庵田定夏『ココロコネクト ヒトランダム』

もし、高校の部活が、加入が必須だった場合に、どういうことがおきるだろうか。掲題のラノベでは、たんに参加が必須なだけでなく、各部は、5人以上によって構成されることが義務づけられている。
つまり、自分が参加する部活には、5人はいなければならない、というのだ。
もちろん、入学してから、部活の参加の期限がある。
なんともまあ、そんなにうまくいくのかいな、と思わなくもない。大量の、幽霊部員が発生しそうな印象だが(まあ、部活に入部していないことを、帰宅「部」と言ったりもしますからね)。
掲題のラノベでは、そういった参加するまでに至らなかった5人を、先生が一つの部活に、体裁を整えたところから始まっている。
高校生がなぜ、一年間、同じメンバーによるクラスを構成しなければならないのか、の合理的理由はない。しいていえば、中学までそうだったから、くらいか。そして、同じことを「部活」においても行おうとしているのが、この学校だ。
しいて、その違いを言うなら、「どの部活にするか」の選択は、生徒に与えられている。しかし、一般にそういうものを「選択」と言わないのではないか。つまり、

  • 選ばない

という「選択肢」がない選択は「自由」とは呼べなくないか?
例えば、大学の授業は、単位制を採用していて、とにかく、さまざまな中から、「なにか」を選んで、最終単位になればいい、という形になっている。しいていえば、

  • 全て選ばなくてもいい

のだ。ただし、いつまでも卒業できないが。
では、掲題のラノベにおける、このように構成された5人の「文研部」において、どのような特徴が見られるだろうか。
まず、この5人は、この部活の活動内容が本当に自分がやりたかったことなのかが怪しい。あやしいが、いずれにしろ、彼らは、

  • 部活動をしなければならない

ことだけは、決定しているわけである。そう、学校の規則で決まっているからだ。そもそも、なにをやるための部活なのかも、まともに決定していない。つまり、彼らそれぞれの「思い込み」による、活動の不一致、思ったことが行われないことによる、不快な感情の増大も起きうるだろう。
こういった状況において、この部活に参加する、それぞれにとって、「なにが大事」になっていくだろう?
一つの特徴として、この作品は、どこか「仏教説話」のような、「縁起」的な物語に近くなっているような印象を受ける。
まず、彼らは、なぜこの活動を行っているのかの「目的」がない。目的はないのだが、みんな、放課後になると部室に集まる。では、

  • なにをやるのか?

彼らが行い始めることは、自然に、

  • みんなに対する気づかい

である。つまり、これしかないわけだ。みんながみんな、相手のことを考え始める。考えてみれば、自分がこの部活の状況に不安をもっているということは、他の4人もそれに不安をもっているわけで、当然そういったことが主な「活動」になっていくことは、自明なのであった。
ライトノベルの特徴は「日常」にあった。日常において、人々は、

  • 表層的な

日々の人付き合いが、「キャラ」として、漫然と続いていくことになる。それは、その「空間」における、ハイコンテクストが呼び起こす、付き合いの「作法」のようなもので、人々はそのキーワードに、たわむれ、毎日おとづれる日常をたわむれる。
他方において、ラノベにおいて、そういった「軽さ」が、たんに表面的なものであることが強調される。
学校とは、さまざまな階層の人たちが、一つところに集められる、特殊な空間だ。そこにおいて、一人一人は、過去において、さまざまな、トラウマであり、スティグマをもって生きてきた。彼らは、確かに表面的には「健常者」であるが、内面は、だれにも見えない。そこにおいて、どんなドロドロとした、怨念を抱えているかは、外からは押し測ることはできない。
しかし、部活とは、一種の「閉鎖空間」である。その部室には、部員以外が入ってくることはない。その閉鎖された空間において、毎日、毎日、放課後には必ず、集まる、その
日常
において、必然的にそういったスティグマは、彼らの「日常」となる。毎日毎日、くりかえされるその日常において、彼ら5人は、その区別がなくなっていく。相手と自分を区別することに、それほどの意味がなくなっていく。彼ら5人が揃っているその部室の

  • 部活空間

において、ある一人が精神的スティグマに悩んでいることは、すぐに、残りの4人に伝染し、彼らの「不安」になる(彼らは、その「不安定」に、ストレスを感じるようになる)。必然、その4人は、その一人の問題の解決を、

  • 部活の命題

とするようになる。
しかし、そんな他人の悩みを、解決するなんて、可能なのか?
この問題提起は、そもそも人間関係には、どのような分類が可能か、と対応してくる。こういった閉鎖的空間にとどまる人たちの態度は、以下に分類される。

  • 敵対関係(いじめ)
  • 無視関係(シカト)
  • 友好関係(おせっかいな干渉&その行為の他者による承認)

最後の関係は、お互いが、お互いに、「おせっかい」にも、干渉し合う関係でありながら、いじめとは違い、その干渉を、それぞれ「心地よい」と、「承認」し合っていると言える。問題は、そんなことが可能なのか、であった。
ある問題(スティグマ)があったとする。それには、だれにも干渉されたくない。しかし、これだけの長い間、同じ場所にいるなら、どうしても、それの「徴候」のようなものを彼らに気付かれ、

  • 心配

されてしまう。よって、不安の連鎖が広がり、不安定な構造が長期化してしまうかもしれない。そこで、戦略として、そのスティグマを、彼らに「公開」するという方法が選択肢として、浮かび上がる。
どうして、そのような選択が考えられるのか。
長期的な、「日常」関係が、彼らの中で「信頼」を生み出すからであろう。彼らのそれぞれの日々の反応が、彼らの「予想」に対する確度を高め、自らのプライバシーの一部の公開を認めていくようになる。
掲題の作品の欠点をいうなら、この5人のうち、女性陣の3人には、少なからず、そのスティグマを開陳させながら、残りの2人の、男性陣に、そういった部分を用意しなかったために、どこか、男性陣側を

  • 超越的

な視点に置いてしまったことではないだろうか。
少しヤンキーのような、お気楽な性格を与えられた、青木義文(あおきよしふみ)には、そういったトラウマが見受けられない。それは、彼が、そういった自らの今の姿を「そのまま」に受け入れようとする強い人格が与えられてしまっているから、といえるだろう。
他方、主人公の、八重樫太一(やえがしたいち)は、趣味のプロレスにおける、「受けの美学」を、女性陣3人のスティグマにおいても、適用しようとする。
彼は、みんなから、それを「自己犠牲」という欺瞞として、批判される。なぜなら、自分を傷つけることで、他人を救っても、自分に利益がなく、損なだけなら、なぜそれを行うのかは、言わば、非合理性と受け取られざるをえないために、理解しがたい、となるからだ。
太一は、一方においてそれを、自分の性格に帰する。つまり、それを自分が「やりたい」、快楽だと思っているんだから、と。
しかし、他方において、太一は、なにも考えていないわけではない。

ずっとこれまで乗り越えられなかったことを、立ち向かわずに乗り越えられるはずがない。太一はそう、思う。険しくリスキーだとしても、その道を歩くのが、自分のやり方なのだ。それは変えられないし、変わらない。

大丈夫か?
太一は自分に、問いかける。
もしかしたら、本当は大丈夫じゃないかもしれない。それでも、進まなくてははならい。それがなにかわからなければ、自分にはどうしてもやることもできないから。たとえ傷を負うことになっても、まずスタート地点に立ちたいのだ。

つまり、ある能動性が、この「場」の力学に、多少なりとも、化学変化を起こすのではないか、という、「信」の問題だと受け取るのだ。
その「場」は、一種の、マイナスの力場が、がちがちに、からまり合い、まったく、身動きができなくなっている。だとするなら、求められていることは、その力の関係を、ずらし、変えることであろう。
もちろん、そうしたところで、元に戻るだけかもしれない。しかし、いずれにしろ、そういったアクションなしに変わることがないのなら、なんらかの有効な手段を探しチャレンジするのが、人間なのだろう。
しかし、それによって、桐山唯(きりやまゆい)や稲葉姫子(いなばひめこ)に行ったような、「能動」性の「対症療法」だけでは、どうしようもないのが、

  • 永瀬伊織(ながせいおり)

だ。
彼女は、生まれてから今まで、何度も父親が変わり、そのたびに、傷ついてきた。そういった「事実」性の蓄積は、その経験の積み重ねが、他者に見えない「過去」の連続として厳然として存在するわけで、さすがに、太一だろうとだれだろうと、深くはそのプライバシーに入っていけない。
そういった関係から、ラストの「とりひき」が、必然的に要請された、考えられる。
彼女は、川に落ちて、死にそうになる。病院に運ばれた彼女は、もうすぐ死ぬ、という。しかし、彼らの前に再度あらわれた<ふうせんかずら>は、彼らに、ある取引をもちかける。
他の4人のうち、魂が入れ変わることによって、死ぬ魂を、他の4人のどれかと変わることができる、というのだ。
彼ら5人は、それぞれ話し合うが、その死を引き受けるのは、最後は、本人しかありえない、という結論に達する。
どんなに太一が「自己犠牲」によって、自分が代わりになることを選んだとしても、自分の体をもらう、その後に生きる永瀬伊織(ながせいおり)が、その暮らしが、辛いだけなら、意味がないからだ。
太一は、その「自分にはどうしようもならない壁」を前にして、彼女への「愛」を告白する。それは、お互いがお互いの欠けているなにかを、補い合うには、そういった

  • 長期的関係

が不可欠であるという、認識に関係している、といえるだろう。
太一は、永瀬伊織(ながせいおり)を救えない。
それは、太一が本当の意味で彼女になれないからであり、彼女の痛みを分かれないから(過去からの長い蓄積は、一瞬で理解される概念とは異質な認識なのだ)。
だとするなら、そこで、太一が長期的な関係を求めることは、必然だ。そして、稲葉姫子(いなばひめこ)は、彼女もそうされることを求めている、と彼を後押しする。
たしかに、スティグマは、簡単には変わらない。しかし、それは死ぬまで続くのだろうか? 絶対に変わらないのだろうか。いつか、なんらかの変化があらわれることが起きないとは限らないだろう(つまり、こういった長期的な関係を「愛」と呼んでもいいんないか、と)。
しかし、ここで矛盾が発生する。
永瀬伊織(ながせいおり)は今、死のうとしてわけであった。しかし、太一はそんな彼女に代わってやることができない。しかし、だからといって、長期的に彼女のトラウマを引き受け、共に、戦っていくこともできない。
しかし、逆に言えば、そうであるからこそ、お互いは、その関係を

  • 理解し合えた

とも言えるのではないだろうか。
この作品は上記でも指摘したように、どこか仏教の縁起ものの物語に似ている。この作品において、なにより気になるのは、桐山唯(きりやまゆい)と稲葉姫子(いなばひめこ)に較べた場合の、永瀬伊織(ながせいおり)の、症状の深刻さ、そのアンバランスだった。
永瀬伊織(ながせいおり)の極端な深刻さは、なんらかの関係においてバランスされなければらなかった。
だから、むしろ作品の構造自体が、太一の彼女への愛の誓いを、あえて、

  • 彼女の直前に迫る「死」

を前にして「こそ」求める関係になった(それによって、バランスされた)、ということになるのではないか、と...。

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)