角忍『カント哲学と最高善』

一般にカントの道徳哲学は「義務論」として知られている。こうした場合、掲題の著者は、第二批判、つまり、実践理性批判の前と後の間に、「コペルニクス的転回」があったと考える(つまり、さまざまな混乱の原因は、以前におけるさまざまな主張を、以後において「変わっていない」と受けとられているところにある、と考える)。
道徳論は、こういったカントの義務論の他に、功利主義と、近年、再度語られるようになってきた徳倫理という、この三つのある種の均衡関係において捉える、というのが最近の流行のようである。
カントの義務論は、ヒュームにおける快不快の感情や、その意思との関係を考察する経験論的なアプローチ、つまり、今で言うところの功利主義との対決において、義務論を考えたという意味では、功利主義からの批判に対する反論をすでに含んでいる、と解釈できるように思われる。他方、徳倫理についてはカントの最高善についての考察において、その関係は語られるが、全般的にはその考察は弱い印象を受ける。
ではなぜカントにおいては「義務論」なのか。この場合、ある一点において、多くの人は誤解している。

すなわち「(一見すると、善悪の概念が道徳法則の根底に置かれなければならないようにみえるけれども、)善悪の概念は道徳法則に先立ってではなく、道徳法則の後で、かつ道徳によってのみ規定されなければならない」(V 62f.)ということである。

カントの言う「義務論」は、ちょうど、純粋理性批判における「感性の純粋形式は時間・空間」「悟性の純粋形式はカテゴリー」といった命題と同じように、

  • 具体的な善悪に「先行」する

認識の可能性について検討するものとなっている。つまり、上記の場合が「純粋形式」という「メタ・メッセージ」によって語られたように、道徳においても似たようなアナロジーが成立する、と考えるわけである。
しかしここで、当然のように疑問がわきおこってくるだろう。なぜ、ヒュームや功利主義者がそうであるように、それを「快不快」や「欲望」の延長で考えないのだろうか、と。

「意志の自由という権利要求は、理性が単に主観的に規定する原因に依存しないということを意識していること、およびそのように依存しないという前提を承認していることに基づく」(IV 457)。

心理学に、「認知的不協和」という言葉がある。私たちは「意識せず」に、それを行う。なぜなら私たちがそういうようにできているから。このように考えたとき、上記の指摘は興味深い(意志に自由はあるのか、と問うときに、そもそも私たちが「想像」する「原因」は、十分に自由の不可能性を意味しうるまでに「完全」なのだろうか。たんに「私たちが想像可能な」原因として数えられていないことを意味するだけではないのか)。
言うまでもなく、私たちの人生は人それぞれで「多様」であり、そもそも私たちは「それ」を知らない。そうであるのに、どうして「善悪」を語れるのか。つまり、ここで言う「普遍性」は、そういったものに対する「メタ」的なレベルで考察することは可能なのか、といった形問うているわけである。
ではこの場合に、具体的に何がこの「義務論」で検討されているのかと言えば、「意思」「自由」「自律」ということになる。
まず、私たちが「道徳的」である、という場合、どんな条件が求められるか。言うまでもない。その行動が、本人の意思によって行われること。つまり、「自由」が存在することが、なによりも必要だ、とカントは考える。そもそも、自分で決めていないなら、そこに「意思の善悪」など考えられないからだ。こういった一連の問題を、カントはその人生の連なりにおいて「自律」と要約する。
この場合の問題は、「道徳的」であるための必要条件が「意思」「自由」「自律」というのは分からなくはないが、では、十分条件の方はどうなるのだ、という疑問がある。これについては、次のように考える。
私たちは、なぜ「自由」なのか。それは、「他者が私を自由であるように努力してくれるから」と考えられる。つまり、どんなに自分で自由であろう、としても、その「条件」が存在しないなら、そうあれないからだ。カントの格率には、私たちが他者を、たんなる手段としてだけでなく、同時に「目的」としても扱わなければならない、という条件があるが、このことはそれを示唆している。
そもそも私たちが「自由」であるということは、この社会における、私たちが「人々のこの自由を守っていかなければならない」という意図によって、絶えまない努力を行うことなしには成立しえない。自由は、私たちの不断の努力のたまものなのだ。
このように考えてきたとき、そもそも、倫理的であると言ったり、それをルール化することを意味する「道徳」であったり、というのは、一体、何をしているのであろうか?

純粋理論理性の自己認識において理論的な純粋理性の能力は学という factum によって証される。これに対して実践的な純粋理性の能力を証すべき factum は学から生ずるのではなく、学に先行する。

最高善は、知られるもの、観られるものではなく、また感じられるものでもない。行じられるべきものである。それは知性の対象としての可知的なものではないし、悟性的直観ないし神秘的直観の対象でもないし、「享受」の対象でもない。自由意思によって世界の中で実現すべきものである。

ようするに、道徳であり倫理が、いわゆる「学問」や「知の体系」といったものとは別種の事象について指示されていることに注意がいる。学問であったり、学校での勉強のようなものは、本質的に道徳や倫理とは別のものであるしかない。つまり、端的に「知」と結びつかない。道徳や倫理が端的に結びつくのは、その「行動」の方なのである。
カントは、こういった私たちの「意志」を動機づけるものとして、「尊敬」を重視する。しかし、カントの言う尊敬は私たちが普通に考える意味での「尊敬」ではない。
このことを考えるに、徳倫理の特徴が、その差異を際立たせるのかもしれない。徳倫理において重要なのは「徳」つまり、その人の「性格」ということになる。その人が

  • どういう人なのか

が、その人を人間という群れて暮らす動物としての「リーダー」とするかどうかの、各個人の主観的な「尊敬」の感情を決定する。ところが、カントは、こういった「尊敬」の感情は、属人的なものであるというより、上記にあるような道徳の普遍的命題に対しての、「言葉」に対応して考察しうるものだ、というわけである。
カントがこのように言う理由は、上記の分析から理解できるであろう。つまり、属人的な性格などの特性を普遍化することはできない、というところにある。しかし、他方において、こういった言葉が発せられるのは、端的に、「ある人間から」であるわけであろう。だとするなら、この二つを簡単に分けることはできないのではないか。
このことを考えるに、カントが最も「重視」していた、キリスト教をどのように考えるのかにも関係してくる。

純粋実践理性はこのように人間性に対して限界を設定するによって、義務に則した行為の動機を道徳法則以外のものに求めることを禁止する。そして「一切の傲慢と虚栄に満ちた自愛とを打ち砕く義務という考えを、人間における一切の道徳性の最上の生命原理とすることを命令する」(V 86)。カントの見るところ、すべての哲学者の中で最も厳格なストア派ですら道徳的狂信を導入した。この見方の背景には、真正な道徳の原理を純粋な形で呈示できたのはキリスト教だけであるという評価がある。カントによれば、福音書は道徳原理の純粋さと厳格さとによって、また同時にその原理が有限な存在者の持つ制限に適合していることによって、道徳的狂信を許さず義務という紀律に服させ、「ともに限界を誤認したがる自惚れと自愛とに対しては、謙抑(すなわち自己意識)という制限を設定した」(V 86)のである。このように第二批判における動機論は、尊敬という感情を卑下(Demtigung)という自己評価に、したがって謙抑(Demut)に結びつけることによって、道徳的自己認識にかかわる実践理性の限界を明確に確定する。

キリスト教においてであっても、イエス・キリストに対する「尊敬」というのはないのだろうか。彼を一種の「群れのリーダー」として「尊敬」の意識をもつということはありえないのであろうか。福音書を一種の「物語」として読むことで、この物語の「作者」に対する「尊敬」という契機はないのだろうか。
近代哲学における「実存」的なアプローチの普及において、普遍的であることと

  • 個人的

であることは、むしろ深く結びつくことになる。私たちは他者を本質的に知らない。そういう意味では、私たちは他者を本質的に不透過な存在として扱うことを求められている。むしろ、私たちはその「知らない」ということに、なんらかの「普遍的形式」を受け取ることを求められている。そういった「関係」が、本質的に倫理的なのであって、つまりは、そこから出発しない倫理はありえない、ということを意味している。
こういった意味においても、カント的な義務の道徳哲学と、徳倫理の、さらなる深い関係の考察が求められている、ということなのであろう...。

カント哲学と最高善

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