フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命』

今回の、東日本大地震において、死者のおよそ6割が60歳以上であったというニュースがあった。この老人の死者の割合は、やはり大きいと言わざるをえない。
津波において、なによりも重要なことが、一秒でも早く、安全な場所に移動することだったとするなら、年寄の第一歩がどうしても遅くなることは、この問題への根本的な解決の難しさを実感せざるをえない。私たちが考えるのは、市民社会が満たすべき条件といったもので、そんなに簡単に大量死をだすわけにはいかない。そんなに簡単に大量に人が死ぬのであれば、それは市民社会ではないわけで、それは年寄りだろうと関係ない(小さな子供のいる家庭や、ある程度の年齢に達したら、陸の方に引っ越すというようなことは、いずれにしろやるべきなのだろうか...)。
この前の、みのもんたの朝の番組では、岩手では、津波は30メートルを超えていた、という。なぜか、震源から北の方が津波は高かった。ただ、明らかに、堤防がある所は、津波の大きさを抑えていた。力を弱めていたことは間違いない。また新しく作った堤防が完全に破壊され、昔のものは残ったということも言っていた。新しいものには、なんらかの構造的な欠陥があったのかもしれない。
今後、少しずつでも詳細な調査が求められている。やはり、こういったことは専門家の仕事であって、全体を俯瞰したエビデンスが、次の被害を抑える施策となるのだろう...。
あと、たしかにテレビなどをみても、町が瓦礫でならされている状況を見ても、その津波の破壊力が尋常でなかったことは分かるし、その被害が広範囲だったことも分かるのだが、しかし、そうであっても、その被害地域が、ほぼ東北2県(+1県)に限定されていたことは、今回の災害の特徴と言えるのかもしれない(いいかげん、小沢さんは、恩赦でよくないか。政治家とは、国民の側の人間なのであって、国民の「手段」なのだろう。民主党が党員資格を剥奪し続けて、それで、岩手の復興を、小沢さんをパージしたまま続けているという、その姿勢が、とにかく理解できない。地元の国会議員を中心に置かないで、関係ない人間が、現場も知らないで、明後日(あさって)の話をしていることが、明らかな、今回の復興のスピードを弱めているように思える)。
実際、東北新幹線が動かなかったわけだが、日本海側を通れば、
東北に行けた
という事実(つまり、物流のラインが完全に寸断されていたわけでは、少しもない)は、驚きとともに、日本という国が、表日本と裏日本の両面で形成されていて、今回の被害が表日本の問題だったことを物語っているのだろう。
つまり、気になることは、そういった意味での、被害の
局所性
である。岩手、宮城(、福島)、それぞれの県は、それぞれに被害の内容も違うはずで、これらの県を縦断する「復興ヴィジョン」を、彼らとなんの関係もない、東京の国の役人が、現場とあまりにも離れた東京で、考えている時間があったら、各県それぞれに、まず、
まとまったお金
を渡すことができないのだろうか。とにかく、こんだけお金をやるから、各県で(せめて仮設住宅くらいは)なんとかしろ、と言うことはできないのだろうか。どう考えても、仮設住宅がまず、復興への第一歩のはずなのに、それをいつまで作るかとかやり合っているのが、東京のえらい人というのは、どうしても、違和感がある。
岩手、宮城(、福島)、のそれぞれの県の人に考えさせれば、どこに仮設住宅を彼らが作りたいか、そういったものを含めて、彼らで決めれば、それなりの直接民主主義的な合意点で、(土地のリースも含めて)それなりに迅速に、現場が
満足
するものにならないだろうか。
いや。別に、東京の人が考えてもいいのだが、考えるなら、現場に来て、残りの半生をそこで骨をうずめるくらいの覚悟でやってもらいたいものだ。
結局、復興というのは、それなりの業界が儲かってしまうので、さまざまな私利私欲を抱えた集団がわいてきてしまう。そうすると、問題の本質がぶれた議論に誘導されてしまう。
たとえば、東京の人間がなにかをするなら、徹底的に黒子に徹すべきではないだろうか。彼らはどこまでも周縁を援助することに徹すると。彼らが足りてないとアラームをあげてみるものを、素早くキャッチして手当てする。
もちろん、長期的なこの地域の地方自治戦略ヴィジョンというものはありうるだろう。しかしそれは、東京で話すことなのだろうか。私にはそういったときの意識のずれが気になる。いずれにしろ、
現場から考える
というスタンスが徹底して求められているように思う。
津波の被害を考えるとき、そもそも、市民社会はこういった「被害」を受け入れていいのか、という問題意識に立たないとどうしようもないんじゃないか、と考えてしまう。つまり、一回なら、しょうがないと言えなくもないが、過去にも同様の津波があって、それで二度三度と同じ被害を忍従しているのだとするなら、こりずになにやってんだ、となるだろう。
島国の日本で生きるということは、こういうことなのだろう。太平洋側は、後(うしろ)は広大な海が広がっているわけで、いくらでも大きな波が予想される。海は恐いのだ。
しかし、恐いなら恐いなりに、また襲ってきた場合を考えて何をやっておくのか、が問われているように思えてしょうがない。
予測「できる」未来に対して、
見て見ぬふりをする
社会を、近代市民社会と認めることに、どうしても抵抗がある。
しかし、こういった認識は、巡り巡って、自らに刃(やいば)が返ってくる。
なぜ近年、「情報」という言葉がこれほどに重要視されるようになったのか。一つにはもちろん、インターネット上にあふれる言論の量の増大があるだろう。
しかし、それだけではない。そもそも、「人間」そのものが「情報」と考えていい、という生物学的な研究の広がりが、圧倒的な研究成果として広がり始めていることがあることは間違いない。
つまり、遺伝子(DNA)である。
生物の多様性を考えたとき、そこに「プログラム」の存在を想定することは、かなり常識的だったようにも思える。
ワトソンとクリックが発見した、DNAなるものは、非常に単純な「プログラム」であった。文字の種類は、たったの、4つしかない。これが、二列の螺旋(らせん)を形成していた。
たったこれだけ。
もちろん、このDNAが、実際のところ、固体形成の間に、どのような作用を及ぼすのかなんて、さてね、って感じだが、男と女の生殖細胞が受精してから、さまざまなフェーズで、さまざまな箇所が、さまざまな重要な
役割
を演じて、固体形成(人間という形の形成)に至っている。そして、死ぬまで、その固体のホメオスタシスに大きく関わる役割を演じる。
この「生命言語」のタームは、たったの4つだが、なにせ、
長い。
人間それぞれは、ほとんど同じで、0・4%しか違わないとしても、あまりに長いので、それでも、各個人の個性となりうるくらいの違いにはなるということのようだ。
2003年に、ヒトゲノム・プロジェクトが完了し、「全て」の人のDNAは解析完了した。たしかにこの事実は大きかったのだが、掲題の本を読むと、その事実の大きさは、むしろ、それ以降にさまざまにアメリカにおいて生まれた
ビジネス
によって、否応なく実感化されてきたということのようだ。

原因遺伝子の発見は当然市民に逐次報告され、定期的にメディアで取り上げられ、オプラ・ウィンフリーなど芸能人のトーク番組でも特集が組まれている。民間企業はDNA検査サービスを直接、市民に売り込みはじめた。遺伝子検査が、ハイリスクとされる個人のみに適用される医療行為だった時代から、事実上だれでも受けようと思えば受けられる時代に入ったということだ。病気の予防に敏感な人は医療機関を通さずに検査を受け、その特別な情報を活用できる。そんな企業の一つ、23&ミー(23andMe)は、たなたのDNAの謎をいますぐ解き明かそう」をうたい文句に顧客を増やそうとしている。別の企業のナビジェニクス(Navigenics)は個人え受ける検査を「あなたの健康をコントロールするためのアクション・ステップ」と、もう一つの企業デコード(deCODE)は「情報に基づく判断をあなたの健康に」と宣伝している。
現在、これらの企業でできる検査は全DNA分子の〇・1%未満に関するものにすぎないが、そこから得られる情報は数十種類の病気や病態に及んでいる。

「生命言語」とは、アプリオリな、パーソナル情報であり、いわば、アイデンティティそのものである。つまり、人間は自己言及的な
情報
によって一次的には、決定してしまった、ということなのだ。このことは、これ以降の人類に大きな影響を与えることになるだろう。

家族の健康史は、「よくある病気」の予測因子として現在測定可能なもののうち最強だということがわかっている。家族は遺伝的な要素はもちろんのこと、環境的な要素も共有していることが多いからだ。あなたの親かきょうだいに心臓病患者がいれば、あなたの心臓病リスクは二倍だ。いえわゆる第一度近親者に心臓病患者が二人か三人いて、しかも五五歳以前に発症していれば、あたなのリスクは五倍に跳ね上がる。
親きょうだいに大腸癌、前立腺癌、乳癌になった人がいれば、あなたが同じ病気になるリスクは二倍から三倍ある。糖尿病、ぜんそく骨粗鬆症も同様だ。この種の情報はあなたと医者が知っておくべきこと、あなたの医療に詳細に反映すべきことである。それなのに、こうした情報は集められることがほとんどないか、単純に無視される。

たとえば、ある人がある人を「選ぶ」場合を考えてみよう(大学の入学選抜や、会社の入社選抜でも、結婚相手でもいい)。

  • 選ぶ:人 --> 人

この場合、

  • DNA ≒(∈) 人

なのだから、つまり、

  • 選ぶ:人 --> DNA

という関係が指摘できてしまう。優秀な生徒とは、優秀になる「蓋然性の高い」生徒ということで、つまり、将来の予測は、DNAによって、「決定できる」のではないか、という話になってしまう。
例えば、国家が優秀な官僚を必要としているとして、どうやったら、
無駄にお金を浪費することなく
効率的に人材を獲得できるかを考えたとしよう。すると、「最初から優秀な官僚にならないことがDNAによって予測できる」子供には、手厚い教育は不要と考えるわけだ。そういった無駄な投資は、お金がいくらあってもきりがないので、最初から見切りをつけてしまう。
ただでさえ、国の借金がふくれて問題だと言っている人は、「効率的な国家」とはなにを意味しているのかを考えた方がいい、ということなのだろう。
ずいぶんと剣呑な話に思えるかもしれない。しかし、それは自分が「選ばれる」側にあるからで、これを逆から考えてみよう。
戦後の人類が明らかに、一点だけ、大きな変化をとげたことがある。平均寿命が大きく伸びたことであろう。人は死ななくなった。まず、子供が死ななくなった。病気の知見が伸びて、大抵の対処方法が確立したから、といえるだろう。また、老人もなかなか死ななくなってきた。
これは、非常に大きな変化であり、人類は未曾有の「実験」過程にあると言ってもいいだろう。非常に多くの老人が生き続ける。今、
老人の時代
が始まろうとしている。
(この一里塚こそ、選挙の保守化であろう。軒並み、原発立地地域で、原発推進派が勝利したのは、今の「安定」を変えられることを嫌う、老人たちの、保守根性と言えばいいのだろう。選挙はほぼ、老人向けの政策でない限り、票をもらえなくなっている。若者は選挙に行くというルーティーンがないが、年寄は、まずもって、年金という彼らの生命線がかかっているから、選挙に行かないという選択肢が考えられない。)
たとえば、ガンという病気は、今、世界中の人々にとって、最も死因となりやすいものであろう。しかし、このガンでさえ、
遺伝子(DNA)
の病気であることには変わらない(すべての病気は、病気である限り、なんらかの遺伝子に関係している...)。

これまでのところ、癌に関係する遺伝子は三タイプに分けられている。一つ目のタイプは、オンコジーンともいわれる「癌遺伝子」だ。「癌遺伝子」は、細胞増殖を正常に促進する蛋白質を指示する(コードする)。これらの遺伝子は発生や成長に不可欠なものだ----私たちはみな一個の細胞からはじまって、分割と増殖をくり返して育つのだから。身体に傷ついたときの修復や、健康を保つための細胞再生にも不可欠な遺伝子である。
「癌遺伝子」は通常、きびしく統制されているため、増殖信号はそれが必要なときにしか発せられない。しかし、「癌遺伝子」に変異が起こると増殖信号を抑制しなくなる。ちょうど車のアクセルを踏みっぱなしのような状態になる。

二つ目のタイプは、「癌抑制遺伝子」と呼ばれているものだ。「癌遺伝子」がアクセルなら、「癌抑制遺伝子は細胞増殖を必要に応じて抑えるブレーキにあたる。だが、変異のせいで「癌抑制遺伝子」がはたらかなくなると、ブレーキが利かなくなる。

三番目のタイプは、「DNAミスマッチ修復遺伝子」と呼ばれるものだ。癌がゲノムの病気で、その変異のために起こるなら、DNA複製の際に出るエラーを見つけて直す「校正作業」に支障が出ると、癌リスクが高まることは容易に想像できるだろう。その「DNA複製のミスを正す」はたらきをする蛋白質をつくり出すのが「DNAミスマッチ修復遺伝子」で、これらの遺伝子に支障が出ると、さまざまなエラーがゲノムに紛れ込む。

いずれにしろ、私たちが癌と付き合っていかなければならないことは、間違いないようだ。一番いいのは、癌にならないことだと言えるだろう(そう考えるなら、今の原発のような今回の事故のようなものを起こし、かつ、保険会社の保険がおりないようなわけのわからないものは、ないにこしたことはないのだ)。
そうした場合、では、自分の遺伝子が、癌にどれくらいなりうるかの
リスク
が問題になってくる。さて。そもそも、リスクとは何か。

ここで、リスク予測をすることとそれが健康にどう影響するかについて、一般原則をおさらいしてみよう。意識しているかしていないかはともかく、私たちはこの種の情報を得たいかどうか判断するとき三つの点を考える。

  • 要素R「そのリスク(Risk)はどれだけ大きいか?」この問いに答えるには、リスクには二種類あることを覚えておかなければならない。「相対リスク」という言い方を聞いたことがあると思うが、これは、あなたのリスクが平均的な人のリスク(ベースライン・リスクという)より高いか低いかをあらわす。相対リスクが一・〇ならあなたのリスクは平均と同じで、〇・五ならふつうの人の半分ということに、一・五ならふつうの人より五〇%高いということになる。一方、人々は生涯にわたる「絶対リスク」も知りたがる。リスク予測が自分の人生にどんな意味をあたえるのか、考える材料になるからだ。リスクの大きさを知るにはこの両方を知らなければならない。たとえば、私の多発性硬化症の相対リスクがふつうの人より一〇倍高いと聞けば、私は恐くなる。だが、ふつうの人がこの病気になるベースライン・リスクはたったの〇・三%でしかない。つまり、多発性硬化症にならない確率は九七%もある。そう考えると、相対リスクの一〇倍といういかにも恐ろしげな数字も、私にとってそれほど気にしなくてもいいことになる。
  • 要素B「その病気になったとき、どれだけの負担(Burden)があるか?」私たちは軽い不具合よりも重い病気や命にかかわる病気を心配する。癌のリスクについては真剣に耳を傾けるだろうが、テニス肘のリスクについては----あなたがロジャー・フェデラーでもないかぎり----気にならない。
  • 要素I「どんな介入法(Intervention)があるのか?」これは、将来なるかもしれない病気のリスク情報を知りたいかどうかを決める決定的な要素だろう。たとえば私は、心臓発作のリスクを知らされたならそれに基づく予防措置をとることができる。だが、アルツハイマー病のリスクを知らされても私にできることは何もない(自分の退職プランを決めるのに参考にすることはあるかもしれないが)。

つまり、リスクとは、まずもってパーソナルなものであることを理解する必要がある。それをリスクと思うか思わないかは、その人の考え方や生き方とも関係してくるものであり、一概には言えない。もっと言えば、
どういう社会が望ましいと自分は思っているのか
にも関係しているのかもしれない。リスク・コミュニケーションは、基本的にはパーソナルコミュニケーションだということなのだろう。
たとえば、ある人の人生において、もし、40歳で癌になって、50歳で死ぬ「蓋然性が高い」ことが、「パーソナルゲノム解析」によって、分かっていたとき、それにそなえて、予防をしたり、または、それにそなえて、心構えをしているだけでも、ずいぶんと違った人生となることが分かるだろう(また、たとえば、乳癌のようなものなら、早い段階で切除するなどの、思い切った手術で、命をながられるかもしれない)。
しかし、だからといって、それは遺伝子が
パーフェクト
かどうかを議論しているのではないことに注意しなければならない。

私たちはみな、DNAのエラーをもっている。もしあなたが、自分は遺伝子的にパーフェクトだという前提でこの本を読みはじめていたなら、それは間違っている。そんな人間はどこにもいない。ヒトという生物種の中であなたをあなた以外の人と分けている〇・四%の遺伝子の違いは、あなたの健康に影響しないものがほとんどだろう。でも中には、将来、病気を引き起こすものがあるかもしれない。私たちはみな、何かしら欠陥を抱えているミュータント(変異体)なのだ。

そもそも、遺伝子とはなんなのだろうか。そこにおける、
優劣
を考えることに、なんの意味があろうか。

ヒトゲノムに影響をあたえる淘汰圧はまだほかにもある。感染症に抵抗する必要性が大きな力となるのだ。西アフリカの人々に鎌形赤血球の変異が広くみられることはすでに述べた。この赤血球の持ち主はマラリアにかかりにくい。同様の変異は地中海周辺にもみられ、この変異の出現頻度が高い地域は数千年前からのマラリア原虫の分布域とほぼ完全に重なっている。その他のマラリア流行地域では、別の「ありがたい」変異が高い頻度で出現しており(サラセミアやG6PD欠乏症など)、その変異保有者はマラリアに感染しても早死にせずにすんでいう。このほかに、西アフリカでみられるゲノムに影響をあたえた自然淘汰として、ラッサ熱にかかりにくくする遺伝子がある。世界中に広がったHIV感染症もいずれはヒトゲノムに痕跡を残すだろうと予想する人もいる。感染に抵抗できる遺伝的性質をもった人々が子孫を残す確率が高くなるからだ。

こういった、アメリカでのこのDNAブームに比べたときの、日本のあまりにもの、鎖国ぶりは、どうしたことであろう。なぜ、日本では、こういった情報が全然、話題にならないのだろう。

遺伝情報による差別の問題に対応する必要性が指摘されるようになったのは一九九〇年のころからだ。私たちの研究チームは、DNA検査を推進する乳癌患者支援団体や人権擁護団体とともに、医療保険や職場でも差別を防止する連邦法の制定を求める発表をした。ニューヨーク州選出のルイーズ・スローター下院議員がそれに応え、一九九六年に議会にもち込んだ。原則は自明だ----私たちはだれ一人として自分のDNAを選べないのだから、それをもって差別をするのは肌の色で差別するのに等しい。
ところが、この法律が両院を通過して成立するよりも、ヒトゲノム全配列の決定のほうがよっぽど簡単だったということがあとになってわかるのである。医療保険業界やさまざまな事業者団体(商工会議所など)が法制化を妨げたせいで、この法律は二〇〇七年四月二五日になるまで下院を通過できなかった。偶然の一致なのだが、四月二五日はアメリカの学校で「DNA記念日」として祝ってきた日だ。ワトソンとクリックが一九五三年に二重らせんモデルを発表したのがこの日だから。DNA記念日に下院通過とは、うれしい贈り物となった。
そこからさらに一年たった二〇〇八年四月二四日(DN記念日の一日前!)、上院を通過した「遺伝情報差別禁止法」は晴れて成立した。

この法律そのものには、いろいろ批判もあるようだ。ようするに、各個人のゲノム解析ビジネスを軌道にのせるための法律であって、本当に差別を禁止する「ため」のものなのか、という疑問ということらしい。
しかし、いずれにしろ、こういった「差別禁止」法が成立してしまうところに、アメリカという国を考えさせられてしまう。有色人種差別など、アメリカは多くの差別と戦ってきた国であるだけに、こういった法制化に比較的受容的ということなのだろう。実際、差別禁止という、あるフレームが成立していない限り存在しえないビジネスや社会秩序というのは、多くあるのだろう。
(なぜ、日本でこの法律が騒がれないのかと考えれば、やはり、天皇制の影響はあるのだろうか。天皇そのものが遺伝的な優越を示唆する存在とも思えるだけに。というわけで、日本において、どうも、遺伝子の話題はタブーのようだ。)
しかし、だとするなら、なぜ、この本の題名が「革命」となっているのかを考えなければならない。

従来のパラダイムでは、病気はその症状が出てはじめて診断される。その診断を各種の検査で補完するという形で。治療は、同じ病気になった人は全員の同一の条件だという前提で何千人、何万人の患者を対象に実施される臨床試験による統計結果をもとに決められる。このパラダイムの下で、アメリカでは医療費(ヘルスケア)に年間二兆ドルが使われている。そのうち、予防に使われているのはごくごくわずかだ。この国にあるのは健康管理(ヘルスケア)システムではない。病気管理(シックケア)システムだ! 私たちが受ける治療は、なぜ効くのか効かないのかを理解しないまま押しつけられている「試行錯誤」だ。
これからのパラダイムは違う。個人はそれぞれ違う存在だという前提で考える----だれもが少しずつ違うパーソナルゲノムを授かって生まれてきており、それが有利にはたらく場合もあれば、将来病気を引き起こす場合もあるという前提で。

近年、経済学者たちがさかんに、日本のこれからの成長産業を「介護」ということの意味を前から考えていたのであるが、こういった視点においても考えられるのかもしれない。日本の医療は、完全に、
ビジネスモデル
として完成しているために、あらゆる改革は、「抵抗勢力」によって潰される。そもそも、医学部の学生は、日本に少なすぎる。日本中の子供たちが、医者になりたいのに、医学部に入れない。
つまり、医者が増えると、今医者の人たちの、「お客」を奪われるから、収入が不安定になるということなのだろう。だから、少なく抑えられる。しかし、今後の、医療は、上記のように完全にパーソナルなものとなっていくとして、もっと、
その人に寄り添って考える
「立場」の人が求められているのかもしれない。遺伝子情報をその人のことを思って管理してくれる人。つまり、そう考えたとき、老人は、
若者とペア
になることで、第二の老後の人生の構築を目指せるのかもしれない。たとえば、ITにしても、年寄は、老眼なので、テレビ以外の、パーソナルデバイスアイパッドなど)が、自分で使いこなせる自信がない。しかし、介護をしてくれている若者が、常に身近でサポートをしてやれば、うまく、導入部を入っていけるかもしれない...。
さて。
そういうわけで、予測「できる」未来に対して、見て見ぬふりをする社会を、近代市民社会と認められないという考えが、よりパーソナルな問題において検討されたとき、どういった社会が目指されるべきとなるのか、を検討してきたわけだが...。

遺伝子医療革命 ゲノム科学がわたしたちを変える

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