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martingale & Brownian motion このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-04-20

堤未果『アメリカから<自由>が消える』

維新の志士たちの、写真を見ると、みんな、格好そのものは、ラフな着物を着ならして、そんなに、格式ばったものではないが、なによりも、現代から見ると異様な風景に思えるのは、その「刀」のごつさ、である。

それは、「本当に人を切るためのものであり、それ用の、ごつさがある」。これなら、人も骨ごと、造作なく切れるだろう、というようなデカさだ。

私たちは、改めて、彼らが日常的に人を切っていたことに思い至るわけだ。私たちが時代劇で見る、彼らは、間違いなく、サムライではない。

時代劇の中で見る、サムライとは、まるで、今の、「刑事ドラマ」の、刑事のような感じで、公務員として、パブリックサーバントとして、日々のお役人仕事を「こなす」、まるで、おもちゃのかたなをぶら下げて、「市民には、なんの危害も加えないよ」という雰囲気を、かもしだしている。

ところが彼らは、そういう「人畜無害」な感じは、まるでない。

彼らの本質をあらわす言葉としては、むしろ、「忍者」の方が、ふさわしいだろう。彼らのほとんどは、下級武士、である。そこが重要である。なぜ、彼らが下級武士であるのか。上の連中が、テロ忍者の闇討ち)で、ことごとく、死んじまって、もう、この世にいなかったからだ。

その当時、「エリート」であることは、死、と同義語であった。なぜ、維新の革命が「成功しなければならなかったのか」。えらい人が、だれもいなくなっちゃったから、である。完全に、次の法則が完成してしまったからだ。

えらい --> 殺される(忍者の闇討ち)

これでは、江戸時代「を維持できない」。奇妙な話であるが、近代化(民主と自由)は、「暴力によって実現していた」。あまりにもの、テロの「日常化」が、エリート層の維持を、困難にしていた。政治とは、政治集団による、政(まつりごと)である。つまり、そこにおいて、なによりも重要なことは、その政治集団という、政治知の継承である。ところが、日本中、さまざまな動機をもった、テロリスト集団が群雄割拠してくると、とにかく、目立つと殺される。目立つ地位にいると殺される。

だれも、役職に就かなくなる。

政治集団を構成すること自体が、ままならなくなるわけである。

そういう意味で、日本の近代化は間違いなく、暴力革命であった。武士という「暴力テロリスト集団」を一掃したのだ。いや。もっと正確に言うなら、暴力を、近代的「軍隊」内に局所化した、という方が正しいだろう。

武士とはもともと、お国の建設に、武功のあった、英雄たちの名誉職の面があったが、「いざというとき」のための、軍隊の意味もあった。他方、警察的な側面もあったのだろう。つまり、お役人という「公務員」全般の仕事を一手に引き受ける集団であった。

近代国家の特徴は、「専門」化に尽きるであろう。あらゆることは、効率化される。分業である。

各地域の治安維持には、警察組織によって、法の手順に則った、プロセス的な秩序維持が目指される。対外的には、軍隊である。

この特徴は、いずれにしろ、暴力が局所化されていることである。暴力集団を公的な「プロフェッショナル」集団内に限定する。

ただ、正確に言うと、この分類は正しくない。たしかに、武士は存在しなくなるのだが、国家とは別の暴力集団は存在し続ける。つまり、ヤクザや(それと厳密な区別の難しい)右翼組織である。しかし、彼らは、この日本の近代化において、非常に国家と「近い」存在としてあり続けてきたという面がある。国家は自らの暴力集団(警察や軍隊)を直接動かすと、自分たち政治リーダーの責任を問われかねないような、非合法活動を、そういった「市民団体」を使って実現してきた歴史がある。

他方で、どうしても考えなければならない問題として、その公的プロフェッショナル暴力集団の、シビリアンコントロールは実際のところ、成功するのか、という問題がある。

日本の明治からの歴史をみて、どう思われるだろうか。結果としては、満州事変など、軍隊は常に「暴走」し、進んできたようにも思われる。

近代国家は、もちろん、どこの国でも、公的プロフェッショナル暴力集団の暴走を最初から、想定して国家建設などするわけがない。しかし、どうしても、そういった傾向を排除できない。市民は、さまざまに公的プロフェッショナル暴力集団の「実力行使」に自由を制限されていくことになる。このきっかけをどのように考えたらいいのか、興味深い命題ではある。

掲題の本では、最近の、アメリカ合衆国の「警察国家」化を指摘する。どうも、アメリカが「チェンジ」しようとしているようだ。

オバマがおかしい。

彼は、あるカジを切り始めているようである。

どっちを向いても『テロとの戦い』しか報道しない大手メディアにうんざりして、ウンターネットで検索を続けているうちに、奇妙なことに気がついたのだ。

大手メディア報道される以外のトピックに行きつくたびに、翌日そのサイトそのものが消されてしまう。

それでも検察を続けていると、今度は画面そのものがフリーズして動かなくなるのだ。

2009年のクリスマスオランダアムステルダムからアメリカミシガン州デトロイトに向かう着陸直前のデルタ航空機内でその事件は起きた。

23歳のナイジェリア人男性が、足にくくり付けた爆薬に液状の薬品を混ぜ、自爆を試みたのだ。幸い爆発はせず、周囲の乗客が男を取り押さえ、同機は無事着陸、乗客のうちふたりが軽傷を負った。

CNNはこの爆薬プラスチック爆弾などに使われる有機系化学物質で、大型旅客機を爆破するほど強力なものであると報道ホワイトハウス当局は、男が国際テロ組織アルカイダソマリア支部と関係していると断定した。

「これはテロ未遂だ」

共和党は警備上の不備だとしてオバマ大統領を激しく非難、大統領は休暇先のハワイで緊急記者会見を開き、当局が容疑者についての情報を事前に得ていたにも拘わらず、搭乗拒否リスト(No-Fky List)に載せていなかったとして、テロ警戒態勢と空港警備の強化を進めることを宣言した。

今、アメリカでは、「飛行機に乗れない」市民が、どんどん、どんどん、増えている。普通に毎日、日常生活をしている、市民が、ある日突然、「あなたは今日、テロリスト、であることが判明しました」。それからは、まず、飛行機の搭乗が、なにがあっても、拒否される。次に、仕事に就けなくなる。ブラックリストが出回り、働けない。

合計540ページにわたるリストに記載されていたのは「搭乗拒否人物」44000人と、「搭乗は認めるが、空港で追加のセキュリティ・チェックを要する人物」75000人の、合計119000人だ。

9・11前の同リストに記載されていた人数はわずか16人だったという。

「何故自分の名前がリストに載ったのか、その理由は決して教えてもらえない。どう考えてもテロと関係のない人々がこんなにも載っているのを見ると、そこに明確なルールなどないのでしょう。

常に監視されているのに、自分をじっと見ている相手の姿は決して見えない。たとえ今はまだ一度も足止めをされたことがなくても安心はできません。そもそも自分がリストに載っているかすら、調べる方法がないのですから」

一度リストに載ってしまったが最後、一般市民にはそこから削除してもらうすべはない。そして『テロとの戦い』に関する案件については、裁判をする権利も、司法審査の権利も適用されないのだ。

これが、アメリカである。今もどんどんどんどん、このリストは膨れ上がっている。アメリカ「国家」は、とうとう、テロとの戦いの牙を「アメリカ国民」に向けた。アメリカは勝利する。「すべての」アメリカ国民の敗北と共に。なぜなら、アメリカ「国家」には、どんなアメリカ国民に対しても、そいつはテロリストだ、というレッテルを貼る「自由」を獲得したのだから。

しかし、これが、「ファシズム」である。

独裁者オバマの誕生である。

テロの一ヶ月後、アメリカ国内では封筒の入った炭疽菌民主党上院議員ふたりとメディアに郵送され、五人が死亡、十七人が病院に搬送されるという事件が起きた。

メディアは「次のテロが近い」と繰り返し報道し、不安を煽られた国民がパニックになっている間に提出されたのが「愛国者法(Patiriot Act)だ。

アメリカは、その日、「治安維持法」「大政翼賛会」の両方を手に入れた。ブッシュ大統領は、これで、自分の役目は終わったと思ったことだろう。これで、政権民主党だろうが共和党だろうが、関係なくなった。彼は最後の仕事をやり遂げたのだ。

議員たちはみな「国の緊急事態」「戦争中だ」などと急かされ、342ページにおよぶ条文をまともに読む暇すら与えられず、賛成票を投じない議員非国民だという雰囲気がたちこめていたという。

「『テロとの戦い』という錦の御旗を掲げながら、政府は強引にさまざまな新法を成立させてゆきました」とバーバラは言う。

アメリカの歴史を振り返れば、異常なスピードで通過する法案というのは必ず政府による緊急事態の際いつくられるのがわかります。

そしてそのどれもが、後になって国民にとって最も危険なものだったとわかるのです」

もちろん、テロリスト対策は、それなりに重要だと言っていい。しかし、それはむしろ、放射能廃棄物の管理をどのように行うべきか(不可能なら放射能廃棄物を作らない)、といったような、個別具体的な民主意志決定プロセスにこそ、重要なのであって、

テロの被害をもう一人も出しちゃいけない、じゃー、国民全員、牢屋、に入ってもらおーかなー。

みたいな、「暴論」を、非国民呼ばわりで、国民に即決踏み絵投票させることじゃないだろうと思うのだが(十数えるうちに決めろ。十、九、三、二、一、しゅーりょー)、むしろ、こういうふうに言うと、逆に、国民の方がピンとこない。

牛肉の狂牛病っていったって、「ほとんどの国民が発症してないじゃないか」。狂牛病と診断された、国民、一割なんて、はるかに満たない。一割以下って、統計学上、「ないのと同じ」ですからね(最近は、ロングテールなどで、こういうニッチも注目されるようになってきてますけどね)。

いや、俺、実際、飛行機乗れるし。

アメリカのある見識のある方は、この現象を、ある歴史上の事件と比較する。

ハーバード大学ロースクール・バークマンセンターのジョン・バーロー特別研究員が、「九・一一テロ」を、1933年のドイツで起きた「国会議事堂放火事件」と重ね合わせたのは偶然ではないだろう。

ナチス政権のまず、最初に起きた、この事件は非常に重要です。この事件をきっかけに、ヒットラーは、国民の「粛清」の大義名分を手に入れます。もともと、ヒットラーにはそういったファシストの素養があったのでしょう。彼は、そもそも共産主義的思想をもつ、「思想犯」が野放しにされていること自体が問題なんだ、と国民に呼びかけることで、その「思想」に少しでも、結び付けられた、国民は、牢屋に入れられる。

なんでもいいのです。その「思想」に言及した。その「思想」の本を読んでいた。その「思想」を twitter でつぶやいた。

じゃあ、牢屋。

しかし、なぜ、国家組織を構成する、各アクター(つまり、公務員)は、そういった暴走を「むしろ後押し」するのだろうか。それは、むしろ、彼らの立場になって考えてみると分かりやすい。各官僚は、それぞれの官僚内の組織同士で、権益の獲得競争をしている。彼らの行動の動機は、いかに自分たちの権益を大きくできるか、にある。国民のための行動が、結局、自分たちの官僚内の組織の不要を結論としてしまっては、「行動の意味がない」。

この行動原理のどこに、国民の権利の保護があるだろうか。彼らは、当然の前提として、「自分は市民側じゃない」「自分は国家側」を疑わない。自分だけは別と考えているというわけだ。だって、今の地位を維持できる限り、なんとでもなる。実際、搭乗拒否リストも、権力者なら、

「あ、間違って、自分の名前書いちゃった。消しちゃえ。ついでに、自分の嫌いな奴の名前書いとこ」。

これが権力である。

アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

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