「くまみこ」最終回問題

アニメ「くまみこ」の最終回が、いろいろと「炎上」しているようだが、原作ファンの私から言わせてもらうなら、問題は一点に絞られる。
つまり、原作者自身がコメントを出しているように、以下の「よしお」の発言が「酷い」のであるw

熊出村の昔話、ひーこも知ってるよな?
娘を生け贄として差し出していたって話
それってさ、巫術を持った娘巫女のことだと思わないか?
あいつには酷だけと、まちに村の代表として、みんなの為に頑張って欲しいんだよ
村の皆がまちを応援して、期待してくれてるんだよ。
村のみんなの願いなんだ!!この村興しプロジェクトは!
(アニメ12話良夫と響がまちを探しているときの会話より)
くまみこ最終回(オリジナル改変)について個人的に感じたこと - たかみめも

まず、第一に言っておくべきことは、最終の第11、12話は、原作レイプをされている。それが、「まち」が原作では、仙台の人が石を投げるという妄想を見たことによって、

  • 仙台に行っていない

にもかかわらず、アニメ版では仙台に行っていることにある。
このことが、なぜこのような「炎上」につながったのか?
この作品を見たことがある人なら分かってもらえると思うが、この原作の作品は非常によくできているのである。近年の少年漫画にはないようなデリケートな作りになっていて、シュールな舞台設定であるがゆえに、丁寧に、注意深く作られている(原作者は、女性なのだろう)。
まず、原作においても、熊手村の昔話のネタは出てくる。しかし、それは第一巻においてであり、そこでは、あくまで「よしお」が村の子どもたちに、この村の昔からの熊との懇意な関係を示唆するためにすぎない。つまり、「よしお」はそこにおいては、

  • 子どもたちを「ナツ」を怖がらせる

ためのネタとして、その昔話をもってきたのであって、そもそもその昔話と「まち」をリンクさせるような「ほのめかし」は一切ない。
次に、「よしお」の、どこか「サイコパス」を思わせるような性格であるが、原作でも確かに、「まち」への他人から見たら、セクハラの一線を超えているように見られてもしょうがない行為は、「よしお」と「まち」が、「いとこ」として、幼少の頃から一緒に育ったことが原因と説明されている。
よしおは確かに、熊手村の役場に勤めている地方公務員であるわけで、その彼が自分と親戚の関係にある「まち」を

  • アイドル

として、「村おこし」に利用しようとすることは、アニメ「ろこどる」とも類似している、定型のパターンなのかもしれない。
しかし、なぜ原作の場合には、「まち」は、仙台に行かなかったのか? それは、都会が「怖い」からであろう。そして、実際の原作の文脈においても、「まち」が都会に行けるのかは、すごく重要なポイントになっているわけで、ここが丁寧に作られているんですね。なぜ、「まち」は都会に行けないのか。そう簡単に行けないのか。それは「怖い」からなわけでしょう。つまり、そんなに簡単に彼女は

  • 都会

に行けない。むしろ、そんなに簡単に都会に行って成功するなら、こんなに「悩んで」いないわけでしょう。
じゃあ、なぜアニメ版においては、「まち」は仙台に行って、成功してしまうのか。

  • 成長

してしまうのか?
一言で言えば、

  • アイドル

にしたかった、ということなのでしょう。アニメ版の監督が、「まち」をアイドルにしたかった。近年のアニメの傾向として、女の子が「アイドル」になるというパターンは、それ以降の展開も含めて、実利上の展開が見込める。
ようするに、どういうことか?
上記の「よしお」の発言は、むしろ、監督や脚本の「本音」なわけである。アイドルは儲かる。だから、「かわいい」女の子を、ビジネスとして「使って」、儲けようとする。つまり、自分たちが「お金儲け」がしたい、ということなのだ。
つまり、このアニメ版は、原作とまったく

  • 反対

のメッセージをだしてしまっている。アニメ版は、そもそも、「かわいい」女の子が、大人たちに「だまされて」、お金儲けの「手段」として使われるのは

  • 当たり前

だと思っている、鬼畜連中が作っている。
ところが、原作のメッセージは、まったく「反対」だ。原作は、そういう「大人」たちは

  • 怖い

ということを強調している。そして、そう思っている「まち」を、周りの大人たちが「尊重」している。なぜ、原作においては、「まち」が仙台に行きたくないと言ったら、「よしお」はそれを「受け入れた」のか。それは、すべての前提に、「まち」が一番大事だ、ということがあるからなのだ。
まあ、上記のセリフが、それと真っ向から対立していることは分かるのではないか。アニメ版の監督と脚本は、「よしお」の「まち」への悪乗りを、

として「ネタ」として、解釈した。つまり、「よしお」は「まち」を、自分の地方公務員としての出世のためなら、精神がボロボロになるまで、売女として利用してやる、という人間として、描いた(そのうち、「よしお」が「まち」をAV女優にして、精神崩壊させるところまで、OVAで描くかもしれないねw)。しかしそれは、逆に言うなら、アニメ版の監督と脚本の

  • 本音

でもあるのだ。彼らは、コミケで売っているような、薄い本でも作って、「まち」がボロボロになるまで、「消費」するのであろう。それが、彼らの「ユーモア」であり、日本のアニメの「慣習」でもあるのだろうが、少なくとも、そういった「共通感覚」は、原作者は共有していなかったようであるw