ニセ科学批判は「ニセ科学」か?

昔から「似非(エセ)科学批判」というのは存在したが、近年「ニセ科学批判」なるものが登場してきた。そして、それが「何」を意味しているのかを、私に分かるように説明してくれた人はいない。
ある人は、それを「自明」性において説明する。つまり、ニセ科学は「だれが見てもおかしい」ものについて言うのであって、そうでない場合には、「ニセ科学」とは言わない、ということだそうです。そこで、彼らは「江戸しぐさ」や「EM菌」や「ホルミシス」は「ニセ科学」であるが、それ以外については

というわけです。私は思いました。

なぜでしょうか。まず、科学の特徴は「定量的」というところにあります。つまり、大事なポイントは

  • あらゆる対象同士の「比較」

にあります。つまり、何かと何かの二つの対象があったときに、それぞれが「どれくらい」この問題に対して「適合」するのかの判断ができなければなりません。大事なポイントはその「普遍性」にあります。
私が問題にしているのは、その「恣意」性にあります。
例えば、大飯原発の今回の判決にしても、はるか以前から、今の原発の耐震設計が、近年発生している地震の「大きさ」に対して、その「耐震」性を保障していない、ということが、3・11以降何度も指摘されているにもかかわらず、原子力規制委員会は、このことを、なんでもないことのように、ふれることなく、「合格」を与えています。つまり、そもそも、今の原子力規制委員会の行っていることは、

  • どうやれば今の原発の「再稼動」が可能になるか?

の範囲内で、「少し規制を厳しくしている」にすぎず、この日本という地震国の特殊性を考えたとき、本当に安全に原発を運転できるのかに答えていない、ということになるわけです。
私には、この「エア御用」的な態度は(この態度は言うまでもなく、安冨歩さんの言う「東大話法」や「立場主義」と同等だと言えるでしょう)、ニセ科学批判にも通底している、と思っています。
法哲学者のケルゼンに、「純粋法学」という本があります。この本が言っていることは、この地球上にある「国家」がもっている、法律や憲法といったもの、それぞれに「共通」した性質はあるのか、あるとしたら、その本質は何だと言えるのか、に答えようとしていることです。これは、まさに「科学」的な態度だと言えるでしょう。
もしも「ニセ科学」なるものがあるなら、

  1. 世の中にある言論の「どれ」がニセ科学なのかを「定量的」に示す「方法」を提示しなければならない。
  2. その判定を行う人によって、差異が発生するような「方法」ではならない。

という二つの命題を満たさなければならないでしょう。
ようするに私が言いたいのは、いわゆる物理学者だとかいった連中は、「差別」について「扱う」ことを「科学」的に

  • やらなければならない

といったような「覚悟」がないわけである。自分は自然科学者だから、自然科学の「対象」以外を「専門」にしていない(立場主義)。だから、自分の専門以外のことを「科学」で扱わなければならない、という

  • 発想自体

が欠けている。「差別」をどうやって「科学」的に扱うかについて考えてきたのは、人文科学者であろう。ところが、彼ら自然科学者は、こういった人たちの

  • 業績

を真面目に「学ぶ」ことなく、「差別」についてフェアに語ることが可能だと思っている。つまり、

  • 人文科学をバカにしている(=今だに、その「科学」的到達点は、中世迷妄時代のままだと思っている)。

というわけである。
しかしねw
この前の、videonews.com で、農学博士の高橋久仁子という人が言っていたが、ようするに、専門の自然科学の学部の教授たちは、自分の生徒たちを企業に推薦しないとならないから、国策に反することは言えない、のだそうだ。つまり、それを言えるのは、教育学部のような、生徒たちが「勝手」に「自分」で、教員免許を取って、就職先を自分で決定してきてしまうような学部の先生だけだ、と。
これがホンネなんじゃないだろうか。結局、

  • ホンネ

で語らないでしょ。一言で言えば、こういった人は結局は信用されない、ってことなんじゃないですかね...。