは正しいんだし、こういう、正しいことは、認められんればならないし、最後には認められるんだ、という信念があったのかもしれませんね。
(ねばり強く何度も。役所のようなところは、実際に、多くの人々を相手にしているので、マイノリティを邪険に無視しがちなんですね。もちろん、それでもまったく相手にされない場合の方が多いのでしょうが。)
そして、いろいろ、いきさつがありながら、彼は、日本の生みの親に発見され、日本に来ることになる。
といっても、彼は、日本語が話せません。父母は、別れる、4、5歳までは話せたので、もう少し言葉が通じると思っていたようですね。まったく、思考回路が中国人の、別人格の「異人」が急に家に来た、と戸惑った感じが分かります。まともに、彼に日本語を学習させるためのプログラムを用意できていなかった。
彼が父親に、中国で果たせなかった、大学進学を、日本でいつか果たしたいと言ったとき、父親は反対します。当時もそうですが、大学進学とは、日本では、就職の手段としか考えられておらず、高齢での進学は、たんに就職に不利と判断されるだけ、という考えがあったのでしょう。早く就職すべきだと考えた、と。
しかし、こういったことなどを通して、彼は、その生みの、父親や母親と、少し距離を置いていきますね。彼は、けっこう早くに、独立して生計を立てていくことが重要だと考えるようになる。定時制の高校に通いながら、近くで働くようになる。
そして、その高校で知りあった、著者の母親と、結婚して、著者が生まれた、と。
著者は、中国の長期留学を、中国側の、奨学金で、行くことになるのだが、ここも、大きなポイントではないだろうか。
つまり、このノンフィクションを中国側は、この、留学事業の成功譚として、認識するわけですね。留学生を迎え入れるというのは、「国家事業」となります。国家の名誉を賭けて行われるわけですね。
著者は、中国の長期留学の間、その「中国のおばあちゃん」の親戚の方たちに、実の「親戚」のように接してもらう体験をするうちに、父親の半生の壮絶さを、あらためて実感していくことになります。
また、それと同時に、彼女は、この国の人々の、日本人への視線に、あらためて、認識を深めていく。

とう小平の行なった「改革・開放」政策は、中国経済に大きな成長をもたらしたが、経済格差の拡大や、官僚の汚職・腐敗の深刻化を招き、民衆の間で共産党への不満が高まっていった。1989年には民主化を求める学生や民衆たちを軍事力で制圧した六四天安門事件が起こり、共産党の求心力は失われかける。そこで1993年に国家主席に選出された江沢民は、共産党の威信を維持・回復するために愛国主義教育を推進し、各教育機関愛国主義教育を徹底した。各種「反日」展示施設を含む「愛国主義教育基地」と呼ばれる施設等を各地に指定したのもその一環だった(日本ではこの愛国主義教育を、若者たちに過剰な反日感情を植えつけ、本来共産党に向かう不満の矛先を日本へ向けさせるものだと指摘する声もあった)。

ところが、話はそこで終わらなかった。いつの間にか、南京大虐殺で日本軍がどれだけ中国人を殺したかという話に発展していた。教室の空気も反NATOから反日に変わっていくのを感じた。そして事態はさらに私が予想もしない方向に向かっていく。隣の席にいた初さんが小声で向こう隣の男性にこう言ったのだ。
「実はこの子、日本人(リーベンレン)なんだよ」
なぜいまそんなことを話すのかと初さんを恨めしく思ったが、時すでに遅かった。驚いたその男性は、クラス全体に聞こえるような大きな声で私に話しかけてきたのだ。
「君、日本人なの?」
彼の声は教室中に響きわたった。そして一瞬の静寂の後、一気に10人以上の生徒が私の机のまわりに押し寄せてきた。好奇心に満ちたいくつもの顔が何か叫びながら次々に私に迫ってくる。あまりの恐怖で私の体は硬直し、心臓がドクドクと鼓動を速めた。
「日本人って、歴史のこと何も教わってないって、本当?」
「あなたは日本が過去、中国にどんなことをしてきたか、知ってる?」
「日本鬼子って知ってる?」
「日本は南京大虐殺の被害者数を歪曲しているでしょ」
「日本の侵略について、知ってる?」

つい最近まで、中国で暮らしたことのある日本人は、同じような体験をしているのではないでしょうか。
江沢民反日教育が、国内の不満分子の封じ込めを狙ったものだった、という指摘は、おもしろい、といえるでしょう。そして、この構造は、どこの国にも、多少なりとも存在していると言えるのかもしれません。
だとするなら、この硬直状態を、打破するものとは、なんなのか。それが、最近書いた、「言論の自由」、つまり、啓蒙なのでしょう。
そういう意味では、彼女は、あまりにナイーヴ、つまり、無自覚だったと言えるのではないでしょうか。実際、彼女は、自分の、おじいちゃんが、満州国軍のかなりの高官であったことを、あまり考えることなく、中国の人に、話してしまうことさえあった。
彼女は、彼女の、実のおじいちゃん(もの心ついた頃には亡くなっていた)が、どういう人だったのか、についても、その頃は深く考えていなかった、ということなんですね。
日本の歴史において、サンフランシスコ平和条約を受け入れて、世界秩序の仲間入りをしたように、日中国交正常化の基本的なスタンスは、日中戦争の戦犯は、日本の軍上層部や、指導層だったのであり、庶民は、犠牲者なんだ、という整理なんですね。だから、彼女が、軍人(しかも、かなりの将校の孫)であることを告白することは、かなり冒険的な意味があるわけです。
しかも、彼女のお父さんが、満州から引き揚げてくる、いきさつ、の話は、多くの満州に移住していた、日本国民より先に、そういう高官の女性や子供をまず、先に日本へ送ろう、としたが、途中で、はぐれた、という話ですね(著者はその辺りの事情に、ちょっと無自覚に書いているんじゃないだろうか)。
その後残った、おじいちゃんは、ソ連進行で、シベリア抑留され、ずいぶん苦労をして、日本に帰ってきたそうですけど、いずれにしろ、日本の軍人であった、特に、将校クラスであった、というのは、中国では、完全なタブーなのでしょう(戦後、長く市会議員をした、そのおじいちゃんは、結局、戦中の話を子供たちすることなく、墓場まで、もっていくんですね)。
著者は、留学から帰国後、少し間をおいて、日本に多く帰国してくる、中国残留孤児の人々の、日本政府を訴えた裁判に関わり、取材していく。
多くの、中国残留孤児の人々は、高齢で日本に帰国しても、語学教育の環境もまともになく、多くが、生活保護の生活をしていたんですね。この裁判そのものは、敗訴するのですが、安倍晋三政権のとき、中国残留孤児の人々への、支援策が法的に整備され、実質的な名誉が回復される(2008年)。これは、けっこう、最近の話題で、ちょっと記憶がありますね。
あと、彼女のおじいちゃんの話としては、満州国軍、の軍人だった問題について、書かれています。日本政府は、軍人恩給を、満州国軍の軍人には、支給を、基本的には、今だにしていないんだそうですね。つまり、実質的に満州が日本の傀儡政権であったことは、だれも自明のことでありながら、今だに、「満州は独立国だった」という戦前の建前を、踏襲している、ということなのでしょう。この前も書きましたが、日本の自民党は、戦後、まったく反省なんかしていないんですね。反省したのは、95年の村山談話、だけと言ってもいい(民主党になっても、あまり変わりそうな雰囲気はありませんが)。
(なんというんでしょうか。結局、終戦後の、軍人というのは、明治維新の武士、のようなものなのかもしれません。国軍は解散され、野に放たれるのですが、彼らは、言わば、「公務員」ですからね。特に、指揮官クラスは、その公務員という「身分」を、簡単に剥奪されたことには、同じ感情をもったのかもしれません。そして、その認識が、軍人恩給を求める、強力な圧力団体として、活動していく原動力となっていたのでしょう)。
ずいぶん、早足でかけてきましたが、さて、この、ノンフィクションの、最も、著者にとっての(活字にしなければならなかったくらいの)重要なポイントとはなんであったのだろう。

そして、あっという間に予定していた四日間が過ぎ、私たち家族が街を去る日がやってきた。駅には何十人もの人々が見送りに来てくれた。
なかでも目を真っ赤に泣き腫らした細くて小さい「おばあちゃん」の姿は、いまでもはっきりと目の奥に焼きついている。列車の窓を開けて手を振る私たちに向かって、彼女は弱々しく右手をあげていた。その姿が目に入った瞬間、私の目には自然と涙があふれていた。しかし、八歳の私は、なぜ自分が泣いていうのかわからなかった。振り帰って家族の顔を見ると、母も姉も、幼い弟さえも、目を真っ赤にして泣いていた。疲れ果てていたにもかかわらず、なぜか私たちは涙が止まらなかった。父はキチンと折りたたんだハンカチで静かに自分の涙を拭っていた。

隔世遺伝、という言葉があります。遺伝といっても、それは、「生物学」的なものだけではありません。いや、むしろ、生物学的な意味など、むしろ、ほとんどないんだ、という人もいますね。
私たちは、もう少し、文化的な、遺伝、DNAについて、その重要性を考えるべきなのかもしれません。
著者の、おとうさん、には、間違いなく、「中国のおばあちゃん」の、濃密な血が流れています。貧しいながら、ねばり強く、なぜかこの、血のつながらない、著者の、おとうさんを育ててくれた。そして、その父親に、生まれてからずっと、見つめられて育った、著者には、この父親を介して、その「中国のおばあちゃん」の文化的な遺伝子を間違いなく、受け継いでいる。
おばあちゃん。
おばあちゃんとは、何者であったのだろうか。彼女は、その、彼女の内側にある、自らの文化的ルーツに、正面から向きあわずには、いられなかった、ということなのでしょう。

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅