「表象」への違和感

映画版のガルパンを見たが、確かに、いつもの学校廃校ネタをはさんで、JKたちの倫理的な諸関係を描いていたわけで、それなりにおもしろかった印象はあり、それはネットの評判と同じ評価だと言っていい。
ただ、いつも思うのは、ある「違和感」である。それは、言うまでもなく、あの戦車による戦闘シーンの「描写」なわけである。このアニメの中では、なぜか、戦車に搭乗しているJKは、怪我をしない。普通に、あんな「破壊」行為を行われれば、戦車の破壊は当然、その中の搭乗員の「破壊」に直結するわけで、それは言うまでもなく、見るも無惨な屍となって表象されるはずであるが、なぜか、そういったシーンは「一瞬」も描かれることなく、最後には、全員、五体健全なままで、ピンピンして、ハッピーエンドを迎える(おそらく、戦車という鉄の「箱」の中に、人物が隠れる、といった視覚上の効果があって、生身の剥き出しの人間の体が表面から描かれない、といった点が影響しているのだろうが)。
その不思議な光景の理屈が、「戦車に特殊な装甲がされているから」という意味不明な説明がされているだけで、つまり、どうもこの作品においては、その点にふれることは「タブー」のようになっている。
それは、この映画版の戦車の戦闘シーンをより、実際の戦車の動作に近づけて、写実的な映像に近づけた描き方になればなるほど(そういった点は、言うまでもなく、実際の映像を「ネタ元」にして、アニメーションを作成すればするほど、「ネタ元」に近づいていくのは当然なのであるが)、むしろ、そういった

  • 設定

が、強い違和感として感じられるようになる。
しかし、こういった「設定」というのは、漫画やアニメでは、昔から、お決まりの「暗黙の了解」のようなところがある。ガンダムにおいて、宇宙空間の真空の中で、なぜか、爆発音していることは昔から指摘されてきたことであったわけであり、ルパン三世にしても、ぴょんぴょん屋根の上をとびまわって、ついぞ、ルパンが重症で、何ヶ月も病院のベットで過したなんていうエピソードが描かれることもない。
漫画やアニメは、そういう意味において、フィルム撮影のように、その撮影対象とフィルムとの「一対一」の対応の「正確」さに、あまりとらわれない。つまり、その「描写」は、ある種の

  • デフォルメ

によって構成される。つまり、漫画やアニメは、なんらかの意味での「強調」が、作者によってほどこされていることが常識となっているわけで、そして、その点において、多くの人たちは、あまり違和感を感じない。
それはつまりは、漫画やアニメが、写実的な「正しい報道」に関心がなく、そういった事実についての感覚よりも、「それによって」なにを伝えるのか、といった方に関心が強くなっているから(むしろ、それによって伝えたい、なにか倫理的な価値といったところに関心が強くある)、といったところなのであろう。
こういったアプローチのことを、「表象」と言ってもいいと思うのだが、こういった「表象」操作は、別に、漫画やアニメだけで行われているわけではない。活字においても、例えば、西尾維新の小説を読むと、ほとんど理屈になっていない、なんというか

  • 国語的<文章>

で、なにか意味があるかのような、変な「言い回し」で、なにか説明した気になって、そのまま先に進むといった場面が非常に多い。こうった一種の「モノローグ」的な「書きぶり」は、まさに「表象」の一種だと言えるであろう。
よく考えてみてほしい。
あなたが、ある仕事をお願いされて、その契約の交渉をしていたとする。月にいくらの単価で、と。そこで「変な日本語」で説明されたら、どう思うだろうか。当然、「それはどういう意味ですか」と、相手の説明が納得のいくレベルにまでならなければ、話を先には進めないであろう。別に、お金を稼ぐ方法はいくらでもある。そんなブラックな契約をわざわざやらなくてもいい。というか、そんな変な奴ともう、付き合うこと自体をやめるかもしれない。うさんくさい、一種の「宗教」をそいつはやっているんだろう、と思うわけである。
しかし、これが「文学者」や「哲学者」の世界なのである。こういった世界では、そういった「衒学的」な態度はむしろ常識なわけである(「文学者」や「哲学者」が、いつも偉そうに、ドヤ顔でふんぞりかえっているのは、それが理由である)。
ガルパンの世界は「ファンタジー」である。ここにおいては、どんなことがあっても、だれも死なない。傷すらおわない。顔が少しよごれるだけの、意味不明の世界であるわけだが、早い話が、それは、なにかを「隠喩的」に示唆しているわけである。つまり、「戦車道」という言葉が示唆しているように、これは、なんらかの学校における「体育会系の部活動」を

  • 表象

しているのであって、例えば、高校の部活のバレー部で、毎日遅くまで練習をしていたからって、次々と、部員が再起不能の重症の怪我になることがないことと「同様」の、その「様態」を、これらは示唆している、と私たちに「受け取る」ような

が求められているわけだが、そのことが逆に、映画版の大画面での、より写実的な戦車の「動き」の描写の細かさを見せられることによって、なんとも言えない「違和感」が増加することに、こういったアニメーション描写(いや、もっと一般に「表象」文化)の

  • 限界

があるんじゃないのか、と思ったわけである...。