石ころサッカー的感覚

サッカー次期日本代表監督のアギーレが、サッカーは子供の頃のストリートで学ぶと言っていたが、私は、その意味について、ちょっと考えさせられた。

  • ストリートの思想

とはなんだろうか。ストリートとは「路地」のことである。では、路地はどこにあるのか。

  • 世界中

である。つまり、世界中のあらゆる路地は、あらゆる世代の人々のサッカー場なのだ。
どういうことか。
例えば、道の上に石ころがあったとする。すると、この道を通学路にしている子供の目の前に、その石は転がってくる。子供が道を歩くとき、眺めているのは、足元である。なぜなら、そこは、宝の山だからだ。お金を持たない、一切の稼ぎ口をもたない子供が唯一資産を形成する手段が、道端で拾うことだから。
その彼らの足元に、石ころがある。どうするか。蹴るでしょ。まあ、本能みたいなものですよね。しかし、それを思い切って、振りぬけば、その石は、どこか知らない遠くに行ってしまう。じゃあ、どうするか。

  • ドリブル

である。天才的ドリブラーの特徴は、そうっと、大事に大事にボールを扱っていることであろう。絶対に足元から遠くに離そうとしない。つねにぴたっと足元に置かれている。それは、そもそも、石ころが歪な形をしているから、優しく扱わなければ、どこかへ行ってしまうからであろう。
よく考えてみよう。この行動が、「世界中」のすべてのストリートで行われているわけである。よく考えてみよう。一体、世界中には、いくつのストリートがあるだろうか。その一つ一つで、まさに、こういった

  • 石ころサッカー

が行われている、「石ころサッカー競技場」だというわけである。それは、スペクタクルな「小宇宙」である。おそらく、人間がこの地球に生まれた有史以来、ずっと続けられていたのであろう。
同じようなことを私は、コンピュータ・プログラミングやテキスト・エディターに対して感じたりする。スティーブ・ジョブズのiPhoneが登場したとき、衝撃をもって迎えられた。それは、思い切って、キーボードをやめたことであった。一つには、それで製造コストを削減できたし、バッテリーのもちをよくできたのだが、それ以上に、スペックを落として、低価格大衆化を目指すという方針が、そもそもマーケティングとして正しかったことを示していたように思う。
実際、これ以降、日本のメーカーはガラパゴスと呼ばれながら、事実上の撤退が続いている。つい最近も、ソニーがアイボのサポートをやめるということで、儲からなければ、今までの資産も関係なく、業界を撤退していく態度は、どこか無責任な気もしながら、こんなことでいいのかと思わなくもない。昔から、自作PCという分野があるが、ああいった形でモバイルも本当は、メーカーを越えて、人々が長く部品を交換して使えるようなコモディティを目指す運動が始まってほしいと思いながらも、あいかわらず企業は顧客の囲い込みにしか興味がない。しかし、それでいいんだろうか。自分たちの業績が悪くなったからといって、簡単に撤退して、今までついてきてくれたお客さんに申し訳ないと思わないのだろうか。電子書籍の会社など、まったく読めなくなるなど、ありうるのだろうか、などと思わなくもない。
iPhoneはたしかに衝撃ではあったが、今でもガラケーを使っている人がいることは、なんとなく分かる気がする。たとえば、iPadは、お年寄りには難しい。私はそういう意味では、ああいった私たちの「感覚」を、ソフトウェアの「仕様」で、コロコロとユーザーをふりまわしていくやり方は、ユーザーにはストレスフルだと思っている。大事なことは

  • 同じ感覚

が生まれてから死ぬまで続く、といったことなんじゃないかと思っているわけである。
そういう意味でいうなら、あと何年かしたら、仕事でプログラミングをするときでさえ、だれも物理キーボードを介さない時代がくるのかもしれない。そうやって考えるなら、こういった
iPhoneライフ
が日常となっていくというものを、上記の「石ころサッカー的感覚」と呼ぶことができるのであろう。
私の考える「石ころサッカー的感覚」の例として、卑近なものでは、次のようなことが思い浮かぶ。私が仕事でプログラムを書くときも、家でネットサーフィンをしているときも、基本的に、linux OS で一般的なテキスト・エディター「emacs」で文章を書く人なのだが(それは、Windows OS でも同じ)。それは、普段、道を歩いているときでも変わらない(最近は、シャープの NetWalker をポケットに入れて、気が向いたら、その場で、そのまま、そこで文章を書いている、という感じで)。しかし、ここで言いたかったことは、どのエディターがどうだということではなく、たかがエディターであったとしても、同じものを使い続ける(朝、昼、晩と)ことの意味について、なのだが。
もし、そういった

  • 感覚

が、自分が買ったそれぞれの商品側の「都合」にふりまわされ続けるなら。その機械と人間の相互作用が、マシン製造側の思いつきで、年がら年中、ふりまわされるような感覚だとしたら。やはり、それは「石ころサッカー的感覚」からは離れてしまうのではないか。文章を書くことは生きることである。だとするなら、そのインターフェースは、朝起きてから、夜寝るまで同じであるべきであろう。それが、

  • 芸の道

ということであろう。つまり、朝起きてから、夜寝るまでの、IT操作的な感覚(この場合は、文章記述であるが)が同じであること、同じであるからこそ「石ころサッカー的感覚」と同じような、熟達であり、芸道のような感覚が生まれうる、ということだと思うのだが。石ころサッカーは、どんなストリートでも、どんな石ころでも、

  • 同じ

である。だからこそ、天才的ドリブラーが世界中のあちこちから、いつの時代も生まれてくる...。しかし、例えば、それと同じような感覚の日常的意味とはなんなのだろうか、といったことを考えたりするわけである...。