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2013-11-15

日本型資本主義

私が不思議なのは、日本という国が、資本主義国として、一定の社会正義であり、その正義において公正な、秩序によって、運営されている、この日本の有り様に対して、

  • プライド

をもって生きているから、この日本に今まで暮してきた中で、誇りをもって、今までを生きているのかと思ってきたわけだが、もしもそうであるなら、この社会正義に反するものに対して、当然、疑惑の思いをもつものだと思うのだが、どうしてそうならないのか、ということなのである。

言うまでもなく、戦後以前の日本は、多くの電力会社があった。今のような地域独占の十大電力会社に「編成」されたのは、GHQの戦後政策に

  • 対応して作られた

にすぎない。つまり、それ以上の意味がないわけである。

アメリカの電力会社は日本のように地域独占ではなく、各州にあるさまざまな電力会社が互いに競争している。

ただ公益事業として電力会社を政府が規制していたが、”石油危機”以後、この規制を緩和する動きが出てきた。

一九七八年、アメリカではエネルギー関係の五つの法律が制定されたが、そのひとつが公益事業規制政策法(Public Utility Regulatory Policies Act)である。略してPURPA(パーパ)と言うが、これは(1)電力会社の供給するエネルギーの節約、(2)電力会社による設備と資源の利用効率の最適化、(3)電力消費にとっての料金の公平さを促進するための法律である。

この法律によってアメリカではコージェネレーション(熱併給発電)、小規模発電の事業が促進され、さまざまな会社ができていった。

その結果、一九九八年の段階で、アメリカにおける電気事業者数は私営電気事業者(IOU)二三九社、連邦営業事業者一〇社、地方公営事業者二〇〇九社、協同組合営事業者九一二社、非電気事業者一九三〇社、パワー・マーケッター四〇〇社、合計五五〇〇社となっている。

このようにアメリカにおける電気事業者の数は多く、そして私営の会社のほかに、連邦営事業者や地方公営事業者など公営の企業もかなりある。連邦政府が所有・運営する事業者は水力発電を主力とする企業であり、そして地方公営事業者と協同組合事業者は小規模な配電企業である。

東電解体―巨大株式会社の終焉

東電解体―巨大株式会社の終焉

確かに、アメリカも戦後すぐの頃は、公益を考えて政府は自制的であったが、上記にあるように、それから、あっという間に、多くの電気事業を担う企業が存在していることが分かる(言うまでもないことであるが、この事情は、日本を除いたアメリカ以外の欧米の先進国も同様の事態であったわけである)。

それにしても、である。どうして、ここまでの「差」が開いてしまったのか? 日本とアメリカは、同じ自由主義の国同士である。当然、日本とアメリカ

  • 同じルール

である。そうでなかったら、日本は社会主義アメリカ資本主義、ということになってしまうであろう。ところが、日本の電力会社は、地域独占 orz

どうして、こんなことになってしまったのか?

おそらく、多くの日本の国民が、なにかを勘違いしてしまっている、ということなのではないか?

二〇〇〇年に改正されるまでの独占禁止法の第二一条では「自然独占に固有な行為」として次のように規定していた。

「この法律の規定は、鉄道事業、電気事業、瓦斯事業その他その性質上当然に独占となる事業を営む者の行う聖餐、販売または供給に関する行為でってその事業に固有のものについては、これを適用しない」。

これが「独禁法の除外規定」といわれるものだが、これによって電力会社の地域独占が許されていた。この除外規定はいわゆる自然独占といわれるものであるが、電力産業は果して自然独占なのであろうか。

室田武によれば自然独占というのは次のような場合である。

  1. 天然資源の保全環境保全、あるいは基本的人権の保護にとって他者の参入を排除するのが他の方法によるよりも適切と認められる場合。
  2. 規模の経済(エコノミー・オブ・スケール)の作用する限り、ある程度まで経営規模を大きく保つことが製品単価を安くし、消費者の利益を保証する場合。

ところが、

「電気事業については、たくさんの樹を伐って発電用のダム(あるいはそれを含む多目的ダム)を作ったり、枯渇性資源である石炭原油に基づく火力発電を行ったり、同じく枯渇性のウランを用いて放射性毒物を後代に残す原子力発電を行ったりしているのであるから、前記(1)の理由で自然独占と認められることはありえない」。

では(2)の規模の経済が電力産業において発揮されているといえるのか?

まず発電部門については水力、火力、原子力のいずれかの場合も発電規模を大きくすればる程度まで平均費用低下するが、それを超えるとそうでない。日本でその程度をすでに超えている。

送電部門についてみると、電力の大消費地へ遠く離れた地域から送電しており、そのため超高圧送電線が長距離化して送電費用が増えている。

そして配電部門については、都市のスプロール化により配電線の距離が長くなるなどするので、規模の経済性は認められない。

こうして電力産業について規模の経済性を理由に自然独占を認める理由は存在しない、と室田は指摘している。そして次のように言う。

「特に原子力開発について見るとき、大規模な発電設備への巨額の投資、消費中心地から遠く離れた地点への立地に伴う高い送電費、核廃棄物の長期保管や廃炉に伴う費用増、大事故の潜在的可能性などの問題をかかえており、それらの諸要因のために、発送電原価は今後は上昇するであろう。そのような原発開発をこれまで進め、今後も推進し続けようとしている九電力各社を自然独占と認めることには無理がある。むしろはっきり私的独占と位置づけて、敗戦後間もない時期の電気事業再編に続く、新たな再編成を準備することが望まれているのではあるまいか」。

このように電力産業に独占禁止法適用を除外して、それを自然独占だと認める理由はないにもかかわらず、日本では一〇電力会社による地域独占が厳然として存在している。

東電解体―巨大株式会社の終焉

ここは、非常に重要なポイントである。

つまり、独占禁止法の「原則論」からいって、電力事業を、

  • 自然独占

と言うことには、どう考えても「無理がある」ということなのである。

よく考えてみてほしい。

自然エネルギーを含めて、多くの「発電手段」があるわけである。そして、言うまでもなく、それぞれの発電手段には「利点」がある。

よく考えてみてほしい。

こういった形態のものに対して、「独占」などという方法がふさわしいであろうか? だって、いろいろな「手段」があるわけでしょう。あとは、どういった方法が理想的だと思うかで、各企業同士で競争してもらうしかないでしょう?

しかも、近未来のことを考えれば、太陽光発電などの自然エネルギー事業は、地下資源を持たない日本のような国では、むしろ、

に、なんとしてでも、拡大していかなければならない。しかし、そういった場合に、地域独占で、勝手に、原発の電気だけしか買わせようとしない、こういった

  • 市場

は、どう考えてもありえない。電気事業を「自然独占」と主張するのは、どう考えても「おかしい」わけである。

それにしても、どうして、こんなことになってしまうのだろうか orz

戦前、日本の資本主義経済を支配していたのは三井、三菱、住友などの財閥であったが、戦後になってこれらが企業集団として再編成された。その後、さらに旧安田財閥系や旧浅野系企業などが富士銀行を中心に結成した芙蓉グループ、旧川崎財閥系や勧銀系企業などが第一勧業銀行を中心に集まった第一勧銀グループ、そして旧鈴木商店系や旧日産系企業の一部などが三和銀行を中心に結成した三和グループが加わって六大企業集団の体制が確立した。

この六大企業集団が日本経済において高い地位を占めていたところから、財界においてもこれら企業集団の経営者が重要な地位を占めていた。

ただ、戦後、経団連ができた時から、二〇一〇年に住友化学会長の米倉弘昌が一二代目の経団連会長になるまで、三菱、三井、住友の旧財閥系企業集団からは経団連の会長は出さないという暗黙の了解ができていた。

というのは、企業集団は財界において結束して政治に働きかけるが、同時に企業集団間で利害が対立しているからである。そこで経団連会長には新日本製鉄東京電力などのような、企業集団に属さない独立系巨大企業から出すようになっていた。

新日鉄は一九七〇年に八幡製鉄と富士製鉄が合併してできた会社であるが、いずれも旧日本製鉄として国有企業だったものが戦後になって分割されてできた会社である。その取引先は海外はもちろん、国内では多くの大企業、中傷企業を相手にしており、企業集団に対して中立系といえる。

同じように電力会社も旧国営企業が地域別に分割されて作られたものであり、取引先はその地域のすべての企業や家庭に及んでおり、いずれの企業集団にも属さない。中立的な生活を持っている。そこで新日鉄と並んで電力会社のトップとしての東京電力経営者経団連の会長になるのにふさわしいとされてきた。

東電解体―巨大株式会社の終焉

よく考えてみると、経団連という組織は、おかしい(こんな組織、他の国にあるのかな)。なぜなら、そもそも、企業とは「競争」をするものであろう。そういった企業が、なぜ、一つの団体としてまとまれるのか。つまり、会長となった企業は、競合他社を、つぶして、自企業を発展するために、今の権力を利用するのではないか。

つまり、そういった「競争」から、

  • 独立

した、新日鉄東電が、経団連の会長職を歴任してきたわけである。

しかし、そんなことがありえたことが、日本という国の、長期的な非効率化、社会主義的停滞を「宿命」づけられていた、ということは言えないであろうか。

これだけの、独占企業は、本来、自然独占でないはずのところに、自然独占であると信じこませ、社会の自由を縮小し、独占的な市場を強制する。それも、こういった制度ができた当初は、まだ、自制的であったかもしれないが、制度が長期化するにうれて、独占企業の非効率化が著しくなり、それが、国民の

  • 負担

として、じわじわと、日本の市場の「非競争力」化を進めていく。むしろ、日本の長期的衰退は、こういった

という「社会主義」にあったと言えるであろう...。

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