ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』

著者は、人間の道徳は一種の「部族」単位で、進化してきた「本能」に関係して形成されている、と考える。そういう意味では、「道徳とは本能的な感情的な反射的な」なにかだ、と言っているのと変わらない。

  • 他者への思いやり......自分の取り分だけでなく、他者の取り分も同じように大切にするのなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間には共感が備わっている。さらに一般化すると、私たちには、他者、とくに家族、友人、恋人の身に起きることを気づかう情動が備わっている。私たちの情動はまた、他者に直接、かつ意図的に危害を加えることを躊躇させる。そして(それほどではないものの)他者が危害を加えられるのを見過ごすことも躊躇させる。私はおれを最低限の良識と呼ぶ。
  • 直接互恵性......いま協力しなければ、将来協力して得られる利益が消えてしまうとわかっていれば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間には怒りや嫌悪などのネガティブな情動が備わっている。これらの存在は実際よく知られていて、私たちに、非協力的な個人を罰しようとか、避けようとする動機を与える。同時に、こうしたネガティブな情動への傾向は、間違いがつきものである世界への適応戦略である許しの性向によって和らげられる。私たちは感謝を通じて協力へのポジティブな動機を互いに与えあう。
  • 確実な脅しや約束......互いの非協力的行動を罰すると固く誓っているなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人はしばしば復讐心を抱く。多くの人に備わっている(これもよく知られている)のが、たとえ代価を上回っても非協力的行為を罰しようとする情動的傾向だ。同様に、非協力的行動をとった自分自身を罰することを確約しているのならば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人はときに高潔になるし、羞恥心や罪悪感といった自罰的情動の傾向も知られている。人は、これに関係した忠誠心という美徳も示す。愛とセットの忠誠心もそれに含まれる。より高位の権威への忠誠心には、謙遜という美徳や畏怖を感じる能力も関わっている。
  • 評判......ここで非協力的なふるまいをすれば、事情をよく知る他人にこれから協力してもらえなくなるとわかっていれば、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、私たち人間は、乳児でさえ、手厳しい。私たちは、人が他者にどう接するかに注目し、それに応じて相手へのふるまいを調節する。さらに、ゴシップを発信し消費するという抑えがたい性向によって、自分たちの判断の影響を増幅させる。そのため、私たちは、他者の監視の目に非常に敏感になる。他者の目があるために私たちは自分を意識する。自意識がうまく働かずに一線を越えたところを見つかると、見た目にはっきりと恥じ入り、もうしませんという信号を発する。
  • 分類......協力的な集団に所属することによって、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。ただしこの集団の成員が互いを確実に特定できればの話だ。この戦略に対応して、人間は部族主義的である。集団の成員が発する信号を敏感にキャッチし、外集団より内集団の成員(見ず知らずの人であっても)を直感的に好む傾向がある。
  • 間接互恵的......協力的でない者を罰する(あるいは、協力した者には報酬を与える)他者の存在があるのなら、二人の囚人はマジックコーナーを見つけられる。この戦略に対応して、人間は向社会的処罰者である。義憤い駆られ、自分には何の得にならなくても、非協力的な者を罰する。他者にも、裏切り者に対して正当な憤りを感じることを期待する。

このように、掲題の著者の考えでは、道徳とは「本能」と同値の何かになっている。つまり、道徳は「感情」の側の属性であって、理性ではない、ということになる。
このことは、私たちが「国家」について考えるとき、重要になる。もしも国家が、その国家のメインの民族による「道徳=本能」であるなら、必然的に、その民族の道徳が、その国家の「法律」となる。しかし、そうした場合、何が起きるか? 世界の国家は、移住の自由を基本的に認めている。そうして、移住してきた外国人は、当然、違う「部族」なのだから、違う「道徳=本能」をもっている。
つまり、「部族間の道徳の対立」が必然的に起きてしまう。
これを解決する方法はなんだろうか? 掲題の著者はそれを「功利主義」だと言う。功利主義という表現がこの場合、何を示しているのか。功利主義は、ひとまず、関係者の「幸福の最大化」を目指す。ということは、必然的に、それぞれの幸福の

  • 計算

を行うことになる。つまり、ここにおいて「理性的」な扱いが期待できる、ということを言っているわけである。
しかし、素朴に思うことは、ここで言う「理性的」とはなんなのだろう。計算をするなら、確かに、これは「議論」の遡上にあげられる、というのは正しい。そういう意味において、道徳のように「そこで思考停止する」という難点を避けられているのかもしれない。しかし、だからといって、「計算」において、なんらかの謬見を介入させて行っていないことを意味しないであろう。

アメリカには一年で三〇〇万ドル稼ぐ人もいるが、平均的な労働者の年収は三万ドルだ。これが自由市場というものなのだ。一般に、数百万ドルも稼ぐ人は、平均的な労働者より勤勉であり、その報いを受けて当然だということは認めよう。しかし、彼らが一〇〇倍熱心に働いているとは思えない。大富豪の一週間の仕事量が、平均的な労働者の一年間の仕事量より多いとは思えない。金持ちには金持ちになってしかるべき理由があるのかもしれない。しかし彼らは運にも恵まれているのだ。私には、世界でもっとも幸運に恵まれている人たちが、なぜその幸運をそっくり自分のために取っておかなくてはならないのかがわからない。公立学校が教師に仕事を見合うだけの給料を支払うことができず、世界中の数十億という子供が罪もないのに貧困に生まれついているのならばなおさらだ。持てる者たちから、ほんの少しお金を取り上げたおころで、彼らがどれほど痛みを感じるあろう。一方、持たざる者への資源と機会を提供して、れらが賢明に活用されるのであれば、おおいに役に立つ。これは社会主義ではない。深遠な実用主義だ。

例えば、一方に新自由主義を「慣習」としている部族と、社会主義を慣習としている「部族」がいるとする。この場合、どうして新自由主義を慣習としている部族=国家が、貧富の格差が拡大しすぎたために、より社会主義的な国の法律に変えることを、変だと思えるであろうか。
この場合、よく分からないのは、功利主義という場合に、どうしてその「計算」に道徳による「慣習」の「癖」が介入しないと思えるのか、ということであろうか。
私に言わせれば、道徳という慣習=本能も、功利主義という「理性=計算」も、それらを区別するなにかがある、という謬見を認めることができない、ということなのだ。
功利主義は「計算」をする、と言う。ところがその計算の基準はどこからもってきたのかと見ると、なんのことがない、自らの「部族」の道徳を基準にしていたりする。そうなると、計算しているから理性的で立派という主張はなんだったのか、と思うわけである。
例えば、リベラリズムという言葉がある。しかし、日本の文脈において、この言葉を使っている人というのは、ようするに、「左翼じゃない」と言っているわけである。つまり、「左翼嫌い」をリベラルと言い換えているにすぎないわけである。つまり、冨の平等に「反対」の、「プチ・ブルジョア階級」として、プロレタリア階級を「差別」することを当然と考えている人たちなんですよね。つまり、

ということなんですよね。もっと言えば、リベラルって、そういう意味で、「リバタリアニズム」なんですよね。金持ちはどんどんお金儲けをして、貧富の格差が、どんどんつくことに、なんの痛痒も感じない、私から言わせれば、一種の

だと思っているわけです。リベラルって、ようするに

  • リベラル=左翼じゃない=貧富の格差を肯定

なんですよね。もっと言えば、

というわけなんです。絶対的貧困は、直接、人々の死のつながるから、「共感」によって、反対。ところが、リベラルって、自分の身の回りにいる、相対的貧困層に対して、驚くべくほとに冷淡なんですよね。それは、

  • 飢えて死んでるわけじゃないだろ

というわけで、だったら、自分が助ける理由にはならない、というわけでしょう。彼らは、驚くべきまでに、自分が裕福な家庭で、高学歴エリートとなれたことと、彼ら貧困層が、実質的に、上級教育を受ける機会をえられないまま、貧困階級に留まることを、あまり

  • 深刻な問題

と考えないんですよね。いいですよね、エリートはお気楽で...。

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)