丸山眞男「『忠誠と反逆』合評会コメント」

今週のアニメ「戦国コレクション」の今回の主人公、吉継は、毎日、工場に通い、オートメーションの流れてくる缶詰の蓋を閉める作業を行う女の子。毎日、工場長に失敗を怒られる日々であり、同僚がボーリングに行くのに、一緒に行きたいと言いだせない、自分みたいな奴が、そんなことを言ったら嫌がられると思っている、自分をいつもアンラッキーだと思っている。
ある日、いつも読んでいた絵本の「エンジェル」という登場人物の住所「ヘブンズヒル」に、手紙を出す。自分には不幸がお似合いで、ラッキーにはなれない、と。すると、なんと、返事が返ってくる。
何度も手紙のやりとりをし、励まされ、吉継は、今すぐにでもエンジェルに会いたいと、お金を貯め仕事の休みをもらおうとしてきたが、不運も重なり、それは、かなわない。
しまいには、返事も返ってこなくなり、心配していると、旅費のチケットと一緒に返事が返ってくる。
吉継は、そのチケットで、彼女のアパートに行ってみると、すでに、彼女は死んでいた。もともと体が弱かったこともあったようだが、仕事のしすぎによる過労死だという。彼女の机の上には、吉継への手紙が残っているのに、吉継は気付く。
「あなたからの最初の手紙をもらった日。本当は死んでしまおうと思っていたのです。でも、その内容を読んで、これは、なんとしても返事を書かなくちゃ、って思って。」
このアニメのポイントは、エンジェルが今まさに、自殺をしようとしていたのに、吉継からの手紙をもらって、その考えを「変えた」ところにある。
彼女は、さっきまで、自分が死ぬことしか考えていなかった。しかし、彼女は、そこに自分と同じように自分を「不幸」だと考えている人を目の前にして、

  • そうじゃない

と説得をし始めようとする。むしろ「直前まで」自分がそう思っていたはずなのに。
つまり、エンジェルは、体も弱く、それほど長生きも難しいかもしれない、という自覚はあったのだろう。そして、苦しい毎日に、これ以上生きる意味を感じられなくていた。そこに、吉継から、まるで、自分がそこで語っているような、弱気な言葉を聞かされて、むしろ、反論したくなったわけだ。
私はこういった部分に、人間の本質的な関係を考えてみたくなる。
つまり、エンジェルも、吉継も、もし

  • お互いが一人で独立し続けていれば

不幸しかない人生を受け入れ、悲嘆にくれるだけだったのではないか。エンジェルは死を選んでいたのだろう。しかし、「たまたま」お互いは知り合うことで、ある「補完」関係が生まれる。
そして、そのことによって、エンジェルは、吉継との出会いを果せなかったが、それまでの間、生きることになる。
ここで、考えてみてもらいたい。エンジェルは、もし、あのタイミングで、吉継の手紙が来ていなかったら、自殺を選んでいたのだろう。つまり、少しの間、彼女が「生きよう」としたことは、それは、ひとえに「吉継との関係」に、関係している、ということを。
BUMPの初期の作品に「K」というのがある。
ある絵描きは、黒猫と出会う。その猫は、ずっと孤独に生きてきたが、その出会いから、その絵描きになつくようになり、いつも、彼について歩くようになる。しかし、絵描きは、貧しさがたたったのだろう。その猫に、故郷で彼を待つ恋人への手紙を託して、死ぬ。
黒猫は、その手紙を届けるための旅へと向かう。

不吉な黒猫の絵など売れないが それでもアンタは俺だけを描いた
それ故 アンタは冷たくなった 手紙は確かに受け取った

忌み嫌われた俺にも 意味があるとするならば
この日のタメに生まれて来たんだろう どこまでも走るよ

BUMP OF CHICKEN「K」)

THE LIVING DEAD

THE LIVING DEAD

そして、彼の恋人の元にその手紙を届けたところで、その黒猫は力を使い尽し、亡くなる。
上記の二つのエピソードには、それぞれ、共通して「死」が描かれている。つまり、「死」と比較されうる形で、なにかを示唆しようとしている、と考えられるだろう。
こういった交換関係について、柄谷さんは、マルセル・モースの人類学研究を参照して、それを、

  • 贈与関係

と呼んだ。この関係は、人間にとっての最も原始的かつ基本的なものである。私たちは、ある人にあるものを贈与する。すると、その贈与を受けた側は、この関係が、友好的なものだと思っている限り、

  • 返礼(=お返し)をしたい

と、内心のどこかで、常に思っている、ということを意味する。このように、別に、なんらかの「契約」的なものがあるわけではないのだが、毎日のお互いの相手への干渉してきた関係から、なんらかの相手への「恩を返したい」という感覚を常に持っているような、相互性と言えるだろう。
例えば、一緒に狩をする仲間は、その狩の成果をお互いで等分するだろう。なぜなら、そうすることで、今度、自分に成果がなかったとき、返礼されるからだ。
こういった関係は、たんに、アニミズムだとか神秘主義では、かたづけられない。なぜなら、現代人間社会における、最も最小の共同体単位の「家族」が、そもそも、この「交換関係」によって、成立しているからだ。
つまり、こういった「贈与」の関係が、うまく働かなければ、家族共同体は、うまく続きえない。腐女子のBLが、多分に女性の側の関心となったり、週刊少年ジャンプが飽きることなく、仲間の友情や仁義を描き続けるのも、そもそも、この関係に、
賭ける
ことこそが、「人生」の基本的な要素だという「直観」があるからであろう。
ちなみに、柄谷さんにおいて、その他の「交換関係」とはなんであるかというと、

  • 国家関係(収奪と保護の関係)
  • 経済関係(貨幣による汎用化)
  • 世界宗教(関係X)

という感じになっている。たとえば、「経済関係」は、贈与関係に較べると比較的新しい関係であるが、市場経済が世界を席巻し始めると、ほぼ、この関係で世界は覆われるような形になる(それが、近年言われる、グローバル化である)。
荻生徂徠は、自分たちが雇う仕事人に対して、人格的な要求をすべきでない、と主張する。なぜなら、どんな鬼畜の性格であろうと、その投資に見合う、有能な仕事をこなしてくれるなら、満足なわけだからだ。
そのかわり、荻生徂徠は、気に入らない丁稚奉公は、次々と代えればいい、と考える。ちょっと働かせてみて、どうも自分に、そいつの性格は合わない、と思ったら、どんどん代えればいい、と。つまり、どっちにしたって、それに見当った
対価
を金銭の形で「交換」しているんだから、お互いベトベトの人間関係に悩まされず、ドライでいい、というわけである。
このように考えたとき、前者の「贈与関係」は、アナクロニズム的な古くさい感じがしてくるかもしれない。むしろ、近代の世界は、「経済関係」によって、覆われているわけで、実際にこっちの関係の方が、なにかと便利であり、有効だとされたのが、日本の高度経済成長時代だ。
しかし、私はこういう考えを、少し疑い始めている。例えば、ルーマンのシステム社会論において、なぜ、システムはシステムとして機能しうるかは、ひとえに、各人間の「信頼」に依存していたのであった。各個人が、自らが毎日、立ち向かう「社会」に一定の「信頼」を持っている「から」、社会システムは回る。
たとえば、チェルノブイリ原発事故で、ソ連政府は、徹底して隠蔽し、地元民に健康被害を及ぼした。そのことによって、ソ連政府は完全に国民の「信頼」を失う。そこから、ソ連という国家がなくなり、ロシアへと戻らざるをえなくなるまで、あっという間の時間であった。
驚くべきは、そういった「個人」一人一人の国家への「信頼」がなくなるだけで、実際に、国家も「なくなる」という事実である。どれだけ、各個人の「信頼」が、社会システムにとって、決定的な「機能」を与えているかがわかるだろう。
荻生徂徠は、「その人」との、「贈与」的な長期的関係を、「無用」だと言う。しかし、考えてみよう。

  • なぜ

荻生徂徠は、そう言えたのか。それは、実際に、人々が彼と「契約」関係を結んでくれたからであろう。もし、荻生徂徠「には」誰も、そういった関係を結ぶことを拒否したら、どうなったであろう。荻生徂徠の性格は、どうも「鬼畜」であり、こんな人間に利することをやった人間は末代までの恥、と人々に思われていたら、だれも、彼に丁稚奉公しようなどと思うだろうか。
アダム・スミスがすでに指摘しているように、経済関係が成立するのは、人々が人々を「信頼」しているからにすぎない。そういった「一定のレベルの人間一般への信頼」が共有されているから、人々は、経済関係を結ぶことを疑わずにいられる。
つまり、「経済関係」は、かなり強力な「信頼」が浸透していることに、どうしても依存している、と考えられるのではないだろうか。
では、最後の「世界宗教」とはなんだろう。これは、「まだ生まれていないなにか」のことである。この関係の特徴は、上記の「経済関係」において、その関係を「批判」する形で、生まれる、ということである。世界中の世界宗教キリスト教にしても、仏教にしても、儒教だってそうで、これらは、それらの宗教の発祥において、市場経済が発達し始めた「都市」において、そういった「経済関係」において、覆われ始めたその関係への批判的な認識の中で実践されてきた運動だと言えるだろう。
それは、上記の「経済社会」における、「契約」的な人間関係への「批判」として始まる。
ということは、どういうことか。
この、「世界宗教」とは、この資本主義社会の「中」において、最初に述べた「贈与関係」を、再評価しようと取り組まれる運動だといえるだろう。
つまり、たんに「贈与関係」を、「そのまま」この資本主義社会に導入するのではなく、ある批判的な「反省」によって、この関係を「選びとる」といった印象がある。つまり、この関係は、むしろ、資本主義社会における諸矛盾が、そうすることを、
強いる
ような関係と考えられる。
キリスト教圏では、ゴットファーザー、ゴットマザーというしきたりがある。つまり、子供が生まれたとき、役所に申請する名前とは別に、洗礼名が与えられるのだが、その名づけの「親」のことをいう。おもしろいのは、こういった親ではない、名付け親が、まるで、

  • 実際の親のように

その子供の、身の回りから教育から全ての世話をすることを

  • 社会的な慣習として(教会の権威によって)

社会的に当然だと思われていること、つまり、キリスト教圏の人たち全員に、共通のコンセンサスとなっていることだ。
名付け親とは、法律上は、たんなる「他人」である。しかし、キリスト教圏がその他人を、本物の「親」と同じように扱うことを

  • 神の名において

「強いる」わけである。これは、一種の「コミュニティ」になっていることが分かるであろう。つまり、このような形で、子供時代に、ある種の「社会性」がビルトインされるような「仕掛け」があるということである。
韓流ドラマに「ホジュン」という時代劇がある。ヤンバンの家に生まれながら、庶子として、母親が低い身分であったため、若い頃は、地元のチンピラのような生活をしていたホ・ジュンが、ある時から、医学に目覚め、ユ・ウィテに弟子入りし、最後には朝廷に使える身分にまで出世する。
このドラマで、ヤンテという、彼のホ・ジュンの弟弟子がいる。彼は、身分も高くなく、学があるわけでもない。ホ・ジュンが若い頃のチンピラの頃から、彼に付いて、従い、一緒にヤンチャをやっていた。別の地域に逃亡するときも、一緒につき従い、また彼が出世して、宮廷に使えるようになっても、変わらず、忠誠を誓い、近くで、別の、生計を立てながらも、なにかあれば、駆け付け、助ける関係をホ・ジュンが死ぬ最後まで続ける。
韓流ドラマは、こういった、なんというか「腐れ縁」のような、義兄弟的な関係を描くのが、日本のドラマに較べて、うまいように思われる。
ヤンテにとって、ホ・ジュンに、つき従わなければならない理由はない。なんとなく、若い頃、彼に従うようになって、そして、それをずっと続けていて、高齢になって、今さら、そういった行動を変えたいとも思わなくなる。だから、彼が別の土地へ引っ越すとなれば、家族を連れてでも、仕事を棄ててでも、彼に付き従い、別天地へ向かうことをためらわない。
それは、ホ・ジュンにとっての、ユ・ウィテにも言えるのだろう。医学の師として、厳しく接せられながら、彼に付き従う姿勢を終生、変えることはなかった。それは、ユ・ウィテの息子のユ・ドジに、どんなに鬼畜の扱いを受けても、最後まで、そのユ・ウィテの息子に失礼な扱いをしなかったことにも、あらわれている。
丸山眞男の「忠誠と反逆」については、以前、少し書いたことがあるが、この本を受けて、ある講演のような場で、丸山が述べている以下は、再度、そのテーマを、一般向けに整理しているところもあり、分かりやすい。

やっぱり経験的自我は、----罪の意識と関係するんえすけれど、自分が神に縛られていることですね。それが基礎に----神の信仰はないんですけれど、そういう考え方です。それがないと結局、自分の規範意識というのは出てこないんじゃないか。抽象的な、アイデアルと現実との二元論的対立だと、アイデアルとは頭の中にあるだけですから、どうしてそういうものが自分の現実の行動を縛り得るのか、自分の行動を規律できるのは、それだけの力を持つのか。自我内在的なものでは、説明できない。必ず自我超越的な要素によって自分が縛られている。自分というのは経験的自我です。縛られているという意識。それが前提、ドグマと言えばドグマです。

丸山は自分の学問活動の「動機」は、戦中の「忠君愛国」にあった、と言う。つまり、丸山の批評活動には、この「忠君愛国」イデオロギーとの、強烈な緊張関係があったことは無視できない。
他方において、私は近年の若い批評家たちの、主張が、どこか優等生的「自家撞着」の印象を免れていない印象を受けるのは、彼らが、この戦中世代の「忠君愛国」イデオロギーとの、ギリギリまでの「対立」を「緊張感」として保持していたものを、完全に「忘却」してしまった
ゆとり世代
だからではないか、と思っている。彼らの関心は「正しい」ことを言うことである。つまり、自分が正しいことを言っているということは、暗に、他人は間違っていることを、指摘することで、自分の主張の優位性(自分の高商品価値性と他者の低商品価値性)を他者に認めさせようとしている、ということになる。
しかし、お前が正しいことを言っているかどうかなど、他人には、どうでもいいわけだ。「本当の意味」で、どうでもいい。大事なことは、唯一、「忠君愛国」イデオロギーとの対決だった、これらの世代にとって、そもそも、議論している「土俵」が違うということなのだろう。話していることが、一見同じことのように見えても、その真のテーマは、まったく、明後日(あさって)の方向だった、ということだろう。
戦後の日本において、驚くほどに、暴力はなくなる。学校の先生も、近所のおじさんも、みんな殴らなくなった。親も子供を殴らない。つまり、

  • 民間の公的な暴力

が、本当になくなった。私は恐らくこういった方向を強烈に後押ししたのが、丸山眞男を初めとする、戦中世代のリベラル派の「強迫観念」だったのではないか、と思っている。
たしかに、巷には、暴力は、なくなった。しかし、それはどういう意味なのか?
暴力とは、もともとは、人間の一つの「表現」のことではなかったのか? ある「正義」を実現するために、人間は自らの「力(パワー)」を使うのであって、それがなくなったということは、つまりは、一種の、

  • 去勢

を意味していたのではないのか。実際、戦後を特徴とするものこそ、一種の「言葉の暴力」だと思っている。
腕力による暴力が社会的規範として否定されたとき、「いじめ」は、陰湿化した。言葉で人を追い込むことは、むしろ、

  • 腕力で「ない」

という意味で、「奨励」される。金持ちが、自分の「幸せ」を「自慢」することで、貧乏人を「ストレス」で追い込む。ネット上は、こういったリア充による、幸せ自慢で、あふれかえる。
私はアイロニカルにならざるをえない。
「正しい」とはなにか。正しいとはなんのことはない。

  • 規範的

ってだけではないか。自分は、正規のルートで、正規の「科学」の手続きを学びました。つまりそれって、科学の「規範」に従っている、ってだけであろう。つまり、「ルール」を守っていることしか意味しない。
ということは、どういうことか。そのルールを「習っていない」人が、「トンチンカン」なことを言うのは、「当たり前」なのだ。だって、習っていないのだから。そういったものを、

  • トンデモ

とか言って、人格攻撃している「エリート」は、そもそも、自分が大衆とは「違う」場所から発言いている、ということを言っているにすぎない。
むしろ、エリートは、そういった「大衆」が、そういった「間違った」ことを言うことで(その発言によって)、

  • 本当はなにを言いたかったのか

その「真意」を汲み取らなければならない。その人は、何を言いたかったのか。どんなことを考えていたのか。間違った言明をしたかどうかなど、そんなことに、一体、なんの「価値」があるのか。むしろ、そういったことをやらない「不作為の作為」にこそ、そういった「エリート」の「低能力」が示されていると読むべきだ。
こう考えてきたとき、いわゆる「正しい」ゲームの「幼稚さ」を感じないだろうか。
「正しい」。だから、なんだ。
私たちは、別に、「正しい」ことを、口パクできる機械だから、その人について行こうと思うか。その人に、自分の人生を賭けてみたいと思うか?

それから、「お家」ですけれども、これはいちばん面白い問題で、極端に言えば今でも歴史家の間で争われている幕藩体制の本質論になるわけです。お家というものは、主君から切り離されますけれども、絶対切り離し得ない。そういう矛盾した面を持っているわけです。徳川家から切り離された幕府というものが.......。
......というものが、幕藩体制における忠誠の実態ではなかったのか、そういう意味では。じゃ、パースナルな忠誠というものが、ただ----まぁ、これをカリスマの......エルプ・カリスマ Erbcharisma[相続カリスマ]と言えるかどうかは、マックス・ウェーバーで大変な問題になりますけれども----譜代ですから、今の主君だけでなくて代々の----幕末だと非常にはっきりしてくる----代々の譜代の「お家」に対する忠を捨てて、「倒幕」なんて言えないということが、非常に大きな議論になるわけですね。したがって、パースナルと言った場合にも、今の天皇、今上、だから昭和天皇も含めた、主君なり、明治天皇大正天皇昭和天皇、今の天皇への忠誠というふうに言えまね、これは。みんなパースナルな忠誠、いわゆる「忠君」に入るわけです。それはしかし同時に、論じる時は、「皇室」への忠というふうに言い換えている。ということは、ファミリー----インペリアル・ファミリーですからね、「お家」に近くなるわけです。したがって、パースナルな忠誠と、それから「お家」への忠誠というものとは、頭の中ではしょっちゅう区別しながら、現実の対応としては江戸時代において切り離し得なかった。江戸時代どころか、なぜ、明治の初めは別として、「忠君愛国」というものがあれほど一般の崇拝になったかということと、やっぱり切り離し得ない。インパースナルなロイヤリティと、パースナルな皇室へのロイヤリティというのは、やっぱり切り離し得ないという、良い悪いは別として、カリスマということを示しているわけです。だから、AとBとが区別できるということと、区別できるけれどもそれが不可分であるか、それとも不可分でないかということは、また別の問題です。

ここは、けっこう本質的なことが語られている。AKB48 のアイドルのだれかを、あるファンが推しているとする。その場合、その「忠誠」は、「その」アイドルの人、

  • その人

に対する、「忠誠」であることを忘れてはいけない。
江戸時代における、幕藩体制において、武士は、

  • 自らの藩主に「忠誠」を誓うのか?
  • その「上」にある、江戸幕府に「忠誠」を誓うのか?

この問題は、下記のようにも「形式化」される。

  • 今生天皇に「忠誠」を誓うのか?
  • 皇室「制度」に忠誠を誓うのか(次の皇位継承者が誰だろうと「関係なく」、この忠誠は「スライドする」と考えるのか)?

この問題をさらに敷衍するなら、こうだ。

  • 自分に科学を教えてくれた「師匠」に「忠誠」を誓うのか?
  • 自分の師匠を含めた「科学者集団」が取り決める「聖書」(科学教科書)に「忠誠」を誓うのか?

私はこれらのそれぞれに対して、後者はありえないと考える。あるのは前者だけであり、毎日顔をつきあわせ、自分の「忠誠」を側で「評価」し続けてくれている藩主との、「贈与関係」だけがリアルなのであって、どこにいるかも分からない、本当にいるかも分からない、顔も見たことのない「江戸幕府の将軍」に、どうやって「忠義」を感じられるというのか、私にはさっぱり分からない。
私は、こういった「延長」において、上記でふれた柄谷さんの、

を考えてみたくなる。貨幣とは言わば、上記のそれぞれに対する「後者」を代表する表象だと言えるだろう。しかし、マルクスが言うように、こういった貨幣関係による、都市化をラディカルに進めれば進めるほど、貧富の格差は拡大し、理想社会から、かけ離れていく。
だとするなら、こういった経済関係とは、別種の「関係」を、こういった経済関係に「並列」する形で、オールタナティブとして、見出していくことが求められているのではないか。
たんに、贈与的関係を、現代の資本主義社会において拡大しようとすることは、歴史の方向として、贈与関係から、経済関係に推移してきただけに、単純にはこの方向を変えることはできない。しかしかといって、経済関係がバラ色の未来でないことも自明だ。だとするなら、目指されるべきことは、前者の贈与的関係の
批判的吟味
による、反省的救済(取捨選択)ではないのか。その「可能性の中心」を考えることではないのか...。

丸山眞男話文集 3

丸山眞男話文集 3