幸福に「値いする」?

カントというのは、なんというか、いろいろな意味で、人々を「興奮」させる何かをもっている。

曾つて私は、差し当って道徳哲学を、我々が幸福になる仕方を教えてくれるのではなくて、我々が幸福に値いするものになるべき仕方を教えるような学の緒論をなすものである、と定義したことがある。

「幸福(glucklich)になる仕方」と「幸福に値いするものになるべき仕方」を区別していますね。前者は、いろいろな手段を尽くし、「幸福」な状態に到達するための戦略的な問題であるのに対して、後者は、「幸福」に「値い」しるような人格的存在にいかにしたらなれるのか、という道徳的問題です。

つまり、ここでは、以下のような「分類」があるわけである。

  • 幸福で、幸福に値いする。
  • 幸福ではないが、幸福に値いする。
  • 幸福でもないし、幸福に値いもしない。
  • 幸福だが、幸福には値いしない。

現代の哲学において、まともに議論されるのは「どうしたら幸福になれるか」という、幸福論ばかりである。そこから、功利主義というものが、問題となる。
現代は、現金なもので、なんにせよ、「幸福になる」ことを

  • 目的

とするのである。つまり、「目的論」である。つまり、畢竟、現代哲学は、

  • 目的論

なわけである。しかし、この主張に、ある意味において、反発したのが、ハイデガーなどの「存在論」である。つまり、あらゆる主張の大前提として、「目的」を中心とした目的論に対して、「存在論」は、そういった目的論に対して、「超越論的」に、その根拠を問うた結果としての何かであった、と言うことができるであろう。
しかし、言ってしまえば、「存在論」は、どこか中途半端なのではないだろうか。なぜなら、存在論は、その「存在」によって、なにかを示唆して終わるしかないからである。
つまり、存在論の先に、あるものが問われているわけである。それが、

  • 義務論

である。つまり、以下のような関係になっている。

この関係は、以下のような「感情」と平行している。

  • 冷静 --> 興奮

最初の命題を対応させるなら、以下となる。

  • 幸福な人になる --> 幸福に「値い」する人になる

しかし、この命題は、次の命題によって、疑問とされる。

  • 幸福に「値い」する人でなく、幸福な人であることは可能なのか?
  • 幸福になろうとして「戦略」的に行為すること「自体」が、幸福に「値い」する人になろうとすることに反していないか?

人間の視点から見れば、自然界=外界を支配する因果法則と、自らの意志によって従うべき道徳法則は全く別物で、道徳法則に従って行為しても、自然界の法則の作用によって自分が快適に感じ、幸福になれるかどうか分からないわけです。ただ、人間がある一定の「資格」を備えれば、「神≒普遍的理性」が、道徳的行為に対して「幸福」をもって報いてくれるかもしれない。それは、「私」の行為の全ての目的が、「神≒普遍的理性」の意図と一致してくれるかもしれない。それは、「私」の行為の全ての目的が、「神≒普遍的理性」の意図と一致した場合の話と考えられます。そうなるためには、人間としては、とにかく、道徳法則に適って行為することに集中すべきであって、自分から「幸福」になろうとしてはいけない。幸福になるべくうまく立ち回ろうとしたら、かえって(「神」の目から見て)「幸福」に値しない存在になってしまう。
〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために

例えば、こんなふうに考えてみるといいのかもしれない。あるお金持ちがいたとする。その人は、これまで集めた、そういったお金をどのように思っているか。自分が幸せになるため、その「目的」のために、今まで、ここまでのお金を集めたのだ、と考えるなら、ある意味、それは、

  • しらける

話ではある。他人からすれば、勝手にしてくれ、ということであろう。つまり、だれにとっても、どうでもいい、他人の話ということになる。ところが、カントの義務論にまでいくと、そのお金を集めるという行為が、もしも、そうやって集めたお金で、なんらかのボランティアをやるのは、人間だったら、だれでも考えなければならない「義務」なんじゃないのか、と思っていた、とする。
そうすると、なんというか、話が違ってくるわけである。貧しい人を助けることは「義務」なんじゃないのか? その「仕組み」を、もしもこの社会がビルトインしていないのならば、なおのこと、私たち一人一人が行動することが「義務」として求められている可能性はないのか、みたいなことになってくる。
つまり、途端に話が「熱く」なってくるわけである。

因みに現代の英米の政治哲学、リベラル・コミュニタリアン論争等では、<good>は主として「良」に近い意味で、つまり各人にとっての「幸福」との関連で理解されます。そのうえで、<good>と<right 正(しい)>の違いが問題になります。リベラルが「正」重視の立場を取るのに対し、コミュニタリアン功利主義者は「善」を重視するとされています。そして、カントは「正」の側の人であると位置づけられます。しかし、ここでの議論から分かるように、カントは本当は、「良」とは異なる、無条件の「善」を目指していたわけです。カントはそれを志向する意志を、「善意志」と呼びます。英米圏での議論で「正」と呼ばれているのは、各人によって異なる「善」の構想を相互に調整する中立的な装置のようなもので、カントが「義務」と読んでいるものと意味合いがかなり異なります。ただ、「正」も(カント的な意味での)「義務」も普遍性を志向するという点は共通しています。
〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために

「道徳法則」や絶対的な意味での「善」を欠いた”幸福”は何をもって達成されたと見なすことができるのか不確実、不安定であり、何人もどうしたら自分が「幸福」になるのか最終的に決めることはできないとしたうえで、カントは、「義務」はそれが「義務」であることがいったん認知できたなら、極めてはっきりした形を取って私たちの内心で作用するとしています。
〈法と自由〉講義――憲法の基本を理解するために

いずれにしろ、幸福に「値いする」という表現は、非常に奇妙な印象を受けます。なぜなら、幸福とは「状態」だと私たちは思っているからです。お金持ちが毎日、裕福な料理を食べて、生きられることが「幸福」の「状態」です。実際に、それで「健康」にもなるのでしょう。つまり、そうでない人たちは栄養もかたより、不健康になり、不幸だ、と言いたいのでしょう。だとするなら、幸福に「値いする」という表現は、何を言っているのか。よく分からなくなる。
そういった状況が、いわば、上記の引用にもあるように、現代の英米の政治哲学が、義務論から、一定の距離を置いている理由でもあるし、ハイデッガーの「存在」論が、あくまでも、存在論にとどまり、義務論にまで踏み込まない理由でもあるのかもしれない。
しかし、そうだとしても、ある意味において、この状況は変わっていない、つまり、「同型」なんじゃないのか、と言うことは可能ではないか。というのは、上記の引用にもあるように、

  • 英米圏での議論で「正」と呼ばれているのは、各人によって異なる「善」の構想を相互に調整する中立的な装置のようなもの

というように、カントが言っている「義務」とまでは行っていない、その中間にあるような「からくり」のようなものを模索していながら、しかし、他方において、それは、お互いとも、なんらかの

  • 普遍性を志向する

という点においては、共通しているからである。つまり、カントの強烈な「義務」論は、その、あまりにもの眩しく、

  • 熱い

ものを人々の内面に起こす、その「義務」という考えに到達するまでの、

  • グラデーション

として、現代の政治哲学も、一歩一歩、その方向に近づこうとしている歩みとも考えられる、とまでさえ思わなくもないからであるが...。