ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』

例えば、17世紀、18世紀において考えられたような「啓蒙」の時代において、想定されたような「理性」による、理想社会の実現が、なぜ現在において、うまくいっていないのか?
それは、カントの純粋理性批判が展望したような、理性による、人類の理想社会であり、永遠平和の理想がなぜ、うまくいっていないのかと問うことと言ってもいいのかもしれない(この前、このブログで書いたように、なぜ「低賃金労働者」の政党による政権交代が起きないのか、と問うこともできるであろう)。
もちろん、多くの人は、こういった「理性的」であり「合理的」であるといったようなことが、まったく実現されていない、とまで思っているわけではない。それなりには、実現されている、と思っている。しかし、「それにしては」あまり、その実現度は、かんばしくないのではないか、と言いたいわけである。
そうした場合に、そもそも、私たちは日常的に「理性的」なのか、「合理的」なのかと問うことが、非常に重要であることが分かるのではないか。これが何を言っているのか、ということなのである。

アメリカがどうもまずいことになっていると大衆が意識しだしたのは、二〇〇五年であったろう。コメディアンのスティーヴン・コルベアが真実っぽさ(truthiness)という新語お広めた年だった。この言葉は、政治家が合理性、証拠、さらには事実に基づいた議論に代わって、むやみに感情や「勘」に訴えるようになってきている現状を評したものだ。コルベワが示した定義によれば、ある主張が「真実っぽい」のは、たとえ厳密には真実でないとしても、真実だと感じられるときである。

コルベアが真実っぽさという言葉を造ったのと同じ年に、哲学者ハリー・G・フランクファートの小論『ウンコな議論』が国際的な評判を得た。この論文は実のところ二〇年以上も前に書かれており、学界では広く知られていた。ところが、出版社がこれを単著として復刻したときに、明らかに大衆のツボを突いたようで、二七週にわたって『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリスト入りした。大衆がフランクファートの著述楽しんだわけではなかった。というか、いったい何人の読者が実際に最後まで読み通し、議論についていきたいと思ったかは定かではない。それより大事なのは、フランクファートが、誰もがすでに気づいてはいたが、どう論じあらいいか扱いあぐねていたものに名前を与えたことだ(書き出しに、このように記したとおりに----「現代文化に顕著な特徴は、それが実に多くのウンコな議論にまみれていることだ。これは周知の事実である」)。
フランクファートの最大の貢献は、嘘とウンコ議論とを区別したことだ。ウンコ議論者の特徴は、せめて真実を語るふりは保つ嘘つきとは違って、真実告知のゲームからあっさり降りてしまうことだ。ウンコ議論者は体裁をつくろおうともしない。通常、真か偽かの分類で評価される一般平叙文を述べあんがら、本当らしく聞こえることを語ろうとすらしないのだ(同ジャンルでのその後の貢献に、ローラ・ペニーが、電話保留中にうんざりするほどくり返されるフレーズ「お客さまからのお電話は私どもにとって大切です」をウンコ議論の典型として取り上げたことがある。このフレーズは、ただ単に信じられないだけでなく、本質的に信じられない。もしその電話が大切であるなら、そもそも保留にされるはずがないのだ)。

この新しい態度が示された例はたくさんあるが、なかでも印象的なのは二〇一二年秋、カナダ保守党政府が野党・新民主党(NDP)の炭素税支持を非難しようと決めたときだ。注意して経緯を見ていた人にはわかることだが、これた単に誤りというだけでなく事実と正反対である。NDPは左派で環境に優しい党だから、本来、炭素税を支持すべきなのだろう。しかし党の網領で賛否の分かれる点の一つとして、炭素税に対する強硬な反対があった。二〇〇八年の連邦選挙期間中カナダ自由党のほうが炭素税を網領に掲げていたときに、NDPはそれに反対して大勢の環境保護者たちを混乱させた。そして今日までに実際に炭素税を導入した唯一の州、ブリティッシュコロンビアでは、NDPは政権党となったらこれを廃止するとつねづね脅かしてきた(NDPの連邦組織の公式政策では、過去二回の選挙で保守党が支持し推進してきたのと同じ、キャップ・アンド・トレード[輩出量取引]方式を支持している)。
保守党がその非難をただ単に議論として推し薄めたならば、当然たちまち忘れ去られていたはずだ。ところが、そうではなく、味方の全議員に「炭素税」という言葉を(もっといいのは「雇用を減らす炭素税」を)議論にかかわらず、ありとあらゆる発言機会を使って、NDPはそれを支持していると主張させたのだった。これは文字どおり何週間も、一人のジャーナリストが「アピールポイント死」作戦と呼びだすまでつづいた。議会の礼儀にはもちろん伝統にも反して、平議員にまで陳述中同じアピールポイントを唱えさせた。質疑応答が始まる前の一五分間、つまり議員が紀律し、選出された院へ陳述を行なうことを認められた時間(伝統的に、故人となった支持者の追悼や、選挙区でのイベントの通知に使われる)を使ってそうさせたのだ。
アメリカの同業者ほど無気力ではないカナダの活字メディアは、ただちに政府の炭素税の主張を「嘘」だと糾弾し、この戦術は政治的シニシズムだと手厳しく非難した。だが、それでも保守党政府はさらにラジオとテレビの全国放送で、NDPが炭素税支持であるという同じ虚偽の主張をくり返す広告キャンペーンを張りつづけた。
この非難は、厳密な意味でのウンコな議論だった。だが容赦のないウンコ議論は、その対象となるものにとってかなりのジレンマを生み出す。ある意味、NDPにできたのは、炭素税を支持などしていないと否定することだけだった。しかし「炭素税」という言葉を使わないでそうするのは困難を極めた。だから世間一般の人の耳に入るのは、「炭素税、NDP、炭素税、NDP、炭素税、NDP、炭素税......」ばかりとなる。まさしくそこがポイントなのだ、ほどなく「情報に乏しい」有権者は、こんなふうに自問するようになる。「NDPって、炭素税に賛成しる党だったよな?」それこそほかでもない、保守党の狙いであった。いまやごく普通に「ポスト真実」の政治戦略と呼ばれるものの典型例だった。

上記の「真実っぽさ」にしても「ウンコな議論」にしても、まったく、他人事でないことが分かるのではないか。
最近では、民主党における、鳩山政権が沖縄問題で挫折したときや、管政権が3・11における福島第一対応での問題から政権を降りる形になったことなど、マスコミを中心に、今から振り返ると意味不明の「ウンコな議論」によるバッシングの嵐であった。そして、その典型こそ、小沢一郎という政治家に対して行われた、裁判攻撃で、こちらについてはなんと、小沢氏自身は「無罪」にさえなっている。
おそらく、こういった事例は数えあげれば、きりがないのではないか。明らかに、質の悪い言説が、巷を流通していくことで、その「ミーム」が拡大していく。そしてその「印象」が、実際に正しいかそうでないかに関係なく、多くの人たちに、ファーストインプレッションとして、さまざまな「判断」に影響を与える。
掲題の著者は、こういった事態に至る原因を、そもそもの私たちがもっている「理性」そのものの「性質」に見出そうとする。

  1. 解決策を考えつくには、明示的な言語表現が求められる。多くの人は問題を見るなり直感的に正しくない結論に飛びついいてしまって、どのように結論に達したのかを明確に意識しないものだ。ただ単に答えは、どちらとも決められないに違いないと思えるだけである。正しい答えは実は「はい」と知らされると、しばらくのあいだ呆然として問題を見つめるかもしれない。そこへ至る筋道をはっきり言葉にしてこそ----頭のなかでも声に出してもいい----ようやく正答を得る理論的根拠が見えてくる。どうやって正答へたどり着いたか、明確に意識せずに正しい結論に達せられるのは、とんでもなく常軌を逸した人だけだ(また別の問題に取り組もう。「誰でもみな、偏見のある人に偏見をもっている。ナンシーはビルに偏見をもっている。グレッグはビルに偏見をもっているでしょうか?」正解は「はい」。しかし問題を順を追って言語化していかなければ、なぜこうなるか理解できる人は非常に少ない)。
  2. 脱文脈化が要求される。結婚問題に対する誤った反応は、具体的に考えすぎる傾向に端を発している。私たちは問題を解決するには、ある程度対象についての事実を知っておく必要があると考える。つまり、ナンシーが結婚しているかどうかだ。もっと抽象的な事実さえあれば問題を解決するのに充分だとは気づかない。つまり、ナンシーは結婚しているか結婚していないかのどちらかである、という事実だ。このもっと抽象的な事実とその重要性を認めるためには、問題の論理構造を見抜き、次にはビル、ナンシー、グレッグについて与えられた具体的な情報を抽象化することが求められる。これが直感的思考と合理的思考の大きな違いである。直感的思考は問題解決を文脈情報----しばしば問題に関する既存の知識に、関連があると思われる追加情報を補ったもの----に依存している。合理的思考はこれとは正反対の方向へ、問題の基本構造に達するため、問題から文脈上の詳細を取り除くほうへと進んでいく。
  3. ワーキングメモリを利用する。正解へと至る一連の推論を行なうには、心理学者がワーキングメモリと呼ぶものに、ひとまずの結論を保存することが必要になる。これを理解するためには、大きな数のかけ算の暗算にどう取り組むかを考えるといい。説明を簡単にするために8*23を考えよう。この答えを記憶している人はほとんどいないから、計算が必要になる。標準的な手順は二つの小さな問題に分けることだ。まず8*3=24を得る。次いで8*20=160となる。あとは160に足しさえすれば...何だっけ? おのとき、24を思い出せなかったら、正解の184にたどり着けない。ここで、問題の後半に取り組んでいるあいだに24を保管していた場所が、ワーキングメモリである。なぜこう呼ばるかというと(1)進行中の計算の一環として使用しており、(2)計算を終えたらすぐ捨ててしまうからだ。とても簡単に思えるかもしれないが、認知科学者の多くは、合理的思考はこのワーキングメモリ・システムに決定的に依存しているとのことで意見の一致を見ている。パターンマッチングのシステムでは結婚問題を解決できない理由は、二つ一組の比較を進めることで読み取れるパターンに「ヒット」するかどうかを探しているからだ。それが見つからないと、問題は解決不能だと結論づけてしまう。合理的解決法では、まずナンシーが結婚していると仮定したらどうかと考えて、その結果をワーキングメモリに保存し、次に彼女が結婚していないと仮定した場合を考え、最初の結果をワーキングメモリから引き出して、二つを統合するのである(「偏見」問題でも同様だ。正解を得るには、まずビルはナンシーに偏見をもっているという重要なひとまずの結論に達し、そこを基点にさらなる推論を進めることが必要になる)。
  4. 仮説に基づいた推論が可能になる。直感的な問題解決システムは、事実を処理することを好む。仮定の扱いは得意ではない。結婚問題では仮説のシナリオを構築して(「ナンシーが結婚していると仮定しよう」)、そこから何が導けるかを考えること余儀なくされる。そのうえ、二つのシナリオのうち一つの土台となっている仮説は正しくない(ナンシーは結婚しているかいないかのどちらかだが、両方ではありえない)。したがって一方のシナリオは仮説に基づいているのみならず、事実に反してもいる。この種の論理構成に対処できるのは理性だけだ。現実世界のことを考えて対応するとなれば、直観が役立つが、可能世界なるもの(現実世界の否定も含む)について考える必要がある場合には、脳の理性的な部分を使わなければならない。ということは、コンディンジェンシー・プラン(不測事態対応策)(「プランAが効かなかったからどうするか」)を立てたり、戦略的思考(「もしも自分がこうしたら、相手はああするかも)や、様相推論(「そうとは限らない」)、そして最も重要な、いわゆる義務に関する道徳的判断(「彼は彼女にお金を返すべきだ」)を行うには、理性を用いることが必要になるのだ。
  5. 合理的思考は難しく、時間を要する。合理的に考えるのは難しい。たいていの人間が絶対そうせざるをえなくなるまで避けようとするゆえんである。とで見ていくとおり、これにはもっともな理由がある----合理的思考では、本来そのようにできないことを脳にさせているのだ。この難しさの大半合理的な思考プロセスは比較的時間がかかり、主に注意力という点で認知上の要求が厳しいという事実の結果である。この種の注意力を維持うるためには、他の思考過程を禁じるか抑えなえればならず、ひいては、かなりのセルフコントロールが必要となる。このため、急ぎの場合とか、気が散る騒音や相容れない刺激が多いときに、明瞭に考えることは非常に困難だ(数をかぞえようとしている人を確実にいらいらさせる方法がある、そばに立って、でたらめな数字を怒鳴ることだ。その人はきっと、いくつを数えていたかわからなくなる。しかし私たちの脳は、つねづね同じようなことを自分に対してしている。「お腹が減ったなあ」とか「わっ、何だろう、あの鳥!」とか「うー、かゆい」とか「しばらくメールチェックしてなかったな」とか)。

理性とは計算のことである。しかし、この計算を正しく実行することは、非常に難しい。というか、それを行うことは、ある種の「態度」と非常に関係している。この態度の反対は、

  • 反射的な「直観」

である。一瞬で、なにかをひらめいた、といったものには、「なぜそうひらめくのか」といった原因が伏在している。つまり、「そう直観するように、私たちができている」ということである。私たちは、はるかの太古の時代から、狩りを行ったり、さまざまな生活慣習の中を生きてきた。そうした場合に、むしろ大事だったのは、「理性的(=計算的)に考えていたら間に合わない」

  • 判断

が、私たちの最初のステップをドライブしてきた、ということなのである。こういった部分は、カントで言えば、判断力批判のカテゴリーに入るであろう。
では、このように考えたときに、「理性的」である態度には、どういった特徴が必要なのか、が上記の「結婚問題」での考察にあらわれていると考えられる。
つまり、私たち人間は、「理性的」に「最適化」された存在ではない。つまり、無理をしないと理性的になれない。かなり自覚的に理性的であるように自分をコントロールしなければならない。
私たちがこのように獲得してきた「理性」の能力は、そもそも、その獲得してきた「その内実そのもの」において、規制されている。つまり、言語の性質そのものによって、さまざまな「特徴」をもち、そしてそういった特徴に、さまざまに制限をされながら

  • やっと

この理性という能力を十全に発揮することができるようになる。

この味方では、合理的思考とは要するに内言語の一形態である。幼児のしゃべりに耳を傾けると、幼児は考えたことを表現しているだけではない。聞こえてくるのは文字どおり考えている過程なのだ。幼児が体の動きを止め、発話を抑え、そのようにして黙って自分だけで考える能力を発達させるのは、しばらく時間を経てからになる。この内在化のプロセスは他の領域でも見られる。中国ではときどき年配の商人がとんでもなく複雑な計算を、外部装置をまったく用いないで「暗算」しているのを目にする。だが注意深く観察すると、指がわずかに動いている。これは算盤を使う訓練をしていたからだ。長年使っていたので脳内ではっきり算盤がイメージされ、玉に触れられるから、もはや装置の実物は必要ない。指のわずかな動きは、この能力の外的な機嫌の名残りにすぎない。
二〇世紀初頭、ヴィゴツキーとその同僚のアレクサンドル・ルリヤは、子供の筆記の学習に同様の内在化のプロセスを発見したが、このときは算盤ではなく発話を伴うものだった。二人は筆記を学んでいる年少児のクラスで静かな話し声が「絶えずざわざわ」していることに気づき、クラスの半分は小声で独りごとをつぶやいてもいいが、あとの半分は舌を歯のあいだに挟んでおくようにと指示した。第二のグループの成績はがくんと低下した。これに反して、ただ単に歯をくいしばるとか、こぶしを握るように指示された場合には、そんな影響はなかった。成績の低下を引き起こしたのは、特に舌の動きを抑制したことで、声を出させなかったからだ。それが間違いが増える原因となったのだ。

私たちは自分で考えているほど、さまざまなことは「自明」ではない。上記の引用はそのことを、よく印象づけてくれる。子供はまるで、すべての思考の過程を、「しゃべっている」かのように、なんでも思ったことを、口に出す。しかし、その「行為」は、なにかを思考しようとする人にとって、非常に重要だと言える。つまり、これは大人でも変わらないわけである。大人であっても、言語という後天的に獲得してきた、この能力を十全に発揮しようとするなら、なんでも思っていることを、口に出した方が、集中し、記憶もされ、計算をうまく実行できる。というか、頭のいい人は、むしろ、「それ」をやっているわけである。つまり、本当に口には出さなくても、暗算の名人の指が、かすかに動いているように、口の端が微妙に動いていたり、といったようにして。
しかし、そのように考えてきたとき、掲題の著者は、ある「結論」に至る必要があることが理解されるであろう。確かに、17世紀や18世紀の啓蒙思想家たちは、こういった人間の側面についての考察が弱かったのかもしれない。つまり、だったら、どうすればいいのか、と。もしもそれを「啓蒙思想2.0」だと言うのなら、1.0 と 2.0 の間には、どういった差異が必要だと言っているのか、ということになるであろう。

改めて言うまでもないが、理性の衰退についての本を書くのは、理性の衰退をくい止める類いのことではない。これこそ釈迦に説法である。このテーマについての四〇〇ページを超える本を読み通せる人は、問題の一部ではないことは明らかだ。しかも、この趨勢をぎゃくてん させるという計画はあまりに壮大で、あまりに複雑で、一個人に達成できることは多くない。この仕事そのものが、バークが述べたように多くの頭脳の助けを求めている。合理的な政治を可能にする社会状況を引き起こすには、何より集団行動が必要だ。したがって本書は、一組の提案で終えるより、一篇の宣言でしめくくろう。精神的環境の改善を望んでいる人たちへの行動の呼びかけで。スローフード宣言があるのだから、スロー・ポリティクス宣言もあってまったくしかるべきだろう。

この指摘は、私には、いわゆる「ゆとり世代」政策とのアナロジーを非常に意識させられる。つまり、この「ゆとり世代」的政策は、たんに子供たちの義務教育に対してのみ適用されるのではなく、大人になってからも、あらゆる政策に対して、実行されなければならないプログラムであることを意味している、と考えられるのではないか。
私たちは確かに、理性という能力をもっている。しかし、この能力を十全に発揮するためには、後天的に過去から獲得してきた「反射的直観」の「自明性」に対して、「抗う」という非常に内的な抵抗を伴う過程を、経る必要がある。しかし、これを自覚的に行うことは、そう簡単ではない。つまり、人間はこういった行為が「得意」ではない。そういったことを優先させるようには産まれてきていない。

  • しかし

そうしなければならない。だとするなら、どうやってそれを実現させるのか、と問うしかない。掲題の著者は、その「解決」として、最初から、こういった理性的で合理的な問題に対処するための、私たち自身のライフ・サイクルにおける「多くの時間のバファー」を用意するような生活スタイルを、この社会自体にビルトインしていくところから始めることが重要と考えた。つまり、人間がそういうふうにできていないのなら、そういった態度を選択していくための、十分に実現可能な範囲での時間的な余裕を、常に、私たちの生活サイクル自体に取り込むような社会を目指そう、ということである。
さて。話は変わるが、この前、福島の原発訴訟に関わっている弁護士の方が作られたという、自主政策映画「日本と原発」を見てきたが、改めて思ったことは、福島第一の原発事故は、原発の事故として想定される「最大の事故」の規模ではないわけであろう。3・11の後、東電の社員や協力社員は、福島第一での爆発を考え、自主避難を行った。確かに、その爆発と同期して、非常に高線量の放射能を発した時間があったことは今でも確認されている。ところが「なぜか」その線量は、短期間の間に下がってくれた。

  • だから

東電の社員は、その後も戻って作業ができたのであろう。あの状態で、だれも近づけない状態になり、4号機が誰も手がつけられないような形で、大量の放射性物質を外界に放出するような状態になっていたら、と考えたとき、まったく「最悪」でもなんでもないことが分かるわけである。
原発の再稼動などできるわけがない。
私は、まるで原発の再稼動が可能であるかのように話している文化人は「悪魔」だと思っている。こういった連中って、一体なんなんだろうか。まさに「ウンコな議論」そのものではないか。あまりにおかしいであろう。
なぜ、こういった連中を私が「悪魔」だと言うのか。
それは、3・11以前からすでに、柏崎刈羽発電所を見れば分かるではないか。

  • 格納容器は、3・11レベルの震度を「想定」した耐震テストをやっていたのか?

なぜ、3・11以前から柏崎刈羽は県の規制によって、稼動がままならなくなっていたのか。それは、新潟の地震クラスでさえ、原子炉が危険な状態にまで行っていたことが分かっていたからであろう。
そもそも、今の国が原発を設計するために課している原子炉の耐震テストは、3・11レベルに「耐える」ことを求めているのか。やっているわけがない。驚くべきことに、3・11以降に作られた原子力規制委員会が今行っている、ストレス・テストにおいてさえ、

  • 3・11以前の「震度想定」の耐震テストで「いい」

となっている、というわけである。意味が分かるであろうか?
3・11以降に作られた原子力規制委員会とは、なんだったのであろうか? 彼らはやる気があるのだろうか。彼らは「再稼動をするために、それが可能になるような審査をしている」にすぎない、意味のない組織なのではないか。
日本中の原発は、当然、3・11と同様、いや、それ以上のマグニチュード地震が来た場合を

  • 想定

して、もう一度、原子炉の耐震テストをやり直さなければならない。それに耐えられるように「作られているか」をテストしなければならない。もう作ってしまったから「しかたがない」ではすまないわけである orz。
しかしね。そんなことは可能なんですかねw もともと、今ある原発は、国の規制によって、3・11の震度を、はるかに下回る震度での耐震基準を「クリア」すれば

  • OK

として、審査を通してしまっている。そんな「ポンコツ」が、3・11レベルの耐震性能を最初から、もたないにきまっている。しかし、原子力規制委員会は、この論点を完全に、無視して、まるで、このことについて、国民的なコンセンサスを通すことのないまま、原発の再稼動が可能であるかのように、ダンマリを決めこんでいる。
私はこの映画を見て、こと原発問題においては、この「裁判」という闘争形態が非常に重要であるんじゃないのか、という印象を受けた。なぜなら、裁判の過程こそ、上記における「嘘っぽい」「ウンコな議論」に対する、熟慮による、徹底した抗争を可能にするからである。裁判は非常に長い反論過程を通して、あきらかにダメダメな「ウンコ議論」を駆逐する能力をもっている。そういう意味においては、原発のような、右も左も反対であり、非常に多岐に渡る論争のポイントを持ち、高度な物理学の知識まで駆使するような、専門的な視点さえ必要とするようなものに対しては、こういった「時間をかけた」熟慮が、そして、その「過程」そのものが、なによりも重要なのではないか、と思ったわけである。
自民党が、師走のこの、寒くて忙しい時期に、選挙をぶつけてきた目的が「投票率の低下」を

  • 目的

にして行っているのことは、誰にでも理解できるであろう。それは例えば、東京都知事選挙が、東京始まって以来の豪雪となった、その日にあって、年寄が出歩くには、あまりにも足元が悪かったにもかかわらず、「延期」にもせず、続行されたことには、むしろ、かなり早い段階で、あの当日頃に、東京の天候が不安定になることを、ある程度予測して行ったんじゃないのかと、うがった読みまでしたくなるくらいであった。
そもそも、なぜ総理が勝手に解散を決めれるのか。もしも内閣不信任が野党から提出されたわけもなく、総理が勝手に前倒しで解散を決定できるなら、それは国会議員の「権利」の侵害になっているとは言えないだろうか。つまり、国会議員は議員に選ばれた時点で、その任期の期間を見積って、自分の仕事の計画を設定するはずだ。それが、前倒しで議員のバッチを剥奪されたら、それ以降に計画していた作業を放棄しなければならなくなる。そんな重要なことを、なぜ総理が勝手に自分で決めれるなどということになっているのか(ここについては、憲法の解釈問題があるようだが、まあ、普通に憲法を読むなら、どう考えても違憲であろう orz)。
今週の videnonews.com で、元経産省官僚の古賀茂明さんが、今回の選挙は何が焦点なのかを、非常に適切に説明してくれている。

基本的に安倍政権というのは、公明党も合わせて、すごい多数をとっているわけですね。衆議院でも参議院でも多数をとって、それで、まあ、やりたいことだったらなんでもできる、と。ということで、2年間やってきたんですよ。で、これを、そのまま続けるのかっていうのが、大きな意味での争点だと思うんです。もちろん、個別にはアベノミクスもあるし、それから、集団的自衛権特定秘密保護法、武器輸出とかあって、いろんな社会保障お話もある、雇用政策の話もあるんですけど、基本はね、このままいくと、ここでようするに同じような状況を継続すれば、4年間、まあ、前半の2年間は参議院選まで国政選挙がないですから、まあ、かなりやりたい放題やります。ということは、安倍政権にもう丸投げ、していいんですか、と。それとも、いや、ここで、ちょっとやりすぎてるよ、いうことでブレーキをかけるんですか。そこが最大の争点だと思いますね。
VIDEO NEWS » この選挙で原発政策を問わないでどうする

私は上記で「悪魔」という言葉を使った。その場合に想定している、その意味は、上記で問題になっているような「ウンコな議論」を、慢性的に続けているような態度を想定している。私はこういった議論を行っている非常に悪質な言論として、例えばツイッター上では、池田信夫さんであり、東浩紀さんであり、物理学者の菊池誠さんの低線量被爆の議論などが典型的だと思っている。
もちろん こう言った場合に、彼らの発言が、本当にエア御用として、どこかからお金をもらっているのか、とかといったことは確かめようもないわけだが、ここで問題にしているのは、それが「ウンコな議論」の連発だということなわけであり、そのことのマーケティング的な「意図」が、きな臭いわけである。
例えば、よく考えてみてほしい。東浩紀さんのチェルノブイリや福島第一を「ダークツーリズム」にしようとする運動についての言説において、彼は、上記にあるような原発にまつわる、裁判における「議論」を、ちゃんと、継続的にフォローしているでしょうか。その時、その時で、この人が言いたいことを言っているだけではないでしょうか(彼は明かに心情的原発推進派でしょうw)。だから、こういったものを私は「ウンコな議論」と言っているわけです。
今回の衆議院選挙についても東浩紀さんは、白票投票だとか投票率が上がれば自民が大勝ちするだとか、まさに文字通りの「ウンコな議論」をしていますが、どう考えても、今回の選挙の争点は、上記で古賀さんが言っているような観点でしょう(一体、どこからお金をもらって、こんなゴミみたいなことを言ってるんでしょうねw)。
しかしこのことは、東浩紀さんの主著である『一般意志2.0』と、掲題の本を比べてもらえば、その差異において、こういった異様な態度の意味も分かるのではないでしょうか。「一般意志2.0」とは、「啓蒙をあきらめた」世界の「政治」の形態が書かれているわけです。つまり、大衆はもう政治に「直接」関わってはダメなんだ、という形になっています。つまり、大衆はまさに

  • アンケート

と同じようにして、自分の「意見」を言うだけです。だから、まさに動物のように、自分の「意志=欲望」をダダ漏れさせておけばいい、となっているわけです(大事なポイントですので強調しておきますが、彼は「自分自身」で「これ」を実践しているわけですw。つまり、むしろ人々はエア御用であり、ポジショントークをすることが「正しい」と言っているわけですw)。そうすれば、そういったビックデータから、一部の官僚が、「一般意志」として、国民の大勢の意志を政治行動として選択してくれる、という民主主義の

  • 堕落

した形態として、それを未来の「希望」として目指すという「ファシズム」を目指した、「悪魔」の本だったわけである。本当に、多くの人には彼の、こういったトンデモな「ウンコ議論」に気をつけてほしいと思うわけです...。