三浦勇雄『聖剣の刀鍛冶』

日本のサブカルチャーの特徴として、やはり、なんと言っても、欠くことのできないものとして、「暴力」があるのではないだろうか。
たとえば、普通の夕方の時間帯に放送されているアニメでも、小さな子供たちが、「戦っている」。この光景は、よく考えてみると、かなり野蛮な事態なのかもしれない。これだけ、世間では、「暴力は犯罪」なんだと言われ、日本は外づらは、一見、暴力のない、純粋培養された清潔国家になったのだが、こうやって「消費される」サブカルチャーは、むしろ、その暴力がさらに過激になっている。
この事態をどう考えたらいいのだろうか。
暴力というのは、身も蓋もない、まさに、物理的な力であり、人間にしても、自然界の存在である限り、この物理法則から自由ではあれない。当然、人間は、物理法則的存在であり、それ以上でもそれ以下でもない。殴れば、その打ちどころが悪ければ、「一瞬で死ぬ」。
これが暴力であり、実に「分かりやすい」。
しかし、そういったことは、長い間続いてきた、人間の「慣習」との違和感を与えているのかもれない。
義務教育までの学校にしても、つい最近まで、「体罰は普通のことであった」。私が子供の頃も、何回か、親に、げんこつで殴られたし、小さい頃は学校でも、教師に殴られたのではないか(覚えていないが)。両親が、ある程度は、教師の体罰は必要だ、というようなことを二人で話しているのを、小学生くらいのときに、小耳にはさみ、変な気がして鼻白んだのを覚えている。
なぜ、暴力は慣習的に存在し続けてきたのか。その意味は、どこか現代人には理解が難しくなっている、そういった現象なのかもしれない。
人間が物理法則的存在であることは、人間が暴力的存在であることだけを意味するわけではない。あらゆることは双対性の法則を免れることはできない。ということは、人間は「壊れる存在であることを意味する」。簡単に、こわれるのだ。すぐ、ためになっちゃう。昨日まで、あんなにシャキンとしてたのに、今日になったら、もう立つこともできない。高校野球の、伝説のピッチャーが、プロに入って、ちょっとしたことで肩をこわしたら、もう引退。
それは一見、人生の無常を感じさせるが、その意味するところは、簡単。人間が物理法則的存在であることに尽きる。
よく言われるのが、暴力の「免疫」のない、最近の「いい子」たちは、その加減が分からないから、爆発すると、やり過ぎてしまう、ということであった。しかし、たとえ、そういった面があったとしても、それも確率の話ではないか、と思わなくもない。
結局、過去の人たちは、この問題をどのように考えてきたというのだろうか。そう考えると、一つ思うことは、やはり、テクノロジーの問題である。例えば、刀、という武器がある。鋼という、いわゆる、鉄を切れ味をよく、叩き、加工して、この武器が作られるが、まず思うのは、この武器、そんなに性能が良かったのだろうか、ということである。最近の、包丁のようなものを考えると、なんでも簡単に切れるかと思うだろうが、そうだろうかと思うわけだ。時代劇での、大立ち回りにしても、何回か、刀をぶつけ合ううちに、はこぼれをおこし、どんどん切れ味が悪くなっていくだろう。しかも、昔の刀だったら、もう最初から、そんなに切れ味もよくなかったとも思われる。しかも、お互い、防護用の鎖かたびらや甲冑のようなものを、まとっていたりする。野球でいう、バットの芯じゃないけど、そうとううまくやらないと、人を殺せなかったのではないだろうか。もちろん、かなりの致命傷を与えることはあっただろうが、「確率的に」そう簡単に人は死ななかった。それだけに、そうやって歴戦の戦いを生き残った戦士には、なにか「特別な」折れない心、のような、強い意志、そういったものがあったのでは、と考えられたのではないか。そして、それを昔の人は「英雄」と呼んだのでないか。
ところが、ヘーゲルが言うように、ある日突然、「英雄はいなくなった」。鉄砲によって。
陰に隠れて、相手に見つからないように、鉄砲で、相手の頭を打ち抜けば、「確実に人は死ぬ」。卑怯者が、一番強い時代になった。ところが、皮肉なことに、このテクノロジーの発展こそが、近代の、民主や自由を生み出したのだとも言えなくもない。
例えば、私は、最近、掲題のエンターテイメント小説を読んでいるのだが、主人公セシリー・キャンベルの父親は、この独立自治国家ハウスマンの創立者であるハウスマンを陰で支える騎士として、貴族の身分を捨て、国家創立の、立ち上げメンバーとして参加するわけで、彼女が15歳くらいのときに亡くなったのだが、彼女はそのとき、父親の後を継ぐため、自衛騎士団に入隊する。つまり、この独立都市国家の、警察兼軍隊に入隊した、ということである。
しかし、そうなると、町のみんなが、彼女の父親を知っているんですね。この町の創立を陰で支えた、彼女の父親は、この国の人にしてみれば、この国を創ってくれた、恩人なわけです。その娘なわけですから、人々の視線は温かいわけですね。
セシリーは結局、女の子なのですから、重たい剣を振り回して、っていうのが、どう考えても、男にかなうとは思えない。あんな細い腕で、男に勝てるのだろうか、と思うだろう。しかし、彼女の思考の過程はもう少し違っている。

獣の強靭な肉を断ち切る剣の斬れ味は、やはり凄まじい。しかし何っよりもセシリーが目を見張ったのはルークの動きだ。足捌きや剣筋、肉体の操作----いずれもセシリーの知るどの剣術にも当てはまらない。
もちろん例外はあるが、大陸の剣術は左半身を前に出し、右に剣を構えるのが基本の型だ。これは左に盾を構えることを前提にしているためである。しかしルークの構えや動きは逆----彼の踏み込みは必ず右足が先、つまり右半身を前に出していたのだ。さらに体移動はすり足----地面を滑りながら行うという変わった歩法。剣筋は全身運動を駆使した身軽なもの。いずれも大陸の基本剣術にはないものだ。

彼女が考えているのは、彼女が日々教えられている、さまざまな「戦闘技術」と、目の前で展開されている戦闘スタイルとの、差異への関心だったわけで、問題は、その技術だったわけです。つまり、その技術、作法を、理解し継承することが、その町の伝統となり、人々のこの町を守り育てていこうとする、象徴的な意味となるわけでしょう。
彼女にとって、自分の非力とは、いわゆる、体力の問題ではない。体力の非力は、日々の鍛錬しかないわけで、しかし、どんなに努力しても、限界がある。だとするなら、そのことを前提に振舞うことは、当然の作法だろう。彼女は体力の面で弱いなら、なにもできないのか。そんなはずはない。
セシリーは何度も自分に問いかける。自分は弱い。それがくやしい。しかし、だからといって、何もできないわけではない。彼女は何度も、自分が何者なのかを表明する。この町の自衛騎士団員である彼女は、とても、堅苦しいしゃべり方が特徴である。常に、武士のような、格式ばったしゃべり方をする。それはおそらく、父親がそういう人だったのであろう。それが彼女のルーツなのだ。そういったスタイルを捨てたとき、彼女は彼女でなくなる。自分とはこの町の自衛騎士団員「だから」、彼女はこの町の人々に、親切に接しようとしたり、ときには生意気にも説教をしたり、人々を守るために強くなろうとする。
作品のストーリーとしては、より過激になり、魔法による、モンスターが町を暴れたりするが、そういったアイテム一つ一つは作品のスパイスであり、本質ではない。

「待、て」
去りかけていた三人は一斉にこちらを見下ろした。セシリーは弛緩する身体に活を入れ、肘を立てて上半身を起こす。か弱い小動物のように震える腕を、口惜しく思う。たかだか数度叩きつけられただけでこの体たらく!
そんなこちらを彼女らは憐れむように見ていた。
「無理はしない方がいいぜ。俺たちの魔剣を受け止め切れただけでもすげえんだから」
「アリアを返せ......」
「できないわ」とマーゴット。「これはシャーロット様に必要な物なの」
「返せ......ッ」
セシリーは這いながらドリスの脚に飛びついた。
「お前っ」
「返せ。アリアをッ」恥も外聞も無い。セシリーはドリスの脚にしがみつき、喉を嗄らして叫んだ。「私の友人を返せッ」
「はな、離せよ!」
側頭部を蹴られた。悩が揺れる。視界が白く染まる。
セシリーは離さない。
「返せ-----」
二度頭を蹴られ、腕や背中を踏まれた。だが離さない。
「かえせぇっ!」
頭上で鞘走りの音を聞いた。三人の誰かが剣を抜いたらしい。腕か? 胴か? 首か? 何処を断ち斬られようとも構わない。好きなところを斬り裂けばいい。好きなところを持っていけばいい。
いずれにしろセシリー・キャンベルはこの手を離しはしない。
どれだけ傷つこうとも相棒を見離しはしない。

自分は弱い。しかし、なにもできないわけではない。弱いからといって、相手にとどめの一撃を打つことのできないわけじゃない。名誉の負傷を負うこともあるだろう。しかし、もしそうすることがその場合、必要だったなら、それも自分とはなにものなのかを考えるなら、誇りに思うことだろう。たとえ自分が「今」弱いことは問題ではない。少しずつ強くなっていけばいい。問題は、今、その弱い自分が、何をするのか、なのだ。
しかし、よく考えてみると、弱い、とは、なんなのだろう、と思わなくもない。以前紹介した、

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

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では、むしろ、そういった弱者が、未経験者であり、非熟練者であり、肉体的に非力な存在が集団に含まれる方が、その集団は「強くなる」と言うのだ。そういった「異者」が集団に放り込まれると、今までの、決まりきった、とりきめごとが「自明」ではなくなる。深刻な考察を促すのだ。そのことが、より深みのある、人間関係に変えていき、より、ゆうずうの効く集団へと変えていく。
この認識は、同じく以前紹介した、

新潮選書 強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論

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にも通じるものがある。弱いというのは、一つのトレードオフである。瞬発力では、女性は男性になかなか勝てない。空手の先生も、どんなに優秀な女性の生徒にも、襲われそうになったら、逃げろ、と教えるそうである。筋肉の質が違う。とくに隙を突かれるような場面では、なかなか太刀打ちできるものじゃない。しかし、ある程度、距離を置いた、長距離なら、それなりに女性の方が向いているという人もいる。男性は、男性ホルモンを増やし、そういった筋肉を手に入れているが、ようするにそれは、「リミッターを外している」ことを意味しているにすぎない。それによって、体内の免疫系を「殺し」、外界からのさまざまな免疫的な攻撃に弱い状態にすることで。男性は、常に生死すれすれのところを生きている。しかし、なぜ男性はそんな危険な制御をしているのか。種の存続にとって、必要だったから、なのだろう。女性に生き続けてもらうために、自分たちの寿命を短かくしてでも、狩などで獲物をとったり、襲ってくる敵から、守るために必要だったのだろう。
例えば、アニメ「とある科学の超電磁砲」は、途中まで、視聴者のコメント欄の荒れ方がすごかった。ようするに、主人公の、御坂美琴(みさかみこと)、が、「優等生」すぎて、さらに、なんでもかんでも、正義感ぶって、首をつっこんでこようとするのが、ウザすぎる、ってことであった。彼女たちが生活する学園都市では、自分の超能力の開発が、現代でいう「勉強」に対応する。いわば、超能力という「体育」の成績が、「優等生」の基準となっている世界であり、彼女はそんなエリート学校の中でも、数えるほどしかいない、レベル5、の能力をもつ。
ところが、最終回は、ちょっと様子が違った。彼女たち、能力者は、ある周波数の音に弱い。その弱点を狙い、キャパシティダウンという、装置で、敵は彼女たちを動けなくする。ところがこの装置、レベル0の無能力者には、なんの影響も及ぼさない。いつも、元気一杯だけがとりえで、みんなの回りをちょこまか、動き、はやしたてていただけだった、無能力者、学園の落ちこぼれで、一度はそれに耐えられず、レベルアッパーという「麻薬」に手を出し、みんなに迷惑をかけた、佐天涙子(さてんるいこ)は、この最後の最後で、そのキャパシティダウンを、金属バットで破壊することで、みんなを「救う」。
弱いということが、本質的な問題でないとするなら、一体、何が主張されるべきだというのだろう。
これについて、エリック・ホッファーの自伝の一節を思い出す。

ドイツ語なまりのある運転手はアナハイムに行く途中だと言った。「どこへ行くのかって? 別に行き先なんかないし、ただ歩いているだけさ」と答えたが、彼は納得しない。「人間は目標をもたなくちゃいけない。希望をもたずに生きるのはよくないよ」と言いながら、彼はゲーテの言葉を引いた...。「希望は失われ、すべてが失われた。生まれてこないほうがよかった」と。反論こそしなかったが、もしこの運転手の言うようにゲーテが書いているとすれば、そのころのゲーテはまだ小者だったのだ。アナハイムに着き運転手と別れると、すぐに図書館へと向かった。信じられないことに、その図書館には『ファウスト』しかゲーテの本を置いてなかった。急いで『ファウスト』のページを繰ってみたものの、干草の中から一本の針を見つけ出すようなものだ。そのとき、近くにブランデスの書いた浩瀚ゲーテ論があったので探してみると、引用箇所が見つかった。やはり、運転手は間違っていた。ゲーテは「希望(Hoffnung)」ではなく、「勇気(Mut)」が失われたと言ったのである(**)。

レストランで働いた数週間のうちに、幾人かの客たちとは知り合いになった。いつも元気だった私を彼らは「ハッピー」と呼んだ。客が多いときにはウェイトレスを手伝ったりしたが、そうするうちに自分が給仕の仕事が好きなことに気づいた。よい従業員やボーイになれただろうと思う。ある日、車に乗せてくれたあの運転手がレストランに入ってきた。あいさつをして図書館でゲーテの言葉を見つけたことを話し、間違って引用するのは犯罪だと冗談半分に忠告してやったが、彼は真剣に受け止めなかった。彼は希望も勇気も同じだと言ったのだ。私は最善を尽くしてその違いを説いた。熱くなって語っていたから、まもなくまわりの客たちも話に加わってきた。そして、ほとんどの人間が私に賛成した。
自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである。

エリック・ホッファー自伝―構想された真実

エリック・ホッファー自伝―構想された真実

このまったく、文脈も生きてきた世界も違う、この日記の一節にある、その「勇気」という言葉が、私たちのこのサブカルチャー的な暴力世界を考察する、文脈で、ほとんど同じように「重なる」ことは、なにか普遍的なものの印象さえ与える。
いずれにしても、人間はそういった、過去の蓄積の上に今、ここに存在しているとして、しかし、ヘーゲルも言うように、現代は、ピストルの世代である。卑怯者の時代。
ということは、どういうことなのだろうか。私には分からない。こういった、過去への郷愁をもちながら、他方において、みんなが卑怯者となることが合理的となったとき、人々はむしろ、卑怯者であることを維持できなくなる。なぜなら、他人もそうだからである。他の人が卑怯者として、陰から、ピストルで自分を撃つなら、自分は「確実に死ぬ」。どんなに、自分が卑怯者になって、他人を、かたっぱしから殺しても、きりがないわけだ。そんなことを続けていたら、いつか自分がそうされる番が回ってくることしか、意味していない。だとするなら、この輪廻を解脱する作法を身につけるしかない。そして、それが、自由であり民主なのだろう、というのが、ヘーゲルの見繕った、弁証法というやつの結論なのだろう。
精神分析において、治療とは、一体何を意味しているのか。フロイトにとって、それは、「患者の反応」にすべてが存在する、と考える。医者の質問に、患者は、激しく反応する。「それは違う」。患者の抵抗には、「真実が隠されている」。患者が否定するということは、そこに「無意識が示唆される」。
しかし、これは変な話である。患者が肯定すれば、それは正しい。否定すれば、無意識に正しい。これじゃあ、医者のストーリーが「すべて正しい」になっちゃうじゃねーか。
しかし、もっと困ったことがある。

フロイトはいっている。

私は、感情転移という事実の助けをかりて、なぜわれわれの治療努力がナルシシズム神経症の場合には成功しないのか、その理由をみなさんに説明することをお約束したのです。(中略)観察から認識でりことは、ナルシシムズ的神経症にかかっている人たちには、感情転移の能力がないか、あってもそれはその不充分な残滓にすぎないということです。彼らは医師を拒みますが、それは彼らが敵意をもっているためではなく、無関心であるがためなのです。それだからこお、彼らはまた医師からなんの感化をも受けないのです。医師のいうことは患者を冷淡にさせ、患者になんの印象をもあたえません。ですからナルシシズム神経症以外の患者の場合にはうまく行った治療の機制、すなわち病因的葛藤の復元と抑圧抵抗の克服は、彼らの場合には起らないのです。彼らはすでに幾度も独力でたちなおろうとする試みをしているのであり、それらの試みも病的な結果を招いただけなのでした。われわれとしてはそれをどう変えることもできないのです。
これらの患者についての臨床上の印象を基礎として、われわれは彼らにあっては対象への充当が廃棄されて、対象リビドーが自我リビドに変ぜしめられたにちがいないと主張したのでした。この特質のために、われわれはこの種の患者を第一グループの神経症患者(ヒステリー、不安神経症、および強迫神経症)から区別したのです。ところで、治療を試みている時の彼らの行動は、この推測を裏書きしております。彼らはなんらの感情転移をも示しません。したがってまた、われわれの努力もなんの役にもたたないのです。つまり彼らはわれわれの手では、治せないのです。
フロイト精神分析入門』)

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

医者の説教に、唯諾々と従ってくるなら、もー直ったも同然。激しく否定してくるなら、その原因(無意識)を、対話の中で形にしていけばいい。ところが、反応してこない患者、に医者はどんな手立てがあるというのだろう。そんな、バカな患者、救いようがないんだと言ってれば、医者のプライドは保てたとしても、ようするに、無能とまでは言いませんけど、無力な医者ってことでしょ。えらそうに、高いお金をまきあげていても、無理なものは無理。医者にも救えない患者はいる。こんな真実でさえ、医者が「えらい」国では、タブーなのだろう。
暴力にも似たところがあるのだろう。
結局のところ、暴力とは、一つのコミュニケーションツールだということなのだろう。人類は長い間、そうやって、生きていた。なにかを伝えたい。自分が怒りをもっていることを伝えたい。その感情をダイレクトに表現するなら、言葉は「あやしい」。ちゃんと伝わるかがあやしい。だったら、相手の頭をどれくらいの強さで殴るかで、伝えるなら、これほど分かりやすいことはない。そして、それは、別に、殴ることにとどまらない。頭をなでたり、さまざまなスキンシップをする。それらが、「暴力」でないという線引きは難しい(最近はセクハラという分類になるのだろうが)。
日本のサブカルチャーの暴力的な様相をどう考えたらいいのか、と思って考察してきた。そういった商品のありかたがどうあるべきか、については、いろいろ考えてもらえばいい。
他方、闇に隠れた、悲惨な事件が、今でも多くある、ことは、日々のニュースを氷山の一角として、想像できる。暴力的であることは、一つの真実である。つまり、こうやって現代社会などと言っても、そうやって「いつ暴力が暴発しても、おかしくない環境である」ことは否定のしようもない事実である。
ただ、他方において、暴力は少ない、とも言える。もちろん、悲惨な事件は闇に隠れて、いろいろあるのだろうが、それにしても、町に出れば、いつでも人々が殴り当っている、というほどではない。ということは、人は、それほど暴力的ではないといも言えるのだろうか。上記の引用で、勇気が理性と関係している、という部分が印象的であった。人々は一般的に理性的だということなのだろう(こうやって、また、近代論に戻ってしまうのだが)。

聖剣の刀鍛冶(ブラックスミス) (MF文庫J)

聖剣の刀鍛冶(ブラックスミス) (MF文庫J)