自由主義から漂う「腐臭」

自由主義とは、いわば「魚の乱獲」のことと同値だと私は考えている。それぞれの、例えば寿司屋は、ネタが未来永劫欲しい。よって、各漁師は「競争」をすることになる。各漁師は、魚を取る。しかし、それを続けていくと、ある時点で、まず起きることが、

  • 体長の小さい、小振りの魚

しか店頭に並ばなくなる、ということである。つまり、乱獲によって、成人の個体数が著しく減少していく。ところが、彼ら漁師は、その乱獲を止められない。その寿司屋が、その個体を求めているということは、「高く売れる」ということなのだから、その魚の獲得は、その漁師の

  • 成長

ということになるからだ。ここで起きていることは、一種の「合成の誤謬」ということになるのだろうかw
(言うまでもないが、自由主義と、実際に私たちが「自由」であると考えることは、なんの関係もない。自由主義とは、「人間を殺してもいい」とか、「この社会を壊してもいい」とか、「いじめをしてもいい」とか、「貧富の格差はいくらでも拡大していい」とか、「独裁政治をやっていい」とか、「人々に不自由をもたらす法律をつくる」とか、そういったことの

  • 自由

を含意する「イデオロギー」を意味している。そういう意味では、自由主義とは個々人がもっている「欲望」のことと同値と考えてもいい。大事なポイントは、自由主義が、実際の私たち一人一人に「自由」をもたらすことを担保しない、ということである。独裁政治が民主主義的な合法性の中から生まれるように、自由主義は自由を「破壊」する。むしろ、自由だとしたから、不自由な社会になる、というわけであるw)
しかし、そもそも「成長」ってなんなんだ? 例えば、アベノミクスは一つの成長戦略だと言う。つまり、これは「経済」概念なのだ。確かに、そういう意味で言うなら、

  • 計算

をすれば、必ず、この経済社会は「成長」する、ということになる。常に、なんらかの「イノベーション」が起きているのが、人間社会なのだから。人間は絶えず、なんらかの「工夫」をする。だとするなら、その一つ一つを基本的には「経済的成長」と呼んでいい、ということになるであろう。しかし、だとするなら、なぜ魚は絶滅するのか? 乱獲して、ほとんど成人個体がなくなって、国際機関に漁を禁止されるというような「反成長」的な事態に至らないと、人間社会は漁を止められないのか。
私はこの「成長」という言葉も、一種のイデオロギーだと考えている。もちろん、これを「経済的成長」という形で、経済的に「計算」するためのデフィニションとして使っているなら、それほど問題はないであろう。しかし、この「経済的成長」を、

  • 一般的な意味での成長(=発展=進化?)

といったような意味に「解釈」されるとき、ある「うさんくささ」の腐臭が漂ってくる。
私に言わせれば、「成長」とは、「東大合格」のことを意味している、と思っている。つまり「東大合格」は一種の人間の「人格」の成長wというわけである。なぜなら、そこに合格するような連中は「そこ」を目指して、努力した、というわけだから。そうであるなら、それをかなえられたということは、一種の「成長」なわけである。
しかし、他方において、言うまでもなく、東大に入学できる人数は上限が決められているのだから、多くのこの目標に向かって努力したが合格できなかった人たちは「成長できなかった」ということになるであろう。つまり、その合格した子どもたちが、そうであったためには、そういった多くの「成長できなかった」屍が必要とされている、ということである。
このことを、前回検討したような意味で、もっと身近な例によって考えてみよう。ある東大受験に向けて勉強をしている子どもがいたとする。この子がより「成長」するために「邪魔」なものはなんだろうか? まず考えられるのが、この子どもの「兄弟姉妹」である。それらは、この子どもに与えられるはずの

  • 親のサービス

を奪い合うことによって、その子どもが「もしも、その兄弟姉妹がいなければ」受けることが可能であったレベルのサービスを受けられない、ということになる(親のリソースには限界があるのだから)。よって、「邪魔」だということになる。
次に邪魔なのが、「クラスの友だち」ということになる。彼らは、教師からのサービスを「奪い合う」ことになる。自分が分からないことがあったとき、迅速に自分にサポートをしてもらうためには、クラスの他の子どもたちは「邪魔」だということになる(教師のリソースには限界があるのだから)。
ここで考えているのは、「その子ども」の

  • 成長

である。その子どもを「究極的」に、「成長」させるためには、ようするに

  • さまざまな邪魔者

を排除すればいい、ということになる。これが「成長」である。しかし、である。よく考えてみると、わざわざ東大なんかに入った子どもというのは、少なからず、こういった

  • 回りにさまざまな迷惑をかけた

子どもたちって、けっこう多いんじゃないのか。兄弟の中で、自分だけ親に塾に通わせてもらったり、とか。いや、別にそれが悪いと言っているわけではないが、私が言いたかったのは、単純な計算の話で

  • 他人を「犠牲」にすれば、そいつは「(計算上の)成長」をするよね

というだけのことにすぎないw よく考えてみろよ、って話である。こんな単純な「事実」を前にして、そんなに「東大合格」って倫理的に胸を張れるようなことなのかねw
そうやって考えると、経済学者が「経済的成長」のアナロジーとして、自らが「東大合格」した「過去」を「成長」として、まるで

  • 無上の「善」

であるかのように、「成長は素晴しい」みたいに言っているのを見ると、「(東大に合格できたような)俺は素晴しい」と言っているのと変わらないよな、と思えてきて、バカらしくなる、というわけである...。