大澤信亮『神的批評』

うーん。なかなか批評しづらい批評ですねー。
掲題の本にもあるが、著者は、NAMの「中の人」として、その解体にも立ち会った人間として、そこに、総括がなかったことを「総括」する。

NAMの失敗以来、日本文学における柄谷行人の権勢は完全に地に落ちた。そこで何が起こり何が起こらなかったのかは未だ不明瞭なままである。だが悲惨なのはNAMの自己検証能力の無さだけではない。柄谷を含めた関係者たちの沈黙でもない。真に悲惨なのは、そこに批評を次のステージに押し上げる契機があったにも拘わらず、それが考え尽されていないことである。

現実と理論の「微分係数」(小林秀雄)の測定を強いられる状況下で、テキスト論者現代思想ファンの贋物性もまた現われた。必然もないのに時勢に見を任せ陽気にはしゃいだ人間たちは言うまでもなく、そのような実践に対してシニカルに構える身振りにも批評は欠落いていた。私自身がそうだった。柄谷を中心とするNAM関連のシンポジウムに通いつめ、ウェブにその報告を書いたりしていた。

これが、「中の人」にとっての総括なのかと思って読むと、なんなのかな、という印象は拭えない。NAMがなんだったのかなんて、知らないし、どうでもいいが、私が鼻白んだのは、ここぞとばかり、地域通貨とかを、こき下した、当時の同業者たちの大人げない言質だったのではないか。そんな、
常識
を、鬼の首でも取ったかのように、得意げに開陳して、そっちの方こそ、よっぽど、なんなのかな、という印象であった。
たとえば、ここに載っている、柄谷行人論なるものは、どこまで、「概説」レベルを越えていると言えるのだろうか。そもそも、何が言いたいのだろう?
そう考えたとき、この本が、何点かの部分で、著者自身の柄谷行人「批判」の実践が試みられていることが気になってくる。
この本の最初の論文が「宮沢賢治論」であるが、著者も、批評空間の鼎談で、

宮沢賢治殺人事件 (文春文庫)

宮沢賢治殺人事件 (文春文庫)

を巡って、議論されていることを、最初に断っている。ここで、柄谷さん自身、宮沢賢治をいわゆる、今までの、日本文学批評が「神聖化」してきた、姿勢を批判するレベルで終わっている(つまり、まったく評価していないに等しい)。
それに対し、著者は、真っ向から、宮沢賢治の「可能性の中心」、つまり、なぜ、宮沢賢治は、「神聖」なのか、の理由に向かおうとしているわけですね。
それは、一言で言えば、田中智学の再評価であり、満州建国の再評価であり、石原莞爾『最終戦争論』の再評価、なのでしょう。
ただ、私個人の感覚としては、宮沢賢治を、そこまで、偶像化したい気持ちにはならない。それほどの存在とは、とても思えないし、実際、それほど作品自体を残していない。
(そういう意味では、田中智学のような人の方がずっと気になる。)
ただ、これと関連して、著者が何度も強調するテーマこそ、人間中心主義を超えた先にある、動物愛護であり、植物愛護なわけですね。
(これも、批評空間のどこかの鼎談で、太田龍だったかの話で、柄谷さん自身が、揶揄していたんじゃなかったですかね。)
こうやって並べてみると、著者の、最近はやりの、
セカイ系
的な感受性がみょうに気になるんですね。一気に普遍的な理念による、「審判」に向かう。どうなんですかね。最近の若い人たちは、そういう感受性に親和的だということなのでしょうか...。
著者が、なぜ、暴力を肯定するのか。それは、肯定ではなくて、「ある場面において」理解できる、という形で、告白している。

そのなかで私が本気で考えさせられたのは池袋通り魔事件だけだった。なぜか。彼の殺意が凡庸だったからだ。親の借金のせいで進学校を中退させられた上に両親は蒸発、無数の仕事を試みるも適応できず、中上健次『十九歳の地図』で装填した怒りを路上でぶちまけた同世代の凶行は、身に染みた。逮捕後、獄中で自分のために宗教を作ったことも、痛かった。犯行の前年、自動車工場の仕事を人員削減で失職後、アメリカに単身渡航した折、所持金が尽き餓死寸前だった彼の身元を引き受けた、「ポーランドの教会の人たち」との一瞬の幸福な時間なども思い出された。
メディアでは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という議論が盛んに交わされていたが、自らを省みない放言は、空疎だった。どの口が言うのか。少なくとも、私は、自分が彼の境遇におかれたとき、精神が荒み、そこに社会全体への憎悪が芽生えることを否定できなかった。

著者の、柄谷行人論の主題は、初期柄谷の評価に全てが、かかっている。ウィトゲンシュタイン評価からの展開を「堕落」の一種と考えるわけで、むしろ、それ以前の、内面の思考の「徹底」が不十分だったんだ、というところにこそ、可能性を見出そうとする。たとえば、

それは一見、大学紛争中には抗議の辞職をするなど、有言に実行が伴ったかに見える、高橋和巳に対する全面的な否定に顕著である。柄谷は高橋の死に際して「妙に死にいそいだなあ」と冷たく突き放す(「高橋和巳の文体」)。高橋の脳髄は救いがたく観念に汚染されており、そこから試みられた行動のすべても結局、現実を無視した主観の延長にすぎなかった。

(全般的考えれば、ここにこそ、柄谷さんのある種の特徴があるように思えますね。)
著者は、上記までのところから分かるように、ど真ん中ストライクで、
疎外論
ですよね(露骨なまでに)。それを徹底する先に、なにがあるのかを、とにかく、愚直にさらけ出そうとしている。そういう意味で、今の、柄谷さんに不満でありつつ、他方において、アソシーショニズムの「普遍宗教」性のようなものに、強烈に魅かれ、その先に可能性を見出そうとしている。その、アンビバントを書こうとしているのではないだろうか。
他方において、私はなんなのだろう。
私は、初期柄谷にあったような、内面を突き詰めていく、あの文学性には、たしかに、興味深くは、思ったが、それほど取り付かれるような感覚まではなかった。
私がどちらかといえば、興味をもったのは、明らかに、ゲーデル的な「形式」から、
ウィトゲンシュタイン
を、そういった「(数学的)形式」性の延長、で見ようとしていくような点だったように思う。たしか、村上龍だったかが、文学とは「情報」にすぎない、といったようなことを言っていたと思うけど、むしろ、そういった感覚の方こそ、親和的に思えた。
(数学的形式性(内部)から、ウィトゲンシュタインを考えるということは、ウィトゲンシュタインからカント、を考えることだったんだと思うんですけどね。)
内面は、「形式」的に見たとき、意外に、単純に「整理」できる。むしろ、興味深いのは、世界には、さまざまに、多くの「形式」が適用可能であり、それぞれが、それぞれに、興味深い、(単純でありながら、複雑な結果を説明し、かつ興味深い)形式性を内包していると考えられることであって、その、個別具体的な、
実践的な
意味なのではないか。例えば、宮沢賢治にしても、私が、あれっ、と意外に思ったのは、銀河鉄道の夜、が、何度も書き直されている、それぞれの「差異」について、であった。なぜ、そのように、それぞれが違っているのか。
(著者は、議論をスルーしているが、明らかに、吉田司の上記の本は興味深い。)
こういった「現場」的な関心は、明らかに、
セカイ系
的な全能感(全能無力感)とは、違っていて、つまりは、
ウィトゲンシュタイン
的な、ある狭い視野ゆえに開ける何か、のようにも思えるのだが...。

神的批評

神的批評